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第二話

(二)


 引き続き、「ウルトラスーパーひたち1号」に乗車している。

 すでに土浦駅、友部駅と停車し、水戸駅へと向かっている。


 驚いたことに、土浦でも友部でも、さっそく下車する人たちがいた。皆が皆、終点の仙台まで乗っていくのかと思っていたが、そういうわけでもないようだ。新型特急には乗車したいが、時間の都合やお金の都合などがある人もいるのだろう。


 8時12分、水戸駅に到着。

 さすがは最新型だ。途中、余裕のある走りをしているように感じたが、それでも上野駅での遅延はすでに取り戻している。

 近い将来、常磐線の特急列車が全てこの新型車両で統一されれば、その性能に合わせてダイヤが見直され、スピードアップが図られるのではないだろうか。

 8時13分、水戸駅を発車。

 この水戸駅では、土浦、友部よりもさらに下車していく人が多く、私が乗車している7号車は、立っている人がまだたくさんいることには変わりはないが、それでも上野駅発車時に比べればかなり余裕ができた。

 

 次は、勝田駅に停車する。

 その勝田駅では、ひたちなか海浜鉄道・湊線に乗り換えることができる。


 突然ですが、みなさんは阿字ヶ浦の海をご存知でしょうか?


 *****


 私が初めて湊線に乗車したのはもう何十年の昔のことで、まだ小学生の時だった。

 私は埼玉県の東北本線の沿線に住んでいたのだが、埼玉県と言えば、ご存知の通り海はない。そこで夏休みには、海水浴のために、わざわざ茨城県の阿字ヶ浦まで出かけたのだった。

 当時、海水浴シーズンに限り、「かわらご」という便利な列車が運転されていた。

 埼玉県の大宮駅から東北本線を走り、小山駅の手前で短絡線を経由し水戸線へ、そして友部駅から常磐線へ乗り入れ、常陸多賀駅まで行く列車だった。

 小学生だった私は、父と二人で「かわらご」に乗車し、勝田駅で湊線に乗り換えた。ちなみに、当時の湊線は茨城交通という私鉄だった。第三セクターのひたちなか海浜鉄道に経営が移管されたのは、2008年のことだ。

 勝田駅から乗車したのは、今では考えられないようなオンボロなディーゼルカーで、ガタガタと揺られながら終点の阿字ヶ浦駅まで乗って行った。

 そして、駅から坂道を下ったところに広がる海水浴場で遊び、真っ黒に日焼けして、また湊線と「かわらご」に乗って帰った。

 帰りの湊線に乗車する際、「あじがうら」と記された駅名標をバックに、父と二人で写真を撮った。たしか私は、ピースサインをしていたはずだ。だが、その写真は、どこへ紛れ込んでしまったのか、いつの間にか見当たらなくなってしまった。

 その後、思い出深い「かわらご」も、いつの間にか運転されなくなってしまった。そして、小山駅の手前で東北本線と水戸線を結んでいた短絡線も、いつの間にか廃止になってしまった。


 2011年のあの日、湊線も大きな被害を受け、全線で運行できなくなってしまった。

 復旧作業が進められる中、5月1日、湊線の中心である那珂湊駅で、車両たちの撮影会が開催された。

 撮影会の当日、那珂湊駅には、湊線を応援しようと多くの鉄道ファンが詰めかけた。日頃、鉄道には乗るばかりで撮影することにはあまり興味がない私も、勝田駅から代行バスに乗車し那珂湊駅へ向かった。

 会場ではグッズの販売も行われ、日頃、そういうことにはあまりお金を使わないようにしている私も、いくつか購入した。『勝田-阿字ヶ浦』と記され、本来なら車体の側面に取り付けられる、いわゆる「サボ」まで購入してしまった。プラスチック製のレプリカではなく、職員の方々の手作りの鉄製のものであった。買ってしまったものの、これは背負っていたリュックサックには入らず、その後、帰宅するまで持ち運びには苦労することになった。

 那珂湊駅からさらに代行バスに乗車し、阿字ヶ浦も訪れた。

 久しぶりに訪れた阿字ヶ浦の海には、誰もいなかった。海水浴のシーズンではないとは言え、あまりにも寂しい光景だった。

 私は、浜辺近くの食堂に入った。

 店内には、レジに女性が一人と、厨房に男性が二人いた。しかし、客は私だけだった。

 私は海鮮丼を注文した。その海鮮丼ができてしまうと、厨房の男性たちはまた手持無沙汰になってしまった。

 私は一人、黙々と海鮮丼を食べた。その最中、箸と口を動かしながら、


 『もしかすると、今日一日で、この店の客は私一人だけなのかもしれない』


 と、そんなこと考えてしまった。

 レジでお金を払うとき、後で考えてみれば訊かなくてもよかったことを訊いてしまった。


 「ふだんなら、この時期でももう少し来てくれる人がいるんですけど・・・」


 と、女性は答えてくれた。

 ゴールデンウィークだというのに、家族とでもなく、仲間ともでもなく、一人で訪れてしまったことが、なんだか申し訳ないような気がした。そうは言っても、私は一人旅ばかりだから仕方がないのだが・・。


