第8話 秘密の特訓
夜の平原――
学園から少し離れた静かな地に、ひとりの少女が立っていた。
月光を受け、風に揺れる銀の髪。
その瞳には、もはや迷いの色はない。
「……ここなら、誰にも迷惑をかけずに済む」
小さく零された声は、冷えた夜気に溶け、やがて消えた。
ユティナがここに立っている理由は一つ。
魔力量測定の場で、マリアベルと交わした“あの賭け”に勝つためだ。
その目的だけを胸に抱き、彼女は寮を、そして学園を密かに抜け出してきた。
「……それにしても、外に出るだけでこんなに大変だなんて」
思わず漏れた独り言と共に、ここへ至るまでの道のりを思い返す。
寮を抜け出すこと自体はどうにかなった。
しかし学園は外周を高い外壁に囲まれ、出入りは正門に限られている。
当然、夜間の門は固く閉ざされ、無断外出など論外だ。
だが昼間、ユティナは目を付けていた。
城壁沿いに伸びる一本の木。
壁を越えられそうな、わずかな隙を。
「……ここからなら、行ける」
そう判断し、枝を伝い、外壁を越える。
こうして彼女は、誰にも気づかれぬまま学園の外へと身を投じたのだった。
「外壁のそばに木があって助かったよ……」
小さく息をつき、苦笑する。
「レディア聖院女学園がお嬢様学校みたいでよかった。まさか、木登りで抜け出す生徒がいるなんて……誰も思わないよね」
その言葉とは裏腹に、彼女の瞳は再び鋭さを帯びる。
「さてと……ここ数日、過ごしてみたけど……」
ユティナは、転生してから今日に至るまでの日々を思い返す。
魔法授業では、思うように魔力が発動しなかった。
(この体……まだ慣れていないせいか、魔法が使いにくい……)
一般授業に至っては、内容そのものが昔と大きく異なっている。
転生前のユティナも決して勉強が得意だったわけではなく、理解が追いつかないのは無理もなかった。
(授業の内容自体は、なんとなく分かる。魔法の理屈も、魔族だった頃と大きな違いはない。ただ……やっぱり人間の魔法技術は、昔からあまり進歩していない印象ね。今の水準で見ても、かつての魔族の技術の方が遥かに進んでいたわ。だからこそ……昔の知識と今の常識をすり合わせるのが厄介ね。そもそも、前世は人間ですらなかったんだし……)
そして、体術の授業だけは、まだ救いがあった。
魔力を高めようと続けてきた筋力トレーニングのおかげで、基礎的な体力だけはある。
しかし、技術としての体術は皆無だった。
(根本的に運動神経がないのよね……体力はあるのに、体が重くて思うように動かせない)
そんな違和感を抱えたまま、授業を受け続けてきた。
「勉強や運動神経の悪さは……どうにかなる」
小さく息を吐き、ユティナは夜空を見上げる。
「でも……やっぱり、問題は――魔力量ね」
小さく呟きながら、ユティナは夜風に揺れる髪を押さえた。
この世界では、魔力量は成長と共に増え、成人を迎えた時点で固定される。
「この身体……ユティナの身体は、たぶんもう成長による魔力量の上昇は見込めない」
そう言いながら、ユティナは目を閉じ、自分の中を巡る微かな魔力の流れを感じ取ろうとした。
それは、まるで細い糸のように頼りなく――しかし確かに存在しているものだった。
「先ずは、今の体でちゃん魔法を発動出来るか確認しないとね…授業ではうまく制御できなかったし……」
魔法とは、術者の体内に宿るエネルギー――
“魔力” を外界へと放出し、意志の形に変えて現象を起こす技術である。
魔力は非常に流動的で暴れやすく、火・光・風・治癒・強化などの魔法現象は、魔力に与えた “イメージ” と “術式” によって成立する。
そのため、魔力を“どう構築するか”が魔法の安定性と威力を大きく左右する。
ユティナは深く息を吸い、右手を静かに前へ翳した。
「……よし。まずは手始めに……」
夜風を切るように指先がわずかに震える。
ユティナはそっと言霊を紡いだ。
「紅き炎よ、集いて球となれ――焼き払え」
詠唱と同時に、掌の前に淡い赤光の魔法陣が浮かび上がる。
「――ファイヤーボール!」
瞬間、ユティナの手のひらから小さな火球がふわりと生まれ、赤い尾を引いて飛び出した。
「……出来たっ!」
それは夜気を赤く照らしながら岩に命中し、ボンッという軽い音を立てて燃え散った。
残ったのは――直径十センチほどの焦げ跡ひとつ。
「……うわ、威力なっ!」
肩を落とすユティナ。
「魔法そのものは……一応、使えるみたいだね。でも――」
ユティナは額の汗を指でぬぐい、苦笑する。
「この魔力量だと、この程度のファイヤーボールを……三発撃つのが限界、か」
