ヒューマフォビア
「ようようようよう!」
また耳障りな声が鼓膜を揺さぶる。
いつだって陽気で無邪気な声。
今日は特に虫の居所が悪い。いつにも増して神経が過敏に反応する。
「うるせえってんだよ」
「つれねえ事言うなよーご主人。おいらと楽しいトーキングしようじゃねえかよー」
――あーあーあーあーあーあーあーあーあー。
「元気がありゃあ、なんでもできっぞー! ほいほいほいー!」
――あーーーーーもう駄目だ。
「うっせえって言ってんだろうが!!」
ばんっ!
「ぶぎゅっ」
不細工な鳴き声と共に、掌の下で奴の死を感じ取る。
床に打ち鳴らした手をのそりとあげる。
「あーあ」
――分かってるよ。分かってるんだけどさ。
「相変わらずひどい事するねー、ご主人は」
持ち上げた掌にも、叩きつけたはずの床にも、何一つ残骸はない。
手にはいつもの肌色、床にはいつもの木目。
何も潰せていない。何も殺せていない。何も死んでいない。
「ほらほら、レッツトーーキーーンッグ!」
鬱陶しい招かれざる住人。
我がもの顔で居座る小憎たらしい生き物。
俺の部屋には小人が住んでいる。
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「ご主人、相変わらず陰気くさい顔してんなー。ほらスマーイル。スマーイル」
「お前は喋り続けないと死ぬ病気にでもかかってんのか?」
「ははっ! 言うねーご主人。おあいこじゃないっすかー」
「どこがだ。お前みてえなクソチビと一緒にすんじゃねえよ」
「クソ! チビなうえにクソ! 口悪っ! ははー! そりゃ友達も出来ねえっすわ!」
「マジでうるせえ……」
「ぐぎゅう」
俺はため息を漏らしながら、踵で奴を踏みつける。
無駄な事だと分かってはいるが。
「いいな、不死身ってのは」
「そんないいもんじゃないですよ」
足の裏にいたはずの小人は、気付けば俺の肩に座り、ブランコを漕ぐように足をプラプラさせながらにかっと笑う。
腹の立つ意地悪な笑顔だ。
こいつが何者なのか。俺もよく分からない。
諸事情あって俺は今一人部屋で引き籠っている。幸い、無益な遊びに手を出さなかった事で貯まった前職の貯金とネットを介した内職で、今の所不自由なくのんびりとした暮らしを営む事が出来ている。
そんな平和を乱すようにこいつが現れた。
唐辛子を逆さにしたようなとんがり帽子。団子のような丸い輪郭に、ペンですっと引いただけの様な雑な細い細い二つの瞼。鼻のあるべき場所は忘れられたように平で、口角はいつも上がりっぱなしなおかげで真顔が笑顔そのものだった。
ジャンプ力に長けたキノコが主食の、世界で最も有名な配管工を彷彿とさせる青のオーバーオールをいつも着用しているのも特徴の一つ。
このよく分からないおもちゃのような存在はどうやらおもちゃではなく、己の意志を持って喋り動き回り俺を辟易とさせる事を得意とした。
初めてこいつを見た日はさすがに驚いた。幻覚を見ていると思ったが、幻覚にしてはあまりに自由だった。そして残念な事にいくら殺してもこいつは無限に誕生し続ける。
今の所、こいつを永久に排除する方法は見つかっていない。
「たはっ! この芸人マジうけるー。マジうけるんですけどー。ツボツボ。笑いのツボにズドーン。長年の腰痛もなおっちまいますねー」
「そこまで面白くねえだろ。ってかお前腰痛持ちだったのかよ。ジジイだな」
「お? お、お、お、お、お? ジジイとはちょいとひどくありゃしやせんか? オイラ、小人でございますよ? こんなにキューティクル爆裂の小人でございますよ?」
「かわいいと思った事は一度たりともねえけどな」
「ひゃー! ショックウェーーーブ!」
甲高い喚き声を合図に俺はやつをまた潰す。
俺のルーティンワーク。
「はい、爆誕!」
そしてまたこいつは生まれる。
それもまたこいつのルーティンワーク。
部屋を出ない俺の日常という名の非日常。
でも外になんか俺は出ない。
汚らわしい世界に俺は触れたくない。
「さあ、ご主人! トーク祭りじゃーい!」
こいつは相変わらず五月蠅い。
だが、張り合いがあるという意味では、この小人の存在が案外悪くないなとたまに思ってしまう自分もいた。
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そもそもこうなったのは前職での人間関係が原因だった。
もともと人と話す事が得意ではない自分は事務職というデスクワークを選んだ。
黙々と自分の作業に打ち込める世界を想像していた。だが実際はそうではなかった。