 湊線は、その後、同じ年の6月25日に那珂湊-中根 間の一駅だけ復旧し、さらに、7月23日に全線で運行を再開した。


 ***


 8時18分、我が「ウルトラスーパーひたち1号」は勝田駅を発車した。

 常磐線の上りホームに隣接している湊線のホームには、停車している列車は無かった。


 8時26分、大甕駅を通過。

 この大甕駅では、かつて日立電鉄という私鉄が接続していた。

 残念ながら、2005年に廃止になってしまったのだが、廃止になる前に一度だけ乗車したことがある。


 ***


 もう随分昔、と言っても大人になってからのことだが、その日、私は水戸駅で水郡線に乗り換え、常陸太田駅へ向かった。

 その常陸太田駅のすぐ目の前に、日立電鉄の常北太田駅があった。

 常北太田駅から乗車した電車は、私が子供のころ地下鉄銀座線で活躍していたものだった。しかし、なぜか塗装は、銀座線というよりも、むしろ丸ノ内線のような赤を基調としたド派手なもので、しかもたったの一両だった。

 大甕駅を通り、終点の鮎川駅まで乗車した後、途中の河原子駅まで引き返した。

 河原子駅から直線で600mぐらい東へ行くと、河原子海水浴場がある。

 小学生のときに、阿字ヶ浦へ行くために乗車した「かわらご」という列車の名前は、その河原子海水浴場からとったものだったのだ。

 河原子駅のホームは築堤の上にあり、家並の先に少しではあるが海を見ることができた。


 『へえ、こんなところだったんだなあ』


 と、私は「かわらご」という名の駅にやってきたことに満足し、記念に「河原子」と印字された切符を購入した。


 日立電鉄が廃止になった後、さらに十年近く経ってから、一部ではあるがその線路跡をたどってみた。

 大甕駅の南600mぐらいの地点から久慈浜駅跡へかけて、線路跡はバスの専用道に生まれ変わっていた。私はそのバスに乗車し、少しではあるが当時を偲ぶことができた。

 さらに河原子駅跡を通り、終点だった鮎川駅跡へも行ってみた。

 現役だった当時の鮎川駅は、常磐線の常陸多賀-日立 間の線路のすぐ横にあった。だが常磐線には駅はなく、


 『なんでこんなところが終点なのか?』


 という不思議な駅だった。

 鮎川駅があったところには、新しい住宅が建ち並んでいた。すぐ隣にあったガソリンスタンドもすでに取り壊されていた。

 当時を偲ぶことができるものと言えば、鮎川駅のすぐ横にあった常磐線を渡る小さな踏切と、目の前の国道にあった「鮎川」という名のバス停くらいだった。


 *****


 8時30分、我が「ウルトラスーパーひたち1号」は、かつての鮎川駅跡をあっという間に通過した。


 『ここに鮎川という駅があったんですよ』


 と思い返す間もないほどであった。むろん、駅の跡なんて何もないのだから、そんなことを気にする方がどうかしているのかもしれない。


 8時33分、日立駅に到着し、そして発車した。


 過去を振り返り懐かしむことは、決して悪いことではないと思う。生きれば生きるほど、それは誰にでもあるものだから。

 例えば、電車に小さなお子さんを連れた人が乗ってくる。その子の愛らしい姿に、


 『ああ、うちの子にもこんなころがあったなあ』


 と、過ぎ去った日の思い出を重ねる。それは、ごく自然なことではないか。


 しかし、鉄道に乗ることは違う。

 過去を振り返り、


 『昔、あんな列車に乗ったなあ。なんとか線に乗ったなあ』


 なんて懐かしんでも仕方がない。

 鉄道に乗ることだけは、過去ではなく今を語りたい。乗って乗って乗って、それでも乗って、そうして初めて、振り返るべき過去も生まれるのだから。それが、私のような人にとっての、幸せというものではないだろうか。


 我が「ウルトラスーパーひたち1号」は、何も語らない。ただひたすら走り続けている。



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 (3)へ続きます。


 以下、補足です。


 ① かつて、海水浴シーズンに、大宮-常陸多賀 間に「かわらご」という列車が運行されていた件は、事実と私自身の体験に基づいています。私が乗車したのは、昭和50年代のことでした。なお、細かい内容には脚色を加えています。

 ② ひたちなか海浜鉄道に関して、2011年5月1日に那珂湊駅で撮影会が開催された件は事実に基づいています。私自身、その撮影会に参加しました。ただし、細かい内容には脚色を加えています。また、同6月25日に那珂湊-中根 間の一駅だけ復旧した件、さらに同7月23日に全線復旧した件も、事実に基づいています。

 ③ 日立電鉄について、2005年に廃止(3月31日限り)になった件は、事実に基づいています。また、その後、その線路跡の一部がバス(ひたちBRT)の専用道になっている件、及び、鮎川駅跡が住宅地になっている件も事実に基づいています。


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