第12話 もぐもぐタイム
薄暗い部屋。
空気は重く澱み、床には空の酒瓶が無秩序に転がっていた。
酒と埃と、何か腐ったような臭いが混ざり合い、息を吸うだけで喉が焼ける。
部屋の隅。
銀髪の少女が、膝を抱えてうずくまっていた。
背中を丸め、肩を縮め、まるで自分という存在をこの世界から消し去ろうとするかのように。
その視線は床に縫い付けられ、決して上がることはない。
部屋の中央には、ひとつの椅子。
そこにどかりと腰を下ろし、テーブルに足を投げ出した男がいた。
無精髭に覆われた顔は酒で赤く染まり、濁った目は焦点すら合っていない。
男は酒瓶を煽り、最後の一滴まで飲み干す。
空になった瓶を見て、舌打ち。
「……チッ」
苛立ったように、近くに転がっていた別の瓶を掴む。
だが、それも中身は空だった。
次の瞬間、男の喉から怒号が吐き出される。
「おいッ! 酒がねぇぞ!!」
少女の体が、びくりと跳ねる。
「なんで無くなる前に買って来ねぇんだ!? あぁ!? 聞いてんのか!?」
返事はない。
少女はただ俯き、唇を噛みしめるだけだ。
沈黙が、男の癇に障った。
「……チッ」
吐き捨てるように言い、男は空の酒瓶を振りかぶる。
「何とか言えよ! 役立たずが!!」
瓶は少女のすぐ脇の壁に叩きつけられ、凄まじい音を立てて砕け散った。
ガラス片が床を跳ね、少女の足元に散らばる。
「ひっ……!」
少女は頭を抱え、さらに体を縮める。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
意味のない謝罪を、壊れたように繰り返す。
小さな肩が、恐怖に震えていた。
男はその様子を見下ろし、鼻で笑う。
「ほんっと、辛気臭ぇ顔しやがって……」
吐き捨てるように言い、視線を逸らす。
「兄貴も兄貴だ。病気でくたばりやがって……役立たずのガキひとり残してな」
少女の肩が、さらに小さくなる。
「残したはした金でガキの面倒見るとか、割に合わねぇんだよ……」
男はゆっくりと、再び少女を見る。
その目には、情も迷いもない。
「……はっ」
乾いた笑いが漏れた。
「もう十分だろ。義理は果たした」
男は舌なめずりをする。
「酒を買う金も、そろそろ尽きる頃だしな……」
その笑みは卑しく、冷たく、救いがなかった。
少女は何も言えない。
泣くことすら許されず、ただ震えながら、その場に存在し続けるしかなかった。
この部屋に――
希望は、最初から存在していなかった。
⸻
朝。
ユティナはゆっくりと目を開けた。
しばらくの間、布団の上で天井を見つめたまま、思考だけが宙を彷徨う。
(……夢?)
そう思った瞬間、胸の奥に残る生々しい感覚が、その否定を告げた。
(違う……。あれは夢じゃない)
過去の断片が、冷たい手で心臓を掴む。
(……ユティナ・ハーリットが、孤児院に入る前の記憶)
ゆっくりと身体を起こし、ベッドの縁に腰掛ける。
ふと、頭の中で響いた一言。
(――役立たず)
理由もなく、その言葉が胸を強く締めつけた。
息が、わずかに詰まる。
(どうして今さら……あんな昔のことを)
考えれば考えるほど、気持ちは沈んでいく。
逃げるように視線を巡らせた先、部屋の椅子に掛けられた制服が目に入った。
その瞬間、別の記憶が弾ける。
「……そうだ」
思わず声が漏れる。
「今日……!」
今日は、マリアベルとの――“約束の日”。
(こんなところで立ち止まってる場合じゃない)
ユティナは勢いよく立ち上がり、制服を手に取る。
手早く袖を通し、鏡の前へ。
胸元のリボンをきゅっと締め直し、乱れた襟を整える。
鏡の中の自分は、もう俯いてはいなかった。
「――よしっ!」
小さく、けれど確かなガッツポーズ。
その直後。
ぐぅぅ――。
静かな部屋に、やけに主張の強い音が響いた。
「……」
一拍置いて、ユティナは苦笑する。
「……まずは、朝ごはんだね」
そう呟き、部屋を後にする。
過去は消えない。
それでも、今日を前に進むために――ユティナは歩き出した。
⸻
朝の光が差し込む寮の廊下を、ユティナは食堂へ向かって歩いていた。