会社の中にいる限り、そこには人が往来する。否応なしに人との対話が求められる。
そんな苦痛の中に、更なる苦痛が横たわった。
いじめだ。
無視、罵詈雑言、仕事の押し付け、パワハラという表現でもまかなえる。
社会に出てなおもそんな目にあうだなんて、どこまで世界は残酷なのかと何度も天を仰ぎみた。能力の低さ、人とまともに話す事も出来ないコミュニケーション力の低さ。俺は残念ながら平均を下回っていた。
――皆、死ね。
悪態をつくのは妄想の中。決して外に出ない暴言暴力。
そんな俺が退職届を出すのは必然だった。
それからは完全に外界を絶った。
この世の中は便利なもので、ネットさえあれば足を動かす必要はどこにもなくなる。
うまくやれば生活資金を稼ぐ事だってちゃんと出来る。
――なんだ、人と関わる必要なんてないじゃないか。
快適な暮らしだ。
このクソ生意気な小人を除けば。
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「ほーい。ほほほーい。ほっほほーい」
「黙ってろっての」
「何でですかー。ご主人、人間は喋る事の出来る生き物ですぞ? 言語を操る事が出来る生き物がそれを使わなくてどうするんですか! 喋る事に意味があるんじゃないですか!」
「じゃあさっきの訳の分からん、ほほほいとやらにも意味があるってのか?」
「ありますとも!」
「どんな?」
「そりゃほいほいですよ。なんか楽しいでしょ? ほいほーい!」
「なんじゃそりゃ」
「さあ一緒に! ほっほほーい!」
「うっさい!」
ばん、と床の音が響き渡る。
「ったく。ホント疲れるわ」
「お疲れ様でございます」
「お前のせいだっつの」
がん!
床が大きく鳴り響く。俺は思わずびくりと大きく体を震わせた。
「……なっ、なんだよ?」
「おやや?」
今のは俺じゃない。俺は床を叩いていない。
俺が住んでいるのは二階。簡単な話。
――ああ、しまった……。
先程の音の正体。それは、階下の住人が天井を突いたのだ。
「……怒られたじゃねえか」
「おーこわいこわい。でもそれとトークは関係ナッスング。はいはいトークトーク!」
「そのトークのせいじゃねえかよ……」
と俺はまたも床を叩きそうになるが、寸ででそれを止める。
そういえば周りの事など気にせず、今まで何度も荒立った音を立ててしまっていた。
階下の住人もさすがに怒ったようだ。
額には汗が滲んでいた。手も少し震えている。
姿の見えない住人の姿に俺は怯えきっていた。
いらぬトラブルを呼び込みたくない。
以後気を付けなければ。
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「ひいー! 腹、腹、はらいったー! マジこいつら神! ザ・ユニーク! ユニークの申し子!」
「笑いの沸点低すぎだろ」
「いや、ご主人。マジ節穴ですか? 節の穴ですか、その目玉? これを見て笑わないなんてどうかしてますよ! まともな人間の心を持っていれば笑いますよ! ほんと、ご主人はそういう豊かな心がないんですからー」
相変わらずに癪に障る小人だ。俺の中にふつふつと怒りが煮えたぎり始める。
いつもであればもうぺしゃんこになっている所だが、階下の住人の事もある。俺は必死で感情を抑える事に努めた。床下から突き上げられるあの音の恐怖が蘇りそうになる。
「そんなんだから、ちゃんとトーキング出来ないんですよー。会話、会話。人なら出来て当然。ご主人はそれが出来ないですからねー。そうでなきゃ、こうやって部屋に閉じこもったりしないっすもんねー」
「うるさいって」
「ひょー! キレてんすか? キレてんすか? よくないですよーキレちゃあ。それにご主人が悪いんじゃないんですか。簡単な事でしょ? こみゅにけえいしょんですよ。誰でも出来ます。ほら、おいらなんてこんなにも饒舌!」
「一方的じゃねえかよ」
「そんな事も出来ないから順応出来ないんですよ。引き籠るしかなくなるんすよ。役立たずっすよ。役立たず。うきゃー!」
ぶちり。
頭の血管が切れるような音がした。
役立たず。
今まで出過ぎた発言は当たり前だったが、今度のは駄目だ。
それは俺が一番嫌いな言葉だった。俺自身を全否定するその言葉を俺は何度浴びせられただろう。
俺は大きく腕を振り上げる。
お前まで、お前まで俺をこけにするのか。
「黙れ、クソチビ!」
気付いた時には、今までで一番、大きな音が鳴り響いていた。
小人のお喋りなど取るに足らない程の爆音。
「あっ」
――しまった……!
