虐げられるはずの花嫁は、ムキムキの巨漢
とある子爵家の若当主は従順で都合のいい女を求めていた。ずばりお飾りの妻。体面を整えるためだけの結婚なので、嫁いで適当に家のことをしていたらいい。しなくてもいい。どうせ相手はしないのだから妻となる女は誰でもいいのだが、その条件に合致するというのは案外難しかった。
そこである男爵家に目をつけた。
散財気味で家計が苦しい男爵家夫妻には娘がふたり。最近社交界でうわさの可憐な妹と、引きこもりの姉がいる。姉は前妻の娘だかで立場がなく、明るく可愛らしい妹を妬んで嫌がらせをしたらしい。罰として夫妻は姉をずっと屋敷から出さないでいるようだ。
だが、こういう噂はたいてい逆。
力のある方が表に出て自分に都合のいい話を周囲に話すだから、実際のところ被害者は姉なのだろう。可愛く振舞っている妹こそがしたたかで、姉はそれに負けただけ。そこが狙い目だった。やり返すこともなく、良いようにされている気の弱い娘ということなのだから。
若当主は男爵に持ちかけた。
姉を差し出せ。妻として娶ってやる。婚姻したとしておまえらとは関係をもたんが、その代わりに十分な金をくれてやろう。不良債権の姉を引き取ってやるのだからこれ以上の話しはあるまい。男爵はその話に目を輝かせた。
「いやはや生意気な娘でして」と卑下する男爵だが、その割には話に前のめりだ。
仕方なく結婚した前妻との間の娘。産後の肥立ちが悪く、そのまま死んだあとは前から可愛がっていた女を後妻として迎えた。年頃の娘がふたりいると何かとうるさいが、こんな良縁に恵まれるとはいやはいやと嬉しさを隠そうともしない。
嫁入り道具は邪魔だからいらない。衣装の類は最低限もってこい。こちらで用意するつもりはない。屋敷の使用人を補充するのも面倒なので世話係をひとりだけ連れてこい。最初に立場をわからせておく必要があるのでこの辺りを重々言い含め、その場で契約書を交わした。前金でいくらか渡してやると「いつそちらへやりましょうか」と言ってきたので「迎えの馬車をやる」と答えておいた。
そうして身売り同然に家を出されたのはミレイユという名の少女だった。
◇
嫁いでくる娘にはなんの興味もなかったので、ジークは恋人であるジャンヌとの時間を楽しんでいた。
「そういえばもうすぐじゃない? 奥サマがくるの」
「顔すら知らないし、興味もない」
「まあ、ひどい人」
そうは言いつつも嬉しそうなジャンヌ。
貴族にとって結婚は仕事のひとつなので、恋愛は別に楽しむのが大人のマナーだ。平民のジャンヌはかわいいが結婚相手となると違うので、とりあえず結婚を済ませて大人の恋を楽しみたい。子どもができたら養子として家に入れればいいし。
使用人たちにはミレイユが来ても適当に相手をしておけと言った。会うつもりもないし、いちいち報告も必要ないと。迎えによこした馬車も着く頃合いだろう。そう思っていたある日、執事が血相を変えてジークのもとへやって来た。
「旦那さま、その、奥様となるミレイユ嬢が来られたのですが――」
「報告など必要ないと言っただろ」
「しかしながら少しばかり問題が」
「しつこいぞ」
本邸はジャンヌが嫌がるのでジークたちは別邸にいた。わざわざここへ来るとはどういうことだ。問題が起きてもそっちで解決しろと怒鳴りつけ、ジークはジャンヌの待つ寝室へと足を向けた。
だがその日を境に、本邸の使用人たちがジークのもとへ度々来た。言いたいことがあるのだろうが誰もが要領をえず、かろうじてあの男爵家の娘のことだとわかる。
「だから何度も言わせるな。報告は不要だ。おまえらで適当に対応しろ!」
「し、しかし」
青ざめた顔の執事や侍従がなにか言いたげに口をパクパクしていたが、ジークが「しつこい」と追い払うとそれ以上は何も言わなかった。
ある日、毎月の決算書類を確認するために本邸へ寄った。そこで食費と屋敷の修繕費が高騰していることに気付く。あまりにもおかしいので執事に確認したところ。
