実験的創作短編:毒蛇使いの少年と寺守りの青年
※後々、細かい修正など必要であればしていく予定です。
酷く立派な山門であると、少年は圧倒されるように思った。被っていた蓑の菅笠を僅かに上げて、息を静か呑んで仰ぎ見る。
黒々と鈍く光る瓦屋根を戴いて聳え立つ姿が、周囲に白く漂う雨霧により幻影的な色合いを纏い、より威容たりえていた。人気のない寂寞とした重厚感を伴い、見る者をどこか圧する。
山門に続く石階段の両脇には、紫陽花の低木な何本か植わっていた。五分咲き程度の花弁が蓄えた雫を揺らし散らす。鬱蒼と木々の生い茂る山中という環境から滲み漂う重い湿り気にその花々は、華やかな軽涼さを添えていた。
山岳が国の大半を占める地帯においても、この辺りの山道は特に厳しいと知られている。山岳信仰を体現する修験者の存在もほとんど根付かず、僅かな手で育まれた流派も乏しくなりつつあると聞く。
先ほど通りがかった人里の長より、北東の峠道は未知に等しいと告げられた。
今しがた辿り来た山道は、山岳の多いこの地帯でも特に峻嶮と知られており、修験者の往来も侘しいという。朝廷に保護された寺院とされるに相応の規模を建造物として有していることに目を瞠らされる。
少年は修行の旅路の途上であった。僧の行脚ではない。年端もいかぬなら無論のこと、玄人でも難を要する道であると麓の村長にも一時止められたが、目的のためには避けて通れぬ地点であった。
「ここを越えてしまえば、早くも次の山場へ辿り着けるよ。もう一息だね」
茶褐色の跳ねっ毛が多い治まりの悪い髪を後頭部で結い、赤褐色を基調とした袖の無い道着を纏う身を更に一般的な旅装で覆っている。丈の短い合羽を羽織り、手首は手甲に包んでいた。袴より下は白い股引に黒い脚絆、足に嵌るのは簡素な草鞋だ。
天候は悪く、申の刻も超えようかと言う初夏にしては薄暗い。それにも関わらず少年は、景色に似合わぬ垢抜けた軽快な声で、何かしら呼びかける。空元気ではなく、普段通りの調子だ。ただ声を掛けた先は、自身の首より下であり、口の効ける供の者でも連れているわけではない。強いて存在を見出すなら、腰帯に一個の小壺が吊り下げられている程度だ。あとは申し訳程度に護身と道捌けの用途に備えた短い山刀が並ぶ。
「そこな者。見ぬ顔だ。誰そ彼時を前に、山の門へ踏み入るか」
不意に頭上より向こうから降って湧いた鮮やかな声に、眼前へ視線を戻す。
直前まで一切の気配がなかった箇所に、高い人影が立っている。山門に至る手前の石階段の最上に、柳の文様が刺繍された黒長靴を嵌めた両脚を揃えて見下ろすのは、若い美貌の男だった。
流麗な光沢を浮かべる白髪を腰の丈まで垂らし、ゆったりとした青金色の糸が合わせ目に縁取る純白の長衣に身を包む有様は、端正な容貌も相まって深山に隠れ潜む幻想郷の仙人か、誘い惑わす妖狐を思わせた。剃刀のように切れ上がった透明感に満ちる瑠璃色の双眸を濃厚な白の睫毛が囲み、さらにその周りを金色の化粧が彩る。頭頂部で団子状に結ばれた頭髪が、大きな蝶のような形を成す鮮明な紺碧の太い紐が巻かれているのが大きく特徴的だ。
中性的ではあるが、甘美、と表すより全身の荘厳めいた雰囲気から怜悧な印象の強い白皙の面には、短く放たれた一言と同様にれっきとした強い警戒心が滲み出ていた。艶やかですらある白桃色の薄い唇は堅く引き結ばれている。
「ええと、道なりに行けば、そうなりますね。開けた林道は、目の前の門へ続くものしかありません。少しでもお邪魔させていただけると有難いのですが」
甚く明朗な表情で、気さく且つ丁重に申し出る。対する答えは素早くもたらされるが言葉ではなかった。一言終えた時点で、電光石火の如き風圧が真上より少年の身体めがけ突進していたのだ。
対峙する青年が口を開く素振りすら取らず、瞬間で跳躍するや滑らかに長い右足を振り下ろし、蹴撃を発したのである。幸い、少年も小柄な体躯を活かすように恐ろしく俊敏な動作で回転するように躱たため、擦過する程度に留まった。
