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史実の海陵王

海陵王の制度改革

作者: 鈴木 強

 暴虐な帝王として知られる海陵王。彼がどのような人物だったのか、知られざる一面を『金史』より読み解いていこうと思います。

 前回、民政に就いて少し触れましたが、今回は制度改革について見てみましょう。

 『帰潜志』巻十二の「弁亡」にこうあります。

 海陵王は暴虐ではあったが、頭脳明晰で大志あり、官制と法律を定めて共に見るべきところがある。また人材を抜擢して混沌とした天下を統一しようとした。成功には至らなかったとはいえ、国を強くした。


 著者の劉祁の時代には暴虐という但し書きを付けなければならなかったのでしょうが、それでも海陵王は有能であったと評価しています。ではどのようなことをしたのか。海陵王の制度改革を見るなら、本紀よりもむしろ志をみるべきでしょう。以下は志からの抜粋です。


巻四十五 志二十六 刑志


 このころ杖罪は百までで、臀部と背に分けられていた。海陵王の時代になり、背は心腹の近くであるとし禁じられ、主人が奴隷を打つ場合でも、背を打つのは違法とされた。

 また多くの旧制が改められ、正隆年間になると、『続降制書』が著され、『皇統制』と共に施行された。


巻四十七 志第二十八 食貨二


 海陵王の正隆元年二月、刑部尚書の紇石烈婁室らを十一人、大興府・山東・真定府に分けて派遣した。官有の荒れ地や閑牧地、官民が占拠したため戸が逃げていなくなった地、以前に守備兵が占有し今は官で管理している地、地方官が職務以外で増置した田、大興府と平州路で僧尼・道士・女冠が有する地などを調べ、使われていないものを没収し、猛安・謀克の戸を移住させて与えた。また民に貸す場合には、官に地租を納めさせることとした。


巻四十八 志二十九 食貨三


 金初は遼と宋の旧銭を用い、天会末には劉予の「阜昌元宝」と「阜昌重宝」も用いた。海陵王の貞元二年の遷都の後、戸部尚書の蔡松年が宋の鈔引法を復活させて交鈔(紙幣)の制度が始まり、銭貨と併用した。

 正隆二年、四十年以上の年を経て、再び銭貨の鋳造が計画された。十月に銅を国外に持ち出すことを禁じ、処罰と告発の褒賞を定めた。民間から銅合金の器を集め、陝西と南京は京兆に運び、他は中都に運んだ。

 三年二月、中都に、東の宝源と西の宝豊の二ヶ所の銭監を置き、京兆には利用の一ヶ所を置いた。三監で銭貨を鋳造し、印文は「正隆通宝」であった。重さは宋の小平銭と同じで、文字面は深く整い、旧銭と併用した。


巻五十二 志三十三 選挙二


 検法・知法・国史院の書写は、海陵王が置いたものである。


巻五十三 志三十四 選挙三


 およそ内外の諸官庁の吏員の制度は、正隆二年に定めた。知事・孔目出身の俸給を定め、全て都目が監査した。

 海陵王が初めて、尚書省・枢密院・御史台以外の吏員を全て雑班とした。そして諸吏員を昌明殿に集めてこう諭告した。

 「汝らは、班次がやや降格したと不満に思わないように。才能があれば序列に関係なく抜擢しよう。」

 また少府監の吏員について定めた。中央の省庁の旧吏員と地方の吏員に対し、試験に合格すれば中央の吏員に就けることとした。


巻五十四 志三十五 選挙四


 廉察の制度は、海陵王の時代に始まる。正隆二年六月に、清廉で有能な地方官を同じ地に再任するよう命じた。

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