「奥様とお会いください」
「……それが原因なのか? 食費はともかく修繕費も?」
「奥様とお会いください」
これしか言わない。
近くにいた侍従もぶるぶる震え、口を開こうとしない。
屋敷の修繕費用については男爵家へも請求しているそうだ。しかしその金額に慄いたのか、いつのまにか彼らは夜逃げをしていて未だ消息を掴めないらしい。貴族が夜逃げするとはあまりにおろか。彼らの未来は暗雲立ち込めたようなものだ。本当にバカなことをしたものだとジークは思う。
舌打ちをして、重たい腰を上げた。
どうやら新妻は屋敷で好き勝手をしているらしい。立場を分からせるためにジークが直接言った方がいいだろう。面倒だが仕方がない。案内役として執事を先に歩かせたが、部屋に近づくたびに小刻みに震え、顔が青ざめていく。
「こ、こちらでございます」
「そうか」
ジークはノックもせずがちゃりとドアを開けた。
着替え中だろうが関係ない。わきまえるべき立場を叩き込むのに礼儀など不要だ。
「おい、いくら結婚したとはいえ調子に乗るのもいい加減に――」
「きぃえええええええええええいッッッ!!!!」
爆音の奇声が建物をびりびりと揺らした。思わず目をつぶってしまったが、開けた瞬間視界に入って来たのは目を見張るような巨体だった。おそらく長身のジークより高い身長。太い四肢、太い首、太い眉毛。誰が見てもカツラとわかる髪。それがぎっちぎちのワンピースドレスを着て、ジークの方を射殺さんばかりに睨んでいる。
「うら若くいたいけなレディの部屋に勝手に入ってくるとは何事だ!!」
「……え」
「何事だと聞いているッ!!」
あまりのことに動けないジークへ、女装したバケモノが詰める。バケモノは近くにあったつい立を片手で持ち上げると壁に叩きつけ、あらわになった鋭利な木片をジークへ突き付けた。
「貴様、殺す!!」
「ひいいいいいっ!」
腰が抜けてなさけなく床へ尻をつくジークの前に、ひらりとした白いお仕着せが目に入った。
「ミレイユ様どうか落ち着いてください。レディは殺すなんて直接的な言葉は使いません。それにこの方はきっと夫のジーク様です」
「ふーっ、ふーっ」
興奮するバケモノ。どうやらメイドがその間に入ってくれたらしい。
しかしジークはそれどころじゃない。今の状況がおかしすぎて頭がパンクしそうだ。
(今ミレイユと言ったか!? まさかこのバケモノが!!??)
あの男爵家の引きこもりの姉だというのか。そんなまさか。予想では口ごたえせず己の境遇も改善できない弱い女だったはずだ。ジークのなかでかすかに残った勇気を動員し、震える口をなんとか動かした。
「お、おまえ、男だろう。ミレイユとは何の冗談だ――」
「うる゛ぁぁあああああああああああああッッッ!!!!」
凄まじい破砕音と共に床板が割れた。バケモノが足で踏み抜いたのだ。
「我が名はミレイユッ!! 貴様に求められ参上した花嫁!!」
ジークの周囲から人がいなくなったのがわかった。逃げ出したか、それとも気を失ったか。確実であるのは目の前にはミレイユを自称するバケモノがいるということだけ。
「……さあ愛しの花婿よ……この邂逅を祝い、熱い抱擁を交わそうではないか……」
太い腕を広げ、指をわきわきするバケモノ。完全に目が据わっている。奴は本気だ。あの腕に捕まったらただじゃ済まないのを感じた。おそらくジークの四肢はちぎれ五臓六腑が壁へ床へと飛び散るだろう。残った胴体は雑巾のようにしぼられ、頭で手毬をするに違いない。そして遠投でもして遊ぶのだ。
奴はミレイユ。それを否定すれば死。
しかしこのまま受け入れても待つのは死だ。
一歩、また一歩と近づいているワンピース姿のバケモノに、ジークは涙目のへっぴり腰で後ずさることしかできなかった。捕まったらやられる。背を向けてもやられる。それだけは本能が告げていた。
だが、その時。
「ミレイユ様、その、少々はしたのうございます」