青年の攻勢は俊速にして器用で、身を掲げた瞬間に白い長衣を空中へ向けて払い除けるように優雅に脱ぎ捨てるや、少年と変わらぬ軽装と化したのである。長衣の下に身に付けていたのは肩から袖がなく、踝までの短丈の濃紺の道着だ。滑らかな生地の所々に白孔雀の羽及び藤と紫陽花の花模様が刺繍であしらわれている。
露わになった頑健に盛り上がる上腕二頭筋や身体の線に沿って浮彫となった厚めの胸板から、肌を覆っていた状態では想像し辛いほど鍛錬を積んだ雄々しい肉体の持ち主であると見受けられる。
「山神の聖域を犯さぬと断じられぬ内は、尊き信の術にて迎え撃つぞ。それを入門の試練とする!」
攻撃を外した悔いは美貌に過らなかった。ただ、まるで信仰の意思を体現するが如く、冷厳とした硬い顔つきで再び構える姿勢を取りながら淡々としかし強硬に宣言する。右手を引き、左手を大きく前方に押し出す拳法の構えだ。
「やれやれ、お話の余地なしですか、困ったなあ。俺は旅もまだ素人で、身を守る武道の心得もろくにないんですよ」
少年の方も調子を崩す様子がない。突拍子もない展開にも関わらす、無邪気に苦笑した顔で悠々と土誇りを払い落している。状況を鑑みれば、あまりにも能天気で緊張感のない態度だ。
「あなたは特別な修練を積んでいて強そうだ。上背も圧倒的だし、このままでは分が悪い。ということで、二対一となる加勢を許してください」
唐突な言い方に、青年は怪訝そうに眉根を寄せる。警戒心を露わに、前触れなく鋭い武術を仕掛けた手前で変に泰然自若としているのは、味方が控えてでもいるからか。しかし、鋭敏に鍛え抜いた神経を広範囲に向けるも、明らかな気配は掴み得なかった。
「おいで」
青年が頷くなどするより早く、少年は更に奇妙な真似に出た。ふいに頭を右斜め下に緩く落とし、優しく呼びかけるように囁いたのだ。足元にさえ何も見えない、優勢な猟犬らしき影さえ現れる様子もなかった。
僅かな動作も見逃すまいと青年は目を光らせていたが、少年は囁きの後、ほんの軽い動作を行った。ふいに右の腰帯に結び付けていた小さい壺を取り外し、木蓋を開けて地面の方向へ傾けたのだ。
瞬間、静穏な森の霧雨に霞む空気内に、何やら異物が放り出された。ぼとりと、湿りぬかるんだ黒い地面に転がり落ちて鈍い接触音を立てる。形状は丸みを帯びてやや太く、大きさはイタチほどであったが、日の陰る雨林の中で暗い表面に蠢くような光沢を纏う様態は獣のそれではない。
滑らかだが、どこか不気味にくねる動きを僅かに見せた後、得体の知れぬそれは、先端と思われる部位を捻るようにもたげて相手の立つ方へと向けた。
鎌首のような丸い先端には、側面寄りに線対称の円らな瞳が並んでいた。人間のものであれば結膜に当たる箇所が真っ黄色く、瞳孔は茶色い異形の構成。
特徴からして、猛毒性の爬虫類、恐らく蛇に違いなかった。蛇、というには胴体はずんぐりして太く、とぐろを巻けるほどの長さと細さに欠ける上尾も四肢も見当たらぬ。だが筒のような腹部が微動だにする都度密接して這い摺る様子で大まかな検討はつくのだ。
唐突な怪奇的展開に青年は、勇敢な武道家らしく息を呑む音を小さく留めつつも尚気を引き締め、四肢を力ませる。
高まる緊張感の中、炯々たる双眸の下にある口が笑うように深く割れた。二股に裂けた蛇舌がちろりと覗いて引っ込み、喉奥より声を鳴らす。
「きゅきゅー」
「……」
身構える姿勢を強めていたはずが、ふと緩んで僅かに足先から摺るような音を出してしまった。威嚇の鳴き声が来るであろうと自然に予測していた矢先、吐き出されたのは想像だにしない間抜けなものだったのだ。まるで、小鳥か小動物が甘える時の音程ではないか。唖然としたことで技を放とうと一点集中していた気がつい削がれ、冷然と固められていた彼の思考が次の瞬間どう出たものか高速に駆け巡る。
「俺の相棒にして、旅の心強い助っ人、蝮の黒糖ちゃんです。よろしくお願いしますよ」