まずい。
すぐさま今いる位置から体をずらし、壁際にまで体を寄せ身を縮こまらせる。
耳を塞ぐ。
願わくば階下の住人が出掛けている事を望んだが、生憎今は夜の12時。
多くの者が眠りに身を任せる時間にその期待は虚しかった。
最悪の時間に、俺は音を鳴らしてしまった。
「くそっ、やべえかも……」
「やべえ? やべえっしょそりゃー。あんなでかい音鳴らしちゃさー」
「全部お前のせいだろうがっ!」
「何言ってんすか、ご主人が悪いんでしょうが。いっつもすぐにおいらの事殺すんだからさー」
「お前がうるさいからだろうが!」
「ご主人が静かすぎるんです。にしても、反応ないっすね」
「ん? ああ、そうだな」
確かに、床は何も音を発してこない。
寝静まっているのだろうか。
俺はほっと胸を撫で下ろした。
その時。
がんがんがん!!
「ひっ……!」
思わず情けない悲鳴が漏れる。
突如打ち鳴らされたのは床ではなく、俺の部屋の扉だった。
金属の扉が何度も強く叩かれる。その音の大きさから強い怒りが感じ取れた。
「うるせえぞ! 静かにしろ!」
野太い野蛮な男の声。どすのきいた怒声が恐怖を一気に高める。
その一声を残し、扉の音は治まった。
短い間の出来事だった。
恐怖は去っていったはずだった。
だが、俺の心にはまだしっかりとその恐怖がしがみついていた。
――いやだ、いやだ、いやだ。こわい、こわい、こわい。
人と離れた生活の中で、ずいぶんと味わっていなかった感情。
まともに人に話す事も、話かけられる事もなかった俺にとって、その衝撃はあまりにも大きく、残酷に心を切り刻んだ。
「ご主人。マジぶるぶる。超バイブレーション」
その夜、小人の発言にまともに反応する事も出来ぬ程、俺はがたがたと身を震わせるだけだった。
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「ご主人、テレビつけていいっすか?」
「ダメだ」
「えー、なんでですかー。あいつら見たいんですよー。あの笑いの神々を今日も拝みたいんですよー」
「駄目だって言ってんだろ」
「ケチ! ケチの神、ここにあり!」
あの日以来、また本格的に人が怖くなった俺は、とうとうテレビを見る事も出来なくなった。
触る事も話す事も出来ない画面の中の対象に過ぎない存在ですら、俺にとっては恐怖の対象と変わり果てていた。
もうたくさんだ。
やっぱりろくな事がない。人と関わると俺は痛い目を見る。
俺はもっとひっそりと暮らすべきなんだ。
暗い過去が俺を覗き見る。
やめろ、見るな。見るな。
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「ご主人。そうやっていつまでだんまり決め込んでるつもりっすか?」
「……」
「テレビ、つけていいっすか?」
「……」
「つけますよ?」
「……」
「はー。つまんな。ってかどうせ自分じゃつけれないし」
「消えろよ」
「はい?」
「消えろってんだよ」
「つらいねー、嫌われ者ってのは。そんな事言わないで、楽しみましょうよー」
「お前がいると災いが降りかかる」
「そんな呪いの子みたいな言い方ないでしょうに。ほんと口悪いんですからー」
「呪いだよ、俺にとっちゃ」
「……へー、呪いねー。へー、そんな風に言えちゃうんすねー」
俺は少し小人の声色に驚く。調子の良い発言や、腹の立つ発言ならいくらでもあった。だが不思議とそこに蔑みというのはほとんどなかったように思う。しかし、今のは違う。
