第1話 魔王アリナ・ヴァーミリオン
ある大陸の果て、魔族達が住まう魔都。
その中心にそびえ立つ魔王城の一室は、重苦しい空気に包まれている。
部屋の中央、長い黒檀のテーブル前の椅子に、一人の女性が静かに座っていた。
白磁のような肌に、雪と墨を混ぜたような白髪。そして頭頂から伸びる二本の赤黒い角。
紅のドレスに身を包みながらも、上半身には漆黒の甲冑をまとい、その背の開いた部分からは漆黒の翼がゆるやかに揺れている。
赤い瞳は炎のように妖しく輝き、視線を合わせた者の魂すら凍りつかせる鋭さを持っていた。
この城の絶対的主、魔王アリナ・ヴァーミリオン。
そのアリナは今、テーブルの上に置かれたある物を、刃のような眼差しで睨みつけていた。
ただならぬ緊迫が部屋に満ちていく。
――そのとき。
バンッ!
重厚な扉が乱暴に開け放たれ、慌ただしい足音と共に伝令兵が部屋に飛び込んできた。
「ま、魔王様っ!! 大変です!」
兵士は息も絶え絶えに叫ぶ。
「人間軍がすでに最終防壁を突破! 勇者、そして聖女の姿も確認出来たとの事です! このままでは魔都に到達するのも時間の問題かと…!」
しかし、アリナは兵士の方へ一度も振り向かなかった。
ただ、彼女は机の一角――その一点を真剣な表情で睨み続ける。
その横顔にあるのは焦りではなく――
何かを決断しようとする、静かで深い覚悟の色だった。
そして、沈黙のあと――。
「そう……わかったわ」
そう低く呟くと、続けて強く言い放つ。
「――これで終わりねっ!」
カンッ!
軽快な音が室内に響く。
アリナは鋭い所作で、手にしていたそれを、テーブル上の盤面へと叩きつけた。
「いえ、終わりなのは魔王様の方です」
冷ややかに返したのは、アリナの対面に座る黒髪ボブのメイド姿の少女。
彼女もまた角を持ち、黄金の瞳で盤面を見据えている。
「チェックメイトです」
無表情で告げるその声は、淡々としていながら容赦がない。
「えっ、ちょ、ちょっと待って!? 一回、待ってぇーーー!?」
「ダメです。これで何度目の“待って”だと思っているのですか」
完全に呆れた声音で、魔王の懇願は斬り捨てられる。
部屋の片隅では、伝令兵がぽかんと口を開けたまま固まっていた。
「な、何を……なさっているのでしょうか……?」
「ん?」
ようやく振り返ったアリナは、きょとんとした顔で答えた。
「何って、チェスよ。チェス」
「チェ、チェス……? ま、魔王様……こんな時に!?」
「こんな時だからこそよー。第一、人間達がここまで来るのなんて最初から分かっていたことでしょ?」
「そ、それは……そうですが……」
まったく状況についていけず、伝令兵は深い困惑を露わにする。
アリナは、そんな彼にふっと表情を引き締めた。
「それで――魔都内の避難状況は?」
声が一転し、魔王としての威圧が空気を支配する。
「はっ! 現在、半数の民間人は避難完了。しかし残り半分は……全員の避難には、なお時間が必要です!」
「……そう」
アリナは静かに立ち上がる。
ドレスと黒い甲冑が擦れ、わずかに金属音が響いた。
「行かれるのですか、アリナ様?」
黒髪のメイド少女が問いかける。
「ええ。――伝令兵、全軍に伝えなさい。“魔王が出る”と」
「はっ! 了解いたしました!」
伝令兵は力強く敬礼する。
「何があっても住人の避難が終わるまでは時間を稼ぐ。……いいわね?」
「はっ!」
最後の言葉を聞くや、伝令兵はその場から走り去り、廊下の向こうに消えていった。
アリナは小さく息をつき、背後の少女に目を向ける。
「じゃ、あとのことはお願いね……」
部屋を出ようとした、その時。
「アリナ様……」
黒髪の少女が膝をつき、深々と頭を垂れた。
黄金の瞳には、抑えきれない涙が浮かんでいる。
「今まで……貴女にお仕えできて、本当に光栄でした。
本当なら、私も――」
「はい、ストーップ」
アリナは軽く手を振る。
「その話、もう何度もしたでしょ?」
「……はい」
俯く少女。
しかし、それでも想いは溢れる。
「私たち魔族は……おそらく人間に敗北するわ。それは仕方がない事。でも、それで終わりじゃない。未来を、絶やすわけにはいかないわ……。だから――魔族の未来は、あなたに託すの」
「アリナ様……生まれ変わっても、私は貴女にお仕えしたい」
「えー? 仕えるって言うけど、私もう魔王なんてやんないわよ? 忙しいし、疲れるしー」
ふっと肩をすくめるアリナ。
「それはアリナ様が“人間との共存”を望んだからですよ」
「だってー、いがみ合ってばかりより共存の方が楽でしょ? ……まあ、結局こうなっちゃったけど」
「ふふ……そんな貴女だからこそ……私は貴女を支えたいのです」
少女の言葉に、アリナはほんの少しだけ困ったように微笑んだ。
「ほんと……貴女って物好きね」
そしてくるりと背を向ける。
「それじゃ……行ってくるわね」
少女は立ち上がり、深く礼をして言った。
「――行ってらっしゃいませ、魔王様」
キィ……。
扉の閉まる音が、広い部屋に孤独に響く。
アリナは静かな廊下をゆっくりと歩き始めた。
その背に揺れる黒い翼が、夕日の光を受けて影を長く伸ばす。
「はぁ……本当に、いろいろあったわねぇ。……もし次に生まれ変わったら……今度は静かに、のんびり暮らしたいなぁ」
そんな独り言をこぼしながら、アリナは戦火へと続く廊下の先へ消えていった。