すると――
「ユティ!」
声の方を振り向くと、アルマが小走りで駆け寄ってくる。
「あ、アルマ。おはよう」
「うん、おはよ!」
アルマはいつも通りの明るい笑顔で隣に並んだ。
二人は並んで食堂へ向かう。
「ユティ、最近寝坊しなくなったね。前はよく、遅くまで勉強してて寝坊してたのに」
「あー、最近は夜に勉強してないからね」
「えっ、そうなの!? あんなに毎日頑張ってたのに!? 次の試験とか、大丈夫なの?」
「うーん……多分、なんとかなるんじゃないかな?」
「多分!?」
アルマが眉を寄せて、じっとユティナを見つめる。
「本当に大丈夫なの? だって、前に授業中に居眠りしてたでしょ。先生にチョーク投げられてたし」
「うっ……それは言わないでぇ」
ユティナは両手で顔を隠す。
「朝はすっきり起きられるんだけど、授業になると急に眠くなっちゃうんだよね。たぶん、夜の疲れが……」
「夜の?」
「な、なんでもない! ただの眠気だってば!」
アルマはじーっと見つめたまま、うーんと唸る。
「ユティ、なんか最近変わったよね」
「……え、変わった!?」
(やばっ! ま、まさか――前世の記憶が戻ったこと、バレた!? いや、ちゃんと“ユティナ本人”だし!でも魔王の頃の性格、ちょっと出ちゃってる!?)
「そ、そうかなー?」
冷や汗が頬を伝う。
「うん。前より“余裕”があるっていうか……気持ちにゆとりができた感じ。なんか柔らかくなったよ。たまに変な事言うけど」
(ほっ……。バレてない、よね。もしバレてたら面倒なことになりそうだし、極力隠さなきゃ)
「前はね、ずっと焦ってる感じだった。何かに追われてるみたいで、ちょっと心配してたんだ」
「あー……」
(確かに……魔王時代の記憶が戻る前の私って、落ちこぼれって言われてショック受けてたんだよね。孤児院の事もあって、必死に成績を上げようとしても、結果はついてこなくて、どんどん追い詰められてたっけ……)
「えっと……変、かな?」
「ううん。前の必死に頑張るユティも好きだったけど今のユティも好きだよ!」
「ありがとう、アルマ」
「何か、きっかけがあったの?」
「きっかけ? うーん……特には」
(“魔王の時の記憶が戻った”なんて、言えないよね)
「でも、ひとつだけ心がけてることはあるよ」
「なになに?」
アルマが身を乗り出す。
ユティナは胸を張り、ドヤ顔で言い放った。
「ズバリ――働き方改革!」
「……はたらき、か、た……?」
アルマの眉がぴくりと動く。
「え?」
「え?」
沈黙。
次の瞬間、アルマが吹き出した。
「ぷっ……くくっ……あははははは!」
「そ、そんなに笑うこと!?」
「ごめんごめん。でもさ、ユティってほんと面白いよね!」
「なんかバカにされてる気がするんだけど……」
「そんなことないって!」
笑いながらも、アルマの目は優しかった。
「でも、よかった。今日のユティなら大丈夫そう」
「今日?」
「マリアベルさんとの約束の日でしょ。ずっと心配してたんだ。でも、今のユティ見てたら大丈夫。なんか安心した。マリアベルさんの賭けに勝つ策があるんだよね?」
ユティナは小さく息を吸い、拳を握る。
「大丈夫――アマゾネスをギャフンと言わせてあげるから!」
「マリアベルさん、ね?」
「あ、そうだっけ? まあどっちでもいいか! それより――お腹すいた!早く行こ!」
そう言って、ユティナはアルマの手を掴み、廊下を駆けだした。
差し込む朝の光が二人の背中を照らす。
それはまるで――新しい一日の始まりを祝福するように、あたたかかった。
食堂に着いた二人は、配膳口からトレイを受け取り、空いている席へと腰を下ろした。
朝の食堂には、焼き立てパンの香ばしい匂いが漂っている。
「わぁ、今日はサンドウィッチだ!」
ユティナは目を輝かせ、ふかふかのパンを手に取った。
「いただきまーす!」
勢いよく頬張るユティナ。
もぐもぐ、もぐもぐ――。幸せそうな表情で口いっぱいに頬張るその姿は、まるで小動物のお食事タイムである。
その時――。
「これはハーリットさん。ご機嫌よう」
