第11話 皇子との出会い
皇子の来訪により、教室から人影は消えていた。
静まり返った空間に落ちるのは、ひとり分のため息だけ。
――ユティナの、小さな溜息だった。
しばらくすると、外から甲高い声と歓声が入り混じった騒がしさが流れ込んでくる。
気になって窓の外を覗くと、外庭には女生徒たちの人だかりができていた。
「……騒がしいなー」
ぼそりと呟き、ユティナは椅子から立ち上がると、渋々教室を後にした。
静かな場所を求めて廊下を歩き、辿り着いたのは中庭だった。
初等部校舎と中等部校舎の間に広がるその庭は、各校舎を繋ぐ渡り廊下に囲まれ、中央には小さな噴水が設けられている。
周囲には花壇が並び、色とりどりの花が咲き誇っていた。
普段なら休憩時間ともなれば、生徒たちの笑い声で賑わう場所だ。
だが今日は、皇子を一目見ようと多くの生徒が外庭へ向かったため、中庭には珍しく誰一人いない。
「……珍しい。中庭に誰もいない」
ふぁ、と小さく欠伸を漏らしながら、ユティナは肩の力を抜く。
「静かで……いいなぁ……」
噴水の前に置かれたベンチに腰を下ろし、そのまま背もたれにぐったりと身を預けた。
水音だけが、穏やかに空間を満たしていた。
足を投げ出し、スカートの裾も気にせずだらしなく座るその姿に、聖女候補らしい品位などどこにもない。
「……ああ、眠いぃぃ……ここなら誰も来ないし、ゆっくり眠れそう……」
そう呟いて、ユティナはまぶたを閉じた。
心地よい水音と風の音に包まれ、意識がゆっくりと沈んでいく。
――と、次の瞬間。
お腹のあたりに「ぽすっ」と柔らかな重みを感じた。
「ん……?」
目を開けると、そこに小さな白い毛玉――手のひらサイズの犬がちょこんと座っていた。
ふわふわとした白い毛並み、くるりとした尻尾、そして澄んだ青い瞳。
まるで陽光の粒をまとったように、全身がうっすらと光を放っている。
「え? ……こ、これって……聖霊獣? だよね……。こんなに小さくて、しかも羽まで生えた犬なんて、普通いるはずないし……」
聖霊獣――本来、人前にはめったに姿を見せない、極めて希少な存在。
「な、なんでこんな所に……?」
恐る恐る指先を伸ばし、首元をそっと撫でてみる。
柔らかな毛並みが指に触れ、犬の姿をした聖霊獣は気持ちよさそうに「きゅん」と鳴いた。
「ふふっ……可愛いなぁ、こいつ……」
しばし、夢のような時間が流れる。
さっきまでの眠気も、疲れも、どこかへ吹き飛んでしまった。
――だが、その穏やかな時間は、唐突に終わりを迎える。
「すまない……」
静かな声が、背後から響いた。
思わず肩をびくりと震わせ、ユティナは振り返る。
そこに立っていたのは、黒髪に琥珀の瞳を持つ少年。
陽光を受けて、黒髪が艶やかに光る。
整った顔立ちにはどこか冷たさと品の良さが漂っていた。
「は、はい? なんでしょうか?」
「急に声をかけてすまない。友……いや、ペットを探しているんだ」
少年は落ち着いた声で言葉を続ける。
「とても小さい犬なんだが、見なかっただろうか?」
「小さい犬……?」
ユティナは自然と、自分の膝の上――そこにちょこんと座る白い毛玉へ視線を落とした。
「あの……もしかして、これのこと?」
ユティナは両手の上に聖霊獣をそっと乗せて差し出す。
少年の目が見開かれた。
「ジーク! ここにいたのか!」
「ジーク?」
「ああ、すまない。その聖霊獣は私の……友達なんだ」
「そうなんだ。じゃあ、返すわね」
ユティナは微笑みながら差し出す。
だが、ジークはふわりと浮き上がり、少年の元へ行くどころか、ユティナの肩にとまって頬をすりすりしてきた。
「わっ、ちょ、くすぐったい〜っ!」
ユティナは笑いながら体をよじる。
そんな光景に、少年は目を丸くした。
「……ジークが、私以外に懐くなんて……。君、良い魔力を持っているのだな」
「ま、魔力? 一応魔力は持ってるけど……私、魔力量Fランクなんだけど?」
「そ、そうなのか……?」
「うん。この学園の落ちこぼれだよ……?」
