第26話 カトリット先生の憂い
「――五万ルクスですね」
乾いた声が、薄暗い部屋の空気を切り裂いた。
「ああ? 五万だと?」
無精髭を生やした男が、絡みつくように声を荒げる。
「ええ。……状態が良くない」
そう応じたのは、どこか紳士然とした男だった。
黒いコートに黒のバケットハットを深く被り、片眼には片眼鏡。
その奥の視線は鋭く、無精髭の男を射抜く。
「きちんと、この子に食事は与えていましたか?」
その問いに、無精髭の男は一瞬たじろぐ。
「あ、ああ? そ、そりゃ最低限のもんは……」
言い淀み、視線をわずかに逸らす。
「……ふむ」
黒コートの男はしゃがみ込み、少女の前に目線を落とした。
虚ろな瞳。
本来なら艶やかであろう銀髪は乱れ、衣服は何週間も着続けたかのように汚れ、ほつれている。
身体からは手入れのされていない匂いが漂い、肌のあちこちには打撲の痕――幾度も手を上げられてきたであろう痕跡が残っていた。
男はそれらを一つ一つ、値踏みするように確認する。
「顔立ちは悪くない……」
淡々とした口調で言う。
「きちんと仕込めば、客が喜ぶ“商品”になるでしょう」
そう言って立ち上がり、無精髭の男へと向き直った。
無精髭の男は、わずかに残る罪悪感を誤魔化すように、茶色のボサボサ頭を掻く。
「いいでしょう。この子は――十万で買いましょう」
「ほ、本当か!?」
「ええ。この子は将来、相応の美貌を持つ女性に育つ」
「ああ? このガキがか?」
「ええ」
黒コートの男は、ちらりと少女へ視線を向ける。
「それと……この子に、余計なことはしていませんね?」
「あ? ガキなんぞに興味ねぇよ」
「なら結構」
男は小さく頷く。
「それなら商品価値も保たれます。……あなたが、そこまでの外道でなくて良かった」
「けっ」
無精髭の男は吐き捨てるように笑い、男を睨みつけた。
「話は終わりだ。さっさとそのガキを引き取ってくれ」
「ええ、そうしましょう」
黒コートの男は扉のそばに控えていた部下へ視線を送る。
黒服の男は無言で頷き、テーブルに鞄を置いた。
鞄を開け、中の金を袋へ移し替え、静かに机の上へと置く。
「確認を」
無精髭の男は袋の中を確かめ、にやりと口角を歪める。
「ああ、問題ねぇ」
「では――この子を荷馬車へ」
「はい」
部下の男は少女の腕を掴み、部屋の外へと連れ出そうとする。
無精髭の男の脇を通り過ぎる、その瞬間。
「へっ……最後の最後で役に立ったな」
皮肉混じりの言葉。
だが少女は、何の反応も示さなかった。
そのまま、少女は部屋を後にする。
「では、私はこれで」
黒コートの男は軽く一礼し、静かに扉を閉めた。
部屋に残ったのは、無精髭の男と――
袋の中で、ジャラリと鳴る金属音だけだった。
⸻
レディア聖院女学園は、初等部から高等部までを備えた格式ある一貫校である。
そのため校舎も用途に応じて三つに分けられており、初等部・中等部・高等部は、それぞれ独立した棟を構えていた。
初等部と中等部は中庭を挟んで隣り合い、白い石畳の渡り廊下を通じて自由に行き来ができる構造となっている。
明るい中庭には季節の花々が咲き、休み時間になると初等部の子どもたちの声と、中等部生の談笑が混じり合って賑やかな雰囲気を生み出していた。
しかし、高等部だけは少し事情が異なる。
外庭を隔てた向かい側、静かにそびえる高等部校舎は、初等部や中等部の生徒たちにとって“近いけれど遠い場所”として認識されていた。
その理由は単に距離の問題だけではない。
レディア聖院女学園において、高等部へ進学できる者は全体のごく一握り。
だからこそ、高等部の生徒たちは初等部からも中等部からも、一種の憧れと畏れ、そして少しの距離感をもって見られる存在となっている。
静寂の中に品位を湛えた高等部校舎は、まるで“特別な未来”へ続く門のように、学園の中心で凛と佇んでいた。
そして、レディア聖院女学園・中等部校舎一階――。
昼下がりの職員室には紙の擦れる音と、時折響くペン先の音だけが静かに漂っていた。
一年二組担任のカトリット・ロムウェルは、自席で分厚い資料を開き、ページをめくる指先を止めない。