俺に対しての侮蔑の感情がはっきりと、惜しみなく表れていた。
「……なんだよ」
「その呪いに救われてるのに?」
「は?」
まるで意味が分からない。こいつは何が言いたいんだ。
「散々言ってるじゃないですか。お喋りは大事な事だって。だから話しましょうよって。トーキングトーキング」
「意味わかんねえ」
「人と関わるのはごめんなんでしょ? 人と上手く喋れないから、喋るのなんてごめんなんでしょ?」
「ああ、そうだよ。その通りだよ。人なんてクソだよ」
「でも喋ってるじゃないっすか、おいらと」
「てめえは小人だろうが」
「でも人っすよ」
「人はそんなにちっちゃくねえ」
「小人なら喋れると?」
「違う。お前がやたらめったら喋ってくるからだろうが」
「無視すればいいじゃないですか。うるさかったら殺せばいいじゃないですか」
「殺してもお前は死なねえだろうがよ」
「そりゃそうでしょ」
「あ?」
「ご主人、まだ分かってないんすか?」
小人は大げさにため息をついて見せる。呆れ返っていますよとアピールするその仕草に俺はいつものように腹が立ち始める。
「何がだよ?」
「おいらが誰か分かってないんすか?」
「てめえはただのクソチビだ」
そう言うと小人はケタケタと笑いながら腹を抱えて床を転がった。
「はっはー! うけるー! うけるわー! なんだかんだご主人が一番おもしれえかもしんねえっすわ!」
「何がそんなにおかしい」
「クソチビはてめえだろうが」
急に小人の口調ががらりと変わる。いつものおどけたものではなく、荒々しい言葉遣い。それはまるで……。
「なん……だと」
「俺はお前を助ける為にこうやって出てきてやってんだろうが」
「助ける? 笑わせんなよ!」
「こっちのセリフだ、クソニート。俺はお前に出来ない事をさせてやってんだろうが。ってか変わりにやってあげてんだよ、ご親切にも」
「言ってる意味がまるでわかんねえ」
――嘘だ。俺は嘘をついている。
「素直になれよ。ご 主 人 様」
――お前が誰かなんて、薄々気づいてるよ。
「死んでろ」
俺は叩かず、払いのけるように勢いよく右手を振るう。裏拳の要領で右の手の甲が小人を襲う。
ぎっ、という短い悲鳴。
でも分かってる。
「だから、死なねえっての」
――お前は死なねえよな。
「俺が生きている限りな」
「分かってんじゃん、こたつ虫」
お前は俺の願望。俺の羨望。叶わなかった俺の希望の残骸。
「俺はお前のご主人だからな」
「決めてんじゃねえよ敗北者」
俺は、本当は、人と関わり合いたかった。分かり合いたかった。でも俺にその力はなかった。そればっかりに俺は排除された。そして俺は俺だけの居心地のいい世界に逃げ込んだ。
でも、どこかでおかしくなったんだ。人との交わりを絶った結果、どこかでそれを熱烈に望んでいる俺がいた。だが俺を壊した人間との過去がそれを抑えつけた。もう俺に怖い思いをさせないようにと必死になっていた。
そんな俺を憐れんで、俺は俺に魔法をかけたのだ。
本能なのか自衛のスイッチなのか。
そして、気が付けばこいつが生み出された。
俺の心を体現するように、小人は喋り続けた。
俺がいる限り、こいつは生まれ続ける。
不器用な俺らしい、俺の為の、俺への救いの為に。
「仲良くしようぜ。ご主人様」
「調子に乗んなよ、クソチビ」
こいつとの生活も、悪くはない。