またもやお仕着せのエプロンがひらりと目の前に現れた。幾分か無言の空気が流れ、ふうううううううと大きな息を吐く音が聞こえてくる。
「……すまない、素敵なレディたるもの、このようにガッツいては恰好がつかないな」
「いえ、ちゃんと素敵ですよ」
もしかしたら助かったのかもしれない。
安心すると同時に気が抜け、ジークの意識は宙へと飛んでいったのだった。
◇
ミレイユの過去は決して幸せに満ちたものではなかった。母と思っていた人とは血が繋がっておらず、そのせいか妹と同じ扱いをしてもらえなかった。『家族』のなかにミレイユは加えてもらえなかった。
いきなり子爵に嫁ぐことになり、聞かされた時はどうしようと途方にくれたものだ。ただひとりだけ使用人を連れていっていいと言われていたので、ミレイユはしばらく悩んだあとに馴染みの男へ声をかけた。彼はミレイユと共に子爵家へ行く気で、むしろなぜすぐに言ってくれなかったのかとむくれたほどだった。
彼――ロイクはミレイユを雑に扱う男爵家をよく思っておらず、常に「そろそろ仕留めていいですか」と聞いてきた。意味はよく分からないなりに物騒なことだけは伝わってきたのでミレイユはそれをひたすらなだめていたのをよく覚えている。けれどその雰囲気が伝わったのか、男爵家のなかで冷たくされることはかなり少なくなった。
「俺がお嬢様を守ります。命に代えてでも」
ロイクはいつもそう言っていた。
彼と出会ったのは数年前だ。雨に打たれ弱っているところを拾って世話をし、その後は恩義を感じてかずっと側にいてくれる変わった人だった。傭兵業で少しヘマをしたと言っていた。歳はわからないようだがきっとミレイユより少し年上だろう。たまにごはんが足りなさそうで、ミレイユはこっそり自分の分を与えていたのを覚えている。食べれば食べるほど大きくなる体は圧巻で、いつのまにか熊のような巨体になっていたのだからミレイユは誇らしい気持ちになった。
ミレイユにとってロイクは唯一の味方だった。
いわく、これから夫となるジークは、すでに愛人のいる最低の男らしい。身長190センチの体重127キロのロイクはそう言って、片手でクルミを粉砕し唸った。口から怒りを可視化したような湯気が漏れ出ている。クズ男は今後ミレイユをどんな扱いをしてくるかわからないから、最初が肝心だと言った。
「最初に力関係を見せつけるのです。こちらに手を出したらどうなるか分からないぞと」
もう男爵家から出るのだから遠慮もいらないとロイクは言う。
「お嬢様もいい加減目を覚ますべきです。家族の情は大事ですが、囚われるべきではない。そして強くなるべきです。これから生きていくためにも」
ミレイユはしばらく考えた。
もしロイクのように強くなれたら、寂しさも感じなくなるのだろうか。少なくとも無力な自分に打ちひしがれることはなさそうだ。
「……うん。わたし、強くなる」
「その意気ですお嬢様」
ひとまずは強くみせるための態度やセリフをいくつか指南をしてもらった。しかしミレイユにはなかなか難しく合格をもらえない。やはり威厳が足りないらしい。あと筋肉と身長と体重。表情筋も軟弱と言われた。そんな睨みでは子猫一匹脅かせないと。
「かくなる上は入れ替わりか」
「入れ替わり?」
「はい。俺がお嬢様になりすまします。そしてクズを滅します」
「滅す?」
言葉をかみ砕いて呑み込む。つまりロイクはミレイユが悲惨な目にあわないように立場を交換しようと言っているのだ。そんなこと可能なのだろうか。
「もしお嬢様がこんなにも可憐な容姿だと知ったら最後、クズは確実に毒牙を伸ばすでしょう」
「え、でも恋人がいらっしゃるならわたしなんて見向きもされないんじゃ」
「操を立てるような男ならばあんな取引なぞしません。それにお嬢様はお優しいからほだされそうで怖いです。クズの本質は相手の優しさを簡単に消費すること。今のままではお嬢様の心はひどく疲弊するでしょう。子爵夫人という立場は素晴らしいと思うので、せめて性根を叩き直しお嬢様と対峙して大丈夫だと判断がつくまでは入れ替わっていたほうが安全かと」