表情は引き締まり、心の奥底に潜む緊張を隠しきれない。
(……ついに、この日が来たのですね)
その瞳には覚悟が宿っていた。
そんな彼女に、柔らかく包み込むような声がかけられる。
「お疲れさまです、カトリット先生」
その声に顔を上げると、職員室の入口に立っていたのは副学園長アナベル・ランヤード。
沈着な微笑みを浮かべる彼女の姿に、カトリットは慌てて立ち上がった。
「こ、これは副学園長……!」
「あら、立たなくてもいいですよ」
アナベルはやんわりと制するように手を振る。
「あ、はい。……こちらにいらしたんですね」
「ええ。この時期、中等部一年生は特に大切な時期ですから。様子を見に来たんです」
「確かに……そうですね」
アナベルはカトリットの机に視線を落とす。
「今日でしたよね? あなたのクラスが初めて野外実習を行うのは?」
「はい。このあとすぐに」
「準備の具合はどうです? 順調かしら」
「ええ、特に問題ありません。ただ……ブレア先生は少しお疲れのようで」
その報告に、副学園長は小さく息をつく。
「そうでしょうね……。この時期、あれを準備できるのは彼女だけですから、負担はどうしても大きくなってしまうわ」
「手伝えないのが心苦しくて……」
カトリットは苦笑を浮かべ、肩をすくめる。
「それで――」
アナベルは声を少し落とし、意味深に問いかけた。
「今日の実習で、“お目にかかれる”生徒は出そうですか?」
その言葉に、カトリットの表情が一瞬だけ揺れる。
「……どうでしょう。可能性のある子は何人かいますが……確信までは」
「そんなに思い詰めなくてもいいのですよ。今回の実習で一人現れれば良い方です。一組も三組も……残念ながら“契約者無し”だったようですから」
「そう、でしたね……」
カトリットは胸の内の緊張を隠さず、深く息を吐く。
「良い結果になると……いいのですが」
ふと視線を落とす。机上の書類、その一枚――
そこには ユティナ・ハーリット の名が記されていた。
静かな職員室の空気が、ほんの少しだけ重さを帯びる。
それはまるで――
この日が、一年二組にとって特別な運命の分岐点となるかのように。
⸻
校舎の廊下を、金色の巻き髪を揺らして歩く少女。
――マリアベル・ランカスター。
その歩みは優雅で、背筋は一本の矢のように真っ直ぐ。
彼女の周囲を、同じ聖女候補の女生徒たちが花びらのように取り囲む。
その中から、ネイビーブルーの髪を持つ一人の生徒が一歩前に出て、マリアベルへと声をかける。
「先程の授業、圧巻でしたわ! あの難問を迷いなく答えるなんて、さすがマリアベル様です!」
「本当に! 聖女候補の中でも群を抜いておられます」
褒めそやす声が重なっていく中、マリアベルは涼しげに微笑んだ。
「そんなことはありませんわ。あれくらい、皆さんなら答えられたはずですもの」
自らを持ち上げない、控えめな返し。
「はあ……謙虚なところまで素敵ですわ!」
「本当に、マリアベル様って完璧……!」
取り巻きたちはさらに熱を帯びた声を重ね、場は一気に華やぐ。
そんな中、取り巻きの一人がひそひそと声を落とした。
「ところで最近……あの落ちこぼれ、妙に調子に乗っていませんこと?」
「ユティナ・ハーリットのことですわよね。模擬戦以来、教員方からの評価も少しずつ上がっているとか……」
「でも、あの模擬戦はまぐれですわ! それに卑怯な手を使ったと、皆言っていますもの。マリアベル様があんな子に負けるはずありません!」
取り巻きは口々に不平を並べ立てる。しかし、その中心にいるマリアベルだけが黙り込んでいた。
「……」
その沈黙に焦ったのか、別の女生徒が声を上げる。
「マリアベル様、このままでよろしいのですか!? ここで何かしらの釘を刺しておくべきではありません?」
「そうですわ! 放っておいたら、また何をしでかすか分かりませんもの!」
賛同の声が次々と上がる中、マリアベルはふぅと長く息を吐いた。
「……貴女たち、よしなさい」
「マ、マリアベル様……!? どうされたのですか!?」