一方、妙な蛇類の飼い主らしい少年は飄々としていた。青年の驚きなど意に介する様子もなく、ごく親しい友人を紹介するように、落ち着き払った態度のまま異形の存在について端的に告げて恭しく頭を垂れる。
ちなみに、この際、対する青年は深く意識していなかったが、視界の端で彼の蛇類が頭を御辞儀のように下げる仕種を取るのを認めた気がした。
「蝮だと……?」
麗貌を訝しさにやや歪め、相手の口にした名詞を鸚鵡返しに呟く。世の多くが抱く印象とは真逆の可憐めいた名づけには構う暇無しと敢えて気を反らす。
蝮であれば蛇の一種であるはずだ。当然の如く山育ちである青年は心得ていた。手伝いの芝狩りや山菜狩りで幾度か遭遇し、師の教えで何度も遣り過ごして来た。
しかし、今しがた足元で鳴き声らしい音を呑気に発した異相の蟲には、経験と知識で有する特徴がほぼ当てはまらない。全体は薄い茶色に、黒褐色の斑紋のような模様を纏っている点のみが僅かに一致していた。
特に異様さとして際立つのは、声帯によるものと似たような鳴き声を上げたことだ。蛇は人や獣のような声帯は持ち合わせておらず、喉を震わせる発声を行うことができない。よく耳にしたり、一般的な動作だと伝え聞く「シャーッ」と言った威嚇音は、気管・呼気を用いての発音だ。
異様さの積み重ねを踏まえて改めて観察すると、一見獰猛らしい色彩を備えた瞳の形状も随分と丸みを帯びて円らに過ぎる。どちらかと言えば、雨蛙や青大将のように無害に近い類にある愛嬌すら醸し出す目つき。この締まり切らない不可思議な柔和さは何なのかと、返って妙な不気味さを上乗せする。
だが、以上のような特殊性を踏まえても、飼い主の少年も含めた要素がやはり只者ではないことを告げていた。ただの旅の小僧が、毒を孕む蛇を持ち歩いている状況が充分に異様なのだ。国の書状など付与された身の上にも見えず、確かな風情の大人の同行もない。関所で曲者と認識されずに山寺の通り道まで越境に至れたのは奇跡、いや運命のふざけた悪戯と言えよう。
「は、面妖な真似をするものだ。蝮であれそうでなかれ、蟲の類を武闘にて用いるとは卑怯なり!」
敵意で強張る美貌に義憤の色が混ざり、一層鋭くなる。握る拳の音にも力が膨らみ、鈍い収縮音が鳴った。
「頑ななお方だなあ。お山を警護する坊様とは皆こうなのですかい? 彼女は人を喰わんですよ。武闘もへったくれもありゃしませんぜ」
客観的にどう考えても異質な手段に出ておいて少年は、青年が警戒心を高める有様に呆れたように面食らっていた。更に驚愕すべきは、少年の隣にそそり立つように並ぶ蝮とやらも、まるで、飼い主の反応に呼応するような感情的動作を呈したことだ。鏡餅の継ぎ目のように太く膨らんだ首元を、左横斜めに軽く倒して「きゅきゅ~」とまたもや間の抜けた音を、舌を出し入れしつつ発した。まるで、疑問を抱いた者が首を傾げるようであった。
「あ、今彼女って言いましたけど、この子、雌なんですよねえ。ちなみに産卵時期はまだです。組ませる旦那が決まってねえもんで」
尚も悠然と少年は聞かれてもいない相棒の状況を説明するが、青年にしてみれば、毒蟲であるという事実以上に何を提示されたところで、やることに変わりはなかった。軽口に応じる余裕など湧くばかりか、元より冗談を用いた景気付けを苦手、むしろ厭いすらする程清廉強情なる気質であった。
意識は強く毒蛇に刺し向く。軽装で無警戒な子どもでしかないように見えた相手は、どうやら蟲毒を操る述師であったようだ。特別な気配など微塵も漂わせていなかった。
「貴様も本気と見た。ならば、これ以上の躊躇なし!」
明美に透ける瑠璃色の双瞳を煌々と燃え怒らせ、両端を踏ん張り跳躍すると、石階段を両脇から挟み縁取る土の斜面一度、己の体重を推し注ぐように足裏を貼付けた。一瞬の後、バネを用いるように難なく蹴って、少年の視界を奪わんと中空へと舞い上がった。