息を整え、再び右手を構える。
胸の奥に残る魔力の“薄さ”が、いやでも分かる。
「それに、魔力が少ないってことは、使える魔法の種類も限られる……。それに今からじゃ、アマゾネスみたいな魔力量にはどう足掻いても届かないし――」
ユティナの瞳に、ふっと光が宿った。
「……なら、詠唱を省いて魔力量の差をカバーするしか、ないよね。無詠唱化――」
ユティナはそっと目を閉じた。
魔法の詠唱とは、魔力を言葉で固定し、術式を安全に組み上げるための“安定装置”。
一方、無詠唱はその補助をすべて捨て、
術式の構築から魔力の流れの制御まですべてを脳内で一瞬で組み上げる高度技法だ。
詠唱の支えはない。
魔力は暴れやすく、少しでもイメージが乱れれば暴走する。
――それでもやるしかない。
ユティナの右手に、淡い熱が宿った。
「……行くよ。――ファイヤーボール」
詠唱なしの言霊。
その瞬間、掌に赤い魔法陣がかすかに揺らめき、小さな焔の球が弾けるように生まれた。
二発目の火球が、音もなく夜気を切り裂いて飛んだ。
「で、出来た…!」
しかし放った瞬間、脚がふらつき、その場に膝をついた。
呼吸が荒くなる。視界が揺れる。
「ほんっとに……この体、魔力ないわね!」
文句を言いながらも、ユティナはどこか自嘲気味に笑った。
「初級魔法なら、無詠唱でも何とか撃てる……。でも結局、一番の問題は魔力量。差は大きくは埋まらなくても……最低限、底上げしないと話にならないわね」
そして、深いため息をつき――肩を落とした。
「はぁ……やっぱり、あの方法しかないかぁ……」
そう。
実は――魔力量には、体の成長以外でも“増やす方法”が存在する。
それは、魔力欠乏症になること。
魔力欠乏症――。
それは己の限界を超えて魔法を使ったときに起こる、極めて危険な症状だ。
激しい頭痛、めまい、吐き気。そして最悪の場合は、命を落とすことさえある。
そのため、普通の魔法使いなら決して踏み込まない領域。
限界の一歩手前で魔法を止めるのが、常識であり、生き残るための鉄則だった。
――だが。
魔力欠乏症を起こすと、わずかではあるが魔力量が上昇する。
しかも、もともとの魔力量が低ければ低いほど、その上昇幅は大きくなる傾向にある。
それは、かつて魔族の間では常識だった。
そして、ユティナ――いや、元魔王だった自分もまた、その方法で力を手に入れた一人。
生まれつき魔力の乏しい、取るに足らない魔族の少女。
だが、限界を何度も越え、命を賭して魔力を高め続け――
気づけば、誰もが恐れ敬う「魔王」と呼ばれる存在になっていた。
そして今。
再び、あの地獄のような痛みを自ら求めようとしている。
「……まさか、またあの苦しみを味わう日が来るなんてね」
ユティナは持参した鞄から、小瓶を取り出す。
中には、薄く光を帯びた青の液体――魔力回復薬エーテル。
そして、もう一本、淡い緑の液体――体力回復ポーション。
「アルマのお陰で、必要な分を分けてもらえたけど……今日を乗り切るだけなら、なんとか足りるかな」
そう呟き、瓶を見つめる瞳がわずかに曇る。
「でも……この特訓を続けるなら、ポーションもエーテルも、自分で手に入れる方法を考えないといけないよね……」
深呼吸を一つ。
月が静かに見下ろす中、ユティナは右手を再び構える。
「――さぁ、始めるわよっ!」
ユティナは深呼吸をひとつして、右手を前に突き出した。
「ファイヤーボール!」
三度目の火球が夜の闇を切り裂き、岩に直撃する。
だが、直後にユティナの身体がふらりと傾いた。
「くっ……まだ、まだよっ!」
歯を食いしばり、再び魔力を練る。
「――ファイヤーボール!」
四発目。放たれた瞬間、視界がぐにゃりと歪む。
ユティナはその場に膝をつき、胃の奥からこみ上げるものを押さえきれず
――次の瞬間、激しく嘔吐する。
「う、げぇぇぇぇっ……っ……!」
頭が割れるように痛む。
全身から力が抜け、視界が白く霞んでいく。
それでも、震える手でエーテルの瓶を掴み、唇に押し当てる。
「……ごぼっ……んっ……はぁ……」
飲み干すと、わずかに魔力の流れが戻ってくる。
続けてポーションも口に含む。
気持ち悪さに顔をしかめながらも、ユティナは立ち上がった。
「ふふ……はぁ……気持ち悪い……でも――」
ユティナの瞳が、月光に反射して妖しく光る。
「――まだ、終わってない」
その夜、平原には何度も爆発音が鳴り響いた。
月明かりに照らされた少女の影が、何度倒れ、何度立ち上がったか。
誰も知らない。
だが確かに――その瞬間から、ユティナの中の“何か”が、目を覚まし始めていた。