驚きに満ちる声。マリアベルは視線を前に向けたまま、静かに続ける。
「ベ、別にどうもしませんわ。ただ……彼女も努力しているのでしょう。それなら、私がわざわざ出る幕ではありませんわ」
「で、ですが――」
「それに、私たちは聖女候補。愚かな争いに時間を割くより、一刻も早く聖女として恥じぬ実力を磨くべきじゃなくて?」
片目をちらりと開けて取り巻きを見る。すると――
「……さ、流石ですわマリアベル様!」
「えっ?」
マリアベルが思わず間の抜けた声を出すより早く、取り巻きたちは一斉に感嘆を漏らした。
「あの落ちこぼれの努力すら認めるなんて……心が広すぎます!」
「高貴さに加えて慈悲までお持ちとは……!」
マリアベルは一瞬ぽかんとしたが、すぐに咳払いして取り繕う。
「と、当然ですわ……!」
――内心では
(……てっきり、頭がおかしくなったと思われるのではと覚悟していましたのに……)
と、軽く困惑していた。
そんな中――一つの影が、音もなく彼女たちの輪の中へと滑り込む。
誰も気づかないまま、その影はマリアベルの背後へと忍び寄った。
そして――。
「――マーリーっ!!」
突如、弾けるような声と共に、マリアベルの身体が後ろから抱きしめられた。
「きゃああああああっ!?」
「わああああああっ!?」
マリアベルも取り巻きたちも、一斉に悲鳴を上げる。
その場の空気が一瞬で凍りついた。
「あぁぁ〜…この抱き心地、最高だねぇ……」
柔らかな声とともに、背中に頬ずりしてくる人物。
その声に聞き覚えがあった。
「ユ、ユティナさん!?」
「やっほー、マリー♪」
マリアベルの背後で満面の笑みを浮かべているのは、例の“落ちこぼれ聖女候補”――ユティナ・ハーリット。
彼女は抱きついたまま、まるで猫のようにマリアベルの背中をすりすりしている。
「な、なな何をしてるんですの!? 放しなさいっ!」
「んー? だってマリー、柔らかくてあったかいんだもん。癒しだよぉ」
「癒しって……!貴女、ここがどこだと思ってるの!?
廊下ですわよ!?」
「うん、だからちょうどいいかなーって」
「ちょうどよくありませんわっ!」
取り巻きたちは信じられないものを見るように口を開けたまま固まっている。
だが、そんな周囲の視線などまるで気にせず、ユティナは明るく言葉を続けた。
「あ、そうそう! さっきの授業のことで聞きたいことがあってさ!」
「授業の……? そんなこと、アルマさんに聞けばいいじゃありませんの」
「アルマならね、日直だからさっき先生に呼ばれて手伝い行っちゃったんだよー。後で聞こうと思ったけど、たぶん私、忘れちゃうからさ〜今のうちに!」
マリアベルは眉をぴくりと動かすと、大きく息を吐いた。
「……はぁ。もう、仕方ありませんわね」
「えへへ〜、ありがとマリー!」
「分かりましたから、いい加減離れなさい!」
「うんうん、マリーは今日も元気だね〜」
「話を聞きなさいっ!」
そんな漫才のようなやりとりを繰り広げながら、マリアベルは結局の所、ユティナを引き剥がす様な事をしなかった。
「……まったく。ほんとうに仕方のない方ですわね」
深いため息をつきつつも、マリアベルは観念したように小さく肩をすくめる。
「ところで――今日……午後の授業、大丈夫なのかしら?」
「え? あ、野外実習のこと?」
「ええ。どうやら“今後、聖女になれるかどうか”を左右する大事な授業みたいですわよ?」
「うーん……まぁ、なんとかなるんじゃない?」
相変わらず気負いのないユティナ。
「本当に……呑気な方ですこと」
呆れたように息を吐きながら、マリアベルはユティナに抱きつかれたまま歩き出す。
周囲の取り巻きたちがぽかんと固まる中、気にする素振りすら見せない。
――ただ、その横顔には、ほんのりとした微笑みが浮かんでいた。
照れ隠しのようでいて、どこか安堵が滲む優しい表情。
取り残された取り巻きたちは、ただ呆然とその後ろ姿を見送るしかない。
「マ、マリアベル様……?」
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