どう手繰られるにせよ、最も危険な蟲をまずは抑えなければ、このふざけて見えるが得体の知れぬ少年に守るべき聖域へ踏み込まれてしまう。素手による肉弾のみで敵わぬと察知した青年は、高く浮かんだ姿勢のまま、短く寺院伝来の呪言を小さく唱え、唇の前で揃えた細い日本の指で印を結ぶ仕種を取る。彼の操る武術の一種にある特殊な気功の技だ。次の瞬間、指先を包むように青白い光体が生じたそれを、大上段より腕を振りかぶりながら蟲目掛けて刺し放った。毒蛇というには随分間の抜けた面構えに似合わず、長大に伸びた凶悪げな二本の牙をへし折らんと、気後れなく真っすぐに狙う。
「おっと、出て来てもらったのは、何としてでも勝つためだけではないんですよ」
一層気の立った青年とは対照的に、どこか茶目っ気すら湛えながら悠長に言いのけて見せる。彼の手前では、垂直に放射を受けたと思えた蟲が巧みに光弾を避けて土の上を後転していた。
人ではない、増してや普遍的に知れた蝮とは別の異質な蟲ではあれど、奥儀に等しい気功術を躱したことに青年は動揺を隠せぬという表情をした。艶めいた蒼い瞳の表面が暫し瞬くや、次の瞬間には自らの足を武器として繰り出していた。地面に擦れるほど、大きく開脚しつつ腰を撓ませると、右足を唸らせ回し蹴る。蛇は当たり前のように軽快に転がり続けながら回避し、長さから巻き添えになりかけた主の少年も頭を屈める仕種のみで間一髪避けた。その時には既に反対側の足も空を裂くように猛進しているのだが、一匹と一人は悠然と対処し続ける。素人であれば決して躱し切れず、内臓を破裂させる程の威力を備えた闘技による足刀は、数度も空しく風切り音のみを刻んで凪いだ。
少年の目線は、青年の顔を見ていない。厳密には、青年の肉体のある一か所に集中して視線を注いでいた。観察するように、念入りに。
殺気立つ相手の心中を余所に、幼童の面影が些か抜けきらぬ目つきで、冷静に見極める。
青年の強靭な健脚は、まるで一つの生き物の如く猛攻を繰り出していたが、右に偏っているようで、軸足が左にばかり集中しているようだった。支柱とするそちら側は比較的筋肉が頑丈に張っているから―という様相ではない。無意識下なのか、前に出る都度、左足を後方に素早く引こうとしている。庇いたい部位があっての行動だと思われた。
目を凝らせば、足首の内側に何か小さく刻印のようなものが付いている。痣と言うには、濃い黒さに濁って染み広がっていた。一点に渦巻く蛾の大群を思わせる歪で不吉な形だった。
「よし、黒糖ちゃん、御坊の足の肉を狙いなさい!」
見定めた少年の行動に躊躇はなかった。気勢良く指示を放つ。受けた蝮も「きゅきゅ~」と場違いな軽い鳴き声を出しながら、巻き寿司のような図体を機敏にしならせて対象部位へ突進した。
「何をしようとする!!」
焦燥に駆られて青年は叫んだ。 心根は乱れ、表情の怜悧さは完全に抜け落ちている。
あの蝮は毒蛇という重大な点を差し引いても得体の知れぬ生物だ。気づけば、反射的に阻止せんと考えるより先に肉体が駆け出している。憤然と勢いのまま、飛び込んで来た丸い毒蛇と離れて立つ少年に、筋張った長い腕を伸ばした。
左手では蝮の頭部を抑え、右手では指で細い少年の首を鷲掴んでいる。猛毒に対峙しているという根源的な恐怖心を、真摯な武術家としてあり得ぬ軟弱と叱咤し、その強い意思を持って美しい歯を食いしばりながら押し殺しての見事な早業だった。掌には爬虫類の鱗に固められた異形の肌触りが粘り気を帯びて染み伝わり、身体中に微細な鳥肌を煽り立てるも無様な呻きは呑みこむ。
「落ち着いてください、すぐに終わりますから」
劣勢に逆転したはずの少年の声は尚も平静だった。首を軽く封じられながらも呼吸は穏やかで、やや宙に釣られた体勢にあっても向ける目は観察者のそれだ。
青年は冷や汗に滲む眉を訝しげに顰める。
「何? 貴様どういういうことだ」
有利さを取り戻したはずの青年の声の方が、絞り出すように心もとなく、無意識に震えた。問いを発した直後、奇妙な違和感がこみ上げ、血の引くように全神経に悪寒が走り抜ける。激痛に等しい衝撃を感知したからではない。視界の下方に異様な展開を認めたからだ。