「そうなのね……」
ロイクが心配してくれるのは嬉しい。
ずっとずっと側にいてくれるならそれ以上安心なことはない。
「服はどうしましょう。あなたの太ももってわたしの腰より太そう。どうがんばっても同じ服は無理よ。ちぎれてしまう」
「大丈夫です、布さえ用意できればお嬢様と似たような服は用意できると思います」
そういえばロイクは手先が器用なのだった。
服も靴も自作しているのだから、ワンピースくらいわけなさそうだ。
「さすがだわ。なんて頼りになるのかしら」
「ありがたきお言葉」
そうしてロイクは無事貴族令嬢としてミレイユに成り代わった。
男爵家を出る時は全身すっぽりローブをかぶり、迎えに来た馬車へ乗り込む。用意周到なロイクはすでにお手製ワンピースドレスを身に着けており、道中は御者にさえその姿をミレイユと認めさせた。
「我が名はミレイユ。貴様となにか相違あるか……?」
「ごごごございません滅相もありませんあなたさまはミレイユ様であります!!」
頭を片手で掴まれた御者はそれ以降おいしい食事処に泊まってくれたし、宿もいいところに泊まってくれた。やはり力こそ全てなのかもしれない。メイドに扮した正ミレイユはこの日から握力を鍛えるべくクルミを常に握りしめるようになった。
子爵家の屋敷に着いてからも、堂々とミレイユを演じるロイクに周囲は驚きつつも最後はそうと認めた。周囲には失神したメイドや青ざめた使用人もいて、泣きながら逃げる人たちも多数いたけれど、これはロイクの言う力の証明ができたからなのかもしれない。
「さすがですミレイユ様」
「これで当面の衣食住は大丈夫だろう」
やはり力こそすべて。小さなメイドは毎日5分は鏡の前で睨む練習をすることを決めた。あとできるだけごはんも食べよう。ロイクは驚くほど食べる。あれくらい食べればミレイユも大きくなれるかもしれない。
「我々の部屋はどこだ」
「こここここちらでございます……!」
今にも死んでしまいそうなほど血の気のない男性使用人だったが、廊下を少し進んだところで恐る恐るこちらを振り返った。
「あの、メ、メイドの方はこちらへ――」
「貴様死にたいのか……?」
「ひいいいっ」
「このメイドは我が腹心。部屋を離すことは許さん」
これには少しだけ驚いた。
けれどロイクと一緒ならどんな場所にいたって心強い。その大きな背中を見上げて、ミレイユは少しだけ頬を染めた。
その後は食事を抜かれることもなく、イジメられることもなく嫁いできた新妻とそのメイドとして比較的平穏に暮らすことができた、と思う。一度だけ食事に睡眠薬が大量に盛られ、その晩に奇襲をかけられたがロイクは簡単に返り討ちにしていた。実行犯を中庭の木に吊るしたのが効いたのか、それ以降は平穏そのものだった。
――夫であるジークと対面するまでは。
◇
「無理無理あんなバケモノが妻だとか絶対無理だッ!!!!」
本邸の自室。目覚めたジークは飛び起きると同時にそう叫んだ。
「しっ。ジーク様、声をお控えください。どこで聞かれているか分かりません」
不安げな執事が辺りを見渡しながらそう囁く。
ミレイユたちは当初屋敷の端にある客室にいたのだが、破壊破損によって使用不可能となる度に部屋を移動し、ひとつ、またひとつずつ当主の部屋へ近づいているのだとか。このままではいずれジークの隣の部屋まで来るかもしれない。最悪壁がなくなり同部屋になるかも。
それを聞いてくらりと目眩がした。
「ジーク大丈夫?」
「ジャンヌ……」
軽い気持ちだった。
結婚して愛人を持つなんて誰でもやっている。だからそれを見越して、大人しく文句を言わない、ついでに相手の家とも関係をもたなくていい妻がほしかった。まさかあんなバケモノが来るなんて誰が想像できた?
