敗国の娘、送られる
空は不釣り合いなほど澄みきっていた。
焦げた石垣の匂いだけが、綺羅という国が敗れた現実を主張している。
小国《綺羅》 は、絹で細く栄えた国。
武においては、隣国 大国《朱璃》 に敵うはずもなかった。
それでも王と重臣は、慢心と焦りから朱璃に刃を向け、敗れた。
その和睦条件のひとつが――
「王家の娘を、朱璃皇太子の妃候補として献上すること。」
妃候補として選ばれたのは、鈴だった。
鈴の母・琳華は元は“下女の娘”だった。
王にたまたま見初められ、側妃にも昇れぬまま、ひっそり子を産んだ女。
そのため、鈴は生まれながらにして“王家で最も価値の低い娘”だった。
綺羅の王城前。
黒塗りの馬車がひとつ。
妃を迎える馬車ではなく、荷を運ぶための、無情な箱の形。
鈴はその前に立っていた。
装いは淡い灰桜。
華やかさはひとつもない。
「主張しない娘として送られる」ことを示す色。
鈴は馬車へ乗る前、数日前のことを思い返していた。
妃候補として朱璃国へ鈴が選ばれた日。
鈴の暮らす静かな離れに突然に父である王と腹違いの兄たちが来訪し、一方的に告げる。
「朱璃へ向かえ。
皇太子《黎真》の妃候補として。」
その声音には、娘への情は欠片もなかった。
主と下僕の間にあるような、ただの命令の音だった。
鈴は静かに頭を垂れる。
「畏まりました。」
王の横に並ぶ兄たちが嘲るように笑う。
「妃候補といっても、朱璃の宮には数えきれぬほど女が集められているという。」
「母が下女の出でも、妃の列には並べるのか?」
「まあ、どう扱われようが綺羅にはもう戻れないわね。」
その言葉に、鈴は何も思わなかった。
(……最初から私に、居場所などなかった。)
母――琳華は、静かな人だった。
上へ立とうとせず、ただ鈴に微笑んでくれた。
“下女の娘”とささやかれながらも、手だけは温かかった。
王は最後に、突き放すように言う。
「妃候補として名を残せれば本望だろう。
……もう綺羅にお前の席はない。」
それは父が娘に告げる言葉ではなく、
国が捨てる荷物に貼る紙片のようだった。
鈴は、ただ静かに返す。
「承知いたしました。」
馬車へ乗り込む足取りは、軽くも重くもない。
ただ、終わりへ向かうような歩み。
馬車に乗り込み、一度だけ振り返る。
母と共に暮らしていた離れ。
そこだけは、誰にも踏みにじられず残っている。
かつて、優しい手で髪を梳いてくれた母が生きていた部屋。
鈴を孕んでいることがわかってから王の妃たちの手によって、微量な毒を飲まされ続け、徐々に衰弱し、最後に息を引き取った場所。
母が亡くなった日、
鈴の心は、母の手と一緒に消えた。
幻のように、白梅の香が鼻先をかすめる。
(おかあさま。)
呼んでも、返事は来ない。
馬車の扉が閉じる。
外の声も、宮の姿も、すべてが遮断された。
車輪が動き出すと同時に、
鈴の世界は完全に途切れた。
誰も見送らない出立だった。
鈴は膝の上で手を重ねる。
冷たい指先。
血の通いが悪いのは、己の体に流れている毒に慣れすぎたせいかもしれない。
故国が遠ざかる。
鈴は目を閉じる。
——これは、追放にすぎない。
けれど、もし。
もし、世界のどこかに呼吸が許される場所があるなら。
(行かねば、わからない。)
そう思っただけだった。