少し離れた場所から、冷ややかな声が響いた。
振り向けば、金髪を巻き上げた少女――マリアベル。
そして彼女の後ろには、いつもの取り巻き達。
「ん? まぁまずぅにすぅ(アマゾネス)……」
口いっぱいのまま喋るユティナ。
「……その状態でも、貴方が何を言っているか分かってしまうのが腹立たしいですわね」
マリアベルの眉がぴくりと動く。
その後ろで取り巻き達が一斉に囁いた。
「食べながら喋るなんてはしたない」
「あんなのが私達と一緒の聖女候補だなんて」
「品がないにも程があるわ」
ユティナは気にする様子もなく、もぐもぐを続ける。
だが隣のアルマの顔には、明らかに不機嫌の色が浮かんでいた。
「まぁ、いいですわ……。ユティナさん、今日の“約束”はちゃんと覚えているのでしょうね?」
マリアベルの鋭い視線がユティナに突き刺さる。
「おぼえへふよ〜(覚えてるよ〜)」
相変わらず口いっぱいにサンドウィッチを詰め込みながら返すユティナ。
「覚えているなら結構ですわ。最後の学園生活、せいぜい楽──って、さっきからその“モグモグ”をやめなさい!」
「ふぇ? ふぉふぉまぁっておぉ(ちょっと待ってよ)」
「まったく……貴女、本当に緊張感のかけらもありませんわね……」
呆れたようにため息をつくマリアベル。
ユティナはようやく飲み込んで、ふぅ、と息をついた。
「もう……食べてるタイミングで話しかけてきたのそっちじゃん。それに私、食べ始めたら急には止まれないんだから!」
「何を威張っているのですか!」
「何を威張っているのよ!」
マリアベルと取り巻きが揃ってツッコむ。
だがユティナは気にせず、またサンドウィッチを手に取って口へ。
「だから、食べ始めるなと言ってますの!」
「だから食べるなって言ってるでしょ!」
再びツッコミの嵐が降り注ぐ。
「んむ?」
ユティナのモグモグが一瞬止まる。
「……もういいですわ。今日の模擬戦、覚悟することですわ。皆さん、行きますわよ!」
くるりと踵を返し、マリアベルと取り巻き達は去っていった。
ユティナは飲み込んでから、その背中を真剣な表情で見送った。
「どうしたんだろ……? あんなにピリピリして。カルシウム、足りてないのかな……?」
完全に本気の顔で言う。
「ユティ……」
隣のアルマは、呆れたように眉を下げていた。
⸻
食堂を出たマリアベルは、無言のまま長い廊下を歩いていた。
背後には、数人の取り巻きたちが慌ててその後を追う。
だが、彼女の背中からは声をかけづらいほどの冷たい気配が漂っていた。
「……あ、あの……マリアベル様」
沈黙を破ったのは、ネイビーブルーの長い髪を持つ取り巻きの少女だった。
「ど、どうして……あの子に、絡むのですか?」
「……」
問いにマリアベルはすぐには答えず、カツ、カツとヒールの音だけが響く。
「た、確かにあの子は……万年Fランクの落ちこぼれで、この学園にはふさわしくないと思います。それに、聖女になれるはずもありません。ですが……マリアベル様がわざわざ関わることは……その……お立場や品位が――」
言い淀む少女に、他の取り巻きたちも頷く。
マリアベルは小さく息を吐いた。
「……ただ、気に入らないのですわ」
「き、気に入らない……ですか?」
「ええ。――レディア聖女学園は、名門。各国の貴族や選ばれた者だけが通う場所です。それなのに、あんな孤児が“たまたま魔力を持っていた”という理由でここにいる。……まるで、この学園の格式を貶めているようで、我慢ならないのです」
「そ、そうですよね! 私も前からそう思ってました!」
「わ、私もですわ!」
取り巻きたちはすぐに賛同し、同調するように声を上げた。
だが、マリアベルの本心は違った。
(本当に……腹が立ちますわ。魔力も才能もないくせに、どうしてあそこまで足掻けるのかしら。諦めればいいものを――)
唇の端が冷たく歪む。
(今日こそ教えてあげますわ、ユティナ・ハーリット。あなたの努力なんて、無駄だなのだと――)
ヒールの音が再び響き、マリアベルとその一団は廊下の奥へと消えていった。