「……今すぐ離縁したい」
ぽつりと漏らした一言に執事ががばりと顔を上げた。
そしてどこからともなく使用人たちからのぶ厚い嘆願書をジークへ差し出す。それには今すぐミレイユとの婚姻関係を解消してくれとの願いが切々と綴られていた。離縁が無理であるのなら、せめて森へ放ってくれとも。また、一緒にいるメイドは唯一の橋渡し役で彼女がいなければこの屋敷はもう終わる、どうかあの子だけは守ってほしいと。
「ジーク様、どうか聞いていただきたい事がございます」
執事が一段と声を落とす。
「古今東西、婚姻の目的とは子をもうけて次代へと繋げていくことでございます。家格で選ぶのは似た価値観であり養育環境の安定が見込めるから。容姿や能力で選ぶのはよりよい子をなしたいから。そのために相手を吟味し選ぶのです」
恋を楽しむためにするものではない。
ましてよく調べもせずにするものではない。
横にいるジャンヌが不機嫌そうに表情を歪める。
「あなた様はそれを怠った。結婚が貴族の仕事であるという言葉の重みを今一度お考えください。そして改めて言わせてください。結婚とは子を作ることだと。そしてあなた様の今現在の妻とは誰でしょう」
ミレイユ。
女の格好をしたいかついバケモノ。
簡単に手でクルミの殻を粉砕し、片手で家具をたやすく破壊するアレ。あらゆるものを噛み砕き視線だけで人を殺すと言われても信じるだろう。
「……子を……作る……? アレと……?」
ぞわりと背筋が冷え、寒くもないのに股間がきゅうっと縮こまった。
あれは自身を女と称している。
否定は命にかかわるが、そんな度胸はジークにない。
『……さあ愛しの花婿よ』
もしあれに捕まり初夜を強要されでもしたら。
そんな想像に心臓が大きな音を立てて軋む。呼吸が浅くなり、無意識にベッドシーツをぎゅっと握りしめていた。
「無礼を承知でお願いいたします。どうか、どうかジーク様の男性機能が著しく低下したことにしていただけませんでしょうか……!」
子がなせない体であると。
そうであればこれ以上とない立派な離縁の理由になると執事は言う。
間違ってもミレイユの瑕疵にしてはいけない。確実に殺されるし、絶対に楽に死なせてもらえないだろう。
「ふざけないでちょうだい、そんなバカなことできるわけないわ! そんな理由で申し出てごらんなさいよ、ジークは誰とも結婚できなくなるのよ!」
「ジャンヌ様は直接見ていないからそういう事が言えるのですよ! 今からでも見てきてはどうです!」
「な、なんですって……!」
横で言い合いを始めてしまった執事とジャンヌを尻目に、ジークは静かに目を閉じ、呼吸を整えた。子ができないなど男の沽券にかかわるが、それは命あってのことである。
『……さあ愛しの花婿よ』
両手を広げるミレイユが再び脳裏をよぎる。
「ひいいっ」
「ジーク様!?」
頭を抱えて震え出すジーク。
無理だ。無理だ無理だ無理だ。
「それでいい! それでいいから今すぐそれで手配をしてくれ! 頼む!」
こうしてジークとミレイユの婚姻はわずか三ヶ月で終わることとなった。
いや、無事に終わらせることができた。
ミレイユたちが出て行った日、使用人たちは涙を流し、この苦難を乗り切ったことを称えあった。ジークも皆を労うために全員に祝い金をだした。
離縁を承諾してもらうのも本当に命がけで、「このミレイユの何が気に入らない!」と机を破壊し慟哭するバケモノにひたすら「ジークの息子が使い物にならない」と説明した。そうするうちに、本当に使い物にならなくなり、以降ジークは誰も抱けなくなった。