「……そうは見えないんだが」
「本当だよ? ファイヤーボール三発でオーバーヒートだし」
(……まあ、それは特訓前の話だけど)
「その割に、あまり落ち込んでいる様子はないんだな」
「落ち込む……?」
「いや、その……普通なら“落ちこぼれ”なんて言われたら――」
「気にするはず、って言いたいの?」
「す、すまない! 初対面の女性に、とんでもないことを……!」
「いいよ、気にしないで。そういうの、もう慣れてるから」
ユティナは肩をすくめ、どこか達観したように笑った。
「なら……君はなぜ、そんなに前を向けるんだ?」
「んー……そう言われてもなぁ」
ユティナはジークを指でつつきながら、にやりと笑う。
「あ、目標があるの」
「も、目標?」
「うん。それは――」
胸を張って、堂々と。
「静かな場所でのんびり隠居生活を送ることだよ!」
ドヤ顔。
「……い、隠居……生活?」
少年は一瞬、言葉を失った。
「そう! のんびりお昼寝して、美味しいもの食べて、気が向いたら畑でも耕して……最高じゃない!?」
「そ、そうか……いや、しかし……君、聖女になるためにここにいるのでは?」
「なるわよ? 聖女に」
「……は?」
完全に混乱している少年。
「聖女になってお金を貯めて、田舎みたいな静かな所に家を買って、隠居生活するの!」
「お、お金を……貯めて……田舎で暮らす……?」
少年はぽかんと口を開けた。
彼にとって“聖女”とは、民を導き救い、国を護る尊き存在。
だがユティナにとっては、それすら“のんびり暮らすための手段”らしい。
そのあまりに型破りな考え方に、彼の中で何かが弾けた。
「……ふ、ふふっ……はははははっ!」
少年は急に笑い出した。笑いながら、涙まで浮かべている。
「え、な、なに!? 笑うところあった?」
「ああ、すまない……あまりに新鮮で……! 君のような聖女候補がいるんだな! それに、本当に素晴らしい目標だ」
「ほ、本当にそう思ってるー?」
ユティナはジト目で睨む。
「本当だとも。……いいな、君のそういうところ」
少し柔らかくなった笑みが、ユティナの胸をくすぐった。
「もし君が本当に田舎に家を買ったら……私を招待してくれないか?」
「えぇ……静かに暮らしたいって言ったよね? 来たら台無しじゃない」
「ははは。そう言わないでくれ。お土産は山ほど持って行くから」
「うーん……じゃあ、一回だけでなら。一回だけ」
「ふふ、それで十分だ」
少年は満足げに微笑んだ。
「そうだ、君、名前は?」
「あ、そういえばまだ名乗ってなかったっけ?私、ユティナ・ハーリット」
「ユティナ・ハーリット……」
その名を、彼はまるで宝石でも確かめるように繰り返した。
「私はレイモンド・フォン・セルフォルト・レディアだ」
彼は背筋を伸ばし、礼儀正しく名乗る。
「な、名前……長っ!?」
(ん?レイモンド……なんかどっかで聞いた様な……。ま、いっか)
「ははは! やっぱりそう思うか。好きに呼んでもらって構わない」
「えーと、じゃあ……“レイ”で!」
「レイ、か。ああ、それでいい。では、君のことは――」
「あ、私も短くして“ユティ”でいいわよ。ほら、お互いフェアでしょ? って言っても、一文字しか減ってないけど」
苦笑いしながら肩をすくめるユティナ。
「そうか。じゃあ――ユティ、と呼ばせてもらおう。……ジーク」
レイが声をかけると、ジークがユティナの肩から飛び立ち、主の右肩にちょこんと止まった。
「あぁっ、ジークぅぅぅ!」
名残惜しそうに手を伸ばすユティナ。その姿に、レイは思わず小さく笑った。
「どうやら、君もジークが気に入ったようだな」
「ええ、そりゃね」
レイは一瞬、何かを考えるように視線を伏せ、それから微笑む。
「また来る。そのときは……また話し相手になってくれないか?」
「仕方ないなぁ……まあ、暇だったらね」
ユティナはだるそうに言いながら、口元には柔らかな笑みを浮かべていた。
「それで十分だ。……またな、ユティ」