男としてのプライドは地に落ち、卑屈になり、ジャンヌとも上手くいかなくなってやがては破局した。屋敷の修繕費や慰謝料で子爵家の資産も大幅に目減りし、持ち直すのにかなりの時間がかかった。
ただ、あの件を経て「噂は鵜呑みにしない。この目で絶対に確かめる」というスタンスを絶対のものとして過ごした結果、領地は安定し、結果的に経営も上向きになった。後継者として迎えいれた養子も優秀ですんなりと代替わりもできた。そして独りの時間は長かったものの、後年には生涯のパートナーと呼べる人と出会うことができたのだった。
◇
「あの姿は嫌ではなかった?」
「正直に言うとだいぶ嫌でした」
離縁の際、子爵家から慰謝料としてたくさんの金銭をもらった。それを当面の生活費としてロイクとミレイユは子爵領の端っこで暮らすことにした。
「俺のことだと分かっているのに、どうしてもお嬢様のことを言われている感じがして腹立たしくて……あなたの評判を落とすことになってそこは申し訳なく思っています」
離縁の申し出はこちらとしても願ったりなのに、何の非もないミレイユに離縁を突き付けるとはどういうつもりだと少し揉めてしまった。当主を滅してミレイユを実質屋敷の主人と確定させてから入れ替わりを終わりにする未来もほんの少し考えていたのもある。ただ、当のミレイユ自身が離縁できるものならしたいとロイクに訴えてきたので聞かざるを得なかった。結果的に慰謝料が跳ねあがって不自由はしなくてすみそうだが。
「別にそんなこと気にしてないわ。むしろわたしの為にごめんなさい」
「いいえ。俺がしたくてやったことです。それよりも本当にこれでよろしいんですか。男爵令嬢として社交界へ戻ることもできたのに」
「いいの。貴族にはなんの未練もないし、戻りたくもないわ。このまま平民として過ごすほうがずっと気持ちが楽よ。ロイクと一緒ならどこでだって安心だもの」
そう言って笑顔を向けてくれるミレイユに、じわりと涙腺が緩む。
「ね、だから自由になれたことを祝いましょう! ここはいい所だし、子爵様にもらったお金は多すぎるけど、ここで使えば巡りめぐって子爵様へ還元されるだろうから気負いなく買い物できるわ。お祝いは何がいいかな。あ、子爵家で食べたシチューが美味しくてね、実はレシピをこっそり教えてもらったの。よければ一緒に買い物にいってそれを作らない?」
「はい。そうしましょう」
男爵家にいた時は守りきれなかった。
やはりお嬢様と傭兵くずれでは一緒の空間にいることもままならず、だから子爵家へ行った時は出来るだけ離れないでいいように強権を振りかざして、自分の手の届く範囲にいてもらった。気持ち悪いと思われようがミレイユの安全が絶対だった。二度と目の届かないところで泣いてほしくなかった。
「重たくなるかもだけど、荷物持ってくれる?」
照れたように頬を赤らめ、ロイクへ笑いかけてくれるお嬢様。
「……あなたの為なら、俺は道化でもなんでもやりますよ」
その笑顔を守れるのなら。
彼女に好きな人ができてもちゃんと応援する。結婚するときも笑って見送る。だからもうしばらくはこうして側で守らせてほしい。
衣類棚の奥に仕舞った巨大なワンピースドレス。
二度と使うことがないよう願いつつ、ロイクはミレイユの後ろをのっしのっしとついて歩くのだった。
始終「何を読まされているんだ」と思った方もいらっしゃるかと思いますが私も始終「何を書いているんだ」と思っていたので大丈夫です合ってます。