「うん、またね。レイ。ジークも」
二人と一匹は軽く手を振り合い、別れた。
中庭には風が吹き抜け、花弁が舞う。
レイは学園の廊下を歩きながら、肩の上のジークに声をかける。
「いい子だったな……」
「ああ。彼女の魔力はとても心地よい……まるで春の日差しのようだ」
「ふふ、そうなんだな……」
穏やかに笑うレイモンド。
その姿は、どこか柔らかく――ほんの少し、楽しげだった。
レイとジークを見送ったあと、ユティナは中庭を後にして、のんびりと廊下を歩いていた。
窓の外では木漏れ日が揺れ、遠くから女生徒たちの嬌声が微かに届く。
(結局、あまり昼寝できなかったなぁ……)
大きく欠伸をしながらも、ユティナの頬にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
(でも……ジークのあのモフモフ……あれは反則級だった……)
指先が思い出したように動く。まるで、あの柔らかな毛並みをまだ感じているかのように。
(レイ、か……なんか変わった子だったな)
思い出すのは、優しくも不器用な笑顔。
(ちょっと真面目すぎるけど……暇だったら、また話してあげてもいいかな)
ふっと、頬が緩む。
そんな表情のまま教室へ戻ると――
「きゃーーーっ♡ リシャール殿下、ほんっと素敵でしたぁぁ!」
「ねぇ見た? あの微笑み! もう天使通り越して神よ!」
「殿下に会えるなんて、一生分の運使い果たしたかも~!」
――空気が、完全に浮かれていた。
まるで乙女の祭典。教室全体が熱気に包まれている。
(うわぁ……何これ……カオス……)
「リシャール様の金髪が陽の光で輝いて……! あぁ、尊い……!」
「私はレイモンド様にお会いしたかったのに……どこにいらしたのかしら……」
教室の隅では、マリアベルが涙ぐみながら机に突っ伏していた。
その背中を、取り巻きたちが必死に慰めている。
「ユティ!」
声をかけてきたのは、友人のアルマだった。
彼女は息を切らしながらユティナに駆け寄ってくる。
「どこ行ってたの!? 戻ったらいなくて心配したんだから!」
「あ、ごめん。ちょっと中庭にね」
「中庭?」
「うん、なんか落ち着かなくてさ」
「あー、なるほど。外庭、殿下たちが来ててもう大騒ぎだったもんね」
アルマは思い出して苦笑する。
「ゆっくり休めた?」
そう尋ねるアルマに、ユティナは一瞬だけ考え――ふわりと笑った。
「うん。すっごく、休めたよ」
その笑顔には、ほんの少しの疲れもなかった。
まるで、さっきの出会いが彼女に新しい風を吹き込んだかのように。
(……また、あの二人に会えるといいな)
心の中で呟きながら、ユティナは窓の外――青い空を見上げた。
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マリアベルとの約束の日の前日。
夜の平原。
草原を渡る風が、夜露を帯びた草をやさしく揺らしていた。
その静寂の中、ひとりの少女が立っている。
――ユティナ・ハーリット。
月明かりに照らされたその瞳は、真っ直ぐに前を見据えていた。
彼女の前には、大小さまざまな岩が無数に散らばっている。
そのすべてが、砕け、ひび割れ、焼け焦げていた。
その中心には、ついさっきまで彼女が放っていた魔法の残滓が、ほのかに赤く残っている。
「……ふぅっ」
息を吐き、額の汗を手の甲で拭うユティナ。
その顔には、かつての“落ちこぼれ”という言葉が似合わないほどの確かな自信が宿っていた。
「これで――少しはマシになったかな」
夜風が彼女の髪を揺らす。
その視線の先、崩れ落ちた岩の残骸を見つめながら、ユティナは微笑んだ。
「待ってなさいよ、アマゾネス」
その声には、闘志と少しの茶目っ気が混じる。
「アンタをギャフンと言わせてあげるんだから!」
静寂の夜空に響く決意の声。
月が雲間から顔を出し、ユティナの姿を淡く照らす。
その横顔には、初めて自分の力を信じる少女の凛とした表情があった。