その瞬前、左の掌中をから粘り気ある丸みが滑るような感触が生じていた。鍛え上げられた腕力によって確実に牽制したはずの蛇が、いとも容易く指間から擦り抜けていたのだ。太くやや重そうな胴体を巧みに収縮させて地面の真上へと脱出している。
青年が息を呑み瞠目した時には、普段より一段と気を払う足首の寸前で、顎が割れんばかりに開いていた。大きく露出した長い四本の八重歯から不気味に粘液が滴り落ちている。
刹那、今度こそ防がんと本能的に再び掌を力強く蛇の頭上に下ろしてみせたが、最終的に最も早かったのは蝮の方だ。
掴んだからと言って蛇の牽制に効くことはなく、伸び伸びと向かれた牙は静かに色白い皮膚に刺し立てられていた。
ズブリ、と音がしたわけではないが、深く針が食い込むような刺突感を覚える。
さっと青年の血の気が引くと共に、一瞬、激痛が走ったかに思われた。高揚する神経を宥めて、状況を分析せんと冷静に感覚を研ぎ澄ます。
暫く目を瞑りながらそうしていたが、途中はたと我に返る。痛みがまるでない。瞬時に引いたのではなく、実際には端から、針を打たれた時の微弱な痛みさえ認識しなかったのだ。確かに皮膚を食い破らんとするかのような光景に、痛みの発生を錯覚したのだろう。
(どうなっている)
恐る恐る視線を移動させれば、依然マムシを名乗る珍妙な蟲が己の左足首に噛みついている姿が確認できた。上下の顎に猛々しく生える四本の八重歯が、がっちりと白い筋肉の凹凸を咥えている。なかなか離そうとしない。だが、やはり痛覚には何も感じられない。それどころか、毒が体内を廻る違和感も湧く気配がない。
「まだ消えませんかね、疑念が。いや、その道の者としてまずお伺いするべきでしたね―具合は如何です、お兄さん」
青年が不思議な現象に完全に気を取られたことで、いつの間にか緩んだ右手からスルリと滑り降りていた少年が優しく尋ねる。
敵意に晒され続けた者の態度ではなかった。どころか、逆に攻撃的である相手から窮地を見出し、救い出そうとするそれでいる。
やがて、マムシの方は数分ほどしっかりと噛ませていた顎をぱっくりと離して、「きゅきゅ~」と間抜けで軽やかな声を上げながらでんぐり返りの要領で少年の足元まで戻った。
青年は、惚けたように蒼い双眸をしばたたく。少年と蝮を交互に見比べてから、ふと先ほどまで牙に挟まれていた優美な左足首を、厳密にはその内側の皮膚へゆっくり視線を這わせた。
該当箇所に目を止めた途端、愕然と呻く。長年当然のように染みついていた不気味な黒点が跡形もなく失せていたのだ。しかも、心なしか軽い。入り辛かった力が自然に誘発される気がする。変化に戸惑う相手に、少年は飄然と説明した。
「その子、我が家の手法で育てた”毒を吸い取る毒蟲”なんですよ。貴方を蝕んでいたものは、今黒糖ちゃんの胎内にある強力な毒で分解されています。どれ、便利なものでしょう?」
まだ、唖然と少年を凝視し続ける青年。飲み込みあぐねている様子にはさほど頓着せず、少年は胸を張って効能の利点を強調し、無事成し遂げたような気分で安穏と見つめ返していた。
ところが直後、すぐさま美しい顔が刷毛で払った時のように赤く染まるのを目に留めて、泰然としていた彼もあんぐりと開口した。怒気による赤面に加えて、形の良い奥歯が歪な軋り音を絞り出して噛み締められている。
烈火の如き逆上に、少年は素っ頓狂な顔で目を白黒させた。何やら返って裏目に出て、火に油を注いだようである。
「傷が治ったから何だと言うのだ、気味の悪いことに変わりはない。毒を吸う蝮などあり得るか、どうせ下法に違いないのだ。せめて正々堂々、己が肉体を打ち合わせて私と果たし合え!」
鋭く吐き捨てながら改めて拳を前に突き出し、肉弾による決闘行為を迫る宣言を放つ。盲目的なまでに武道家としての誇り高き指針を重んじる青年にとっては、屈辱の植え付け以外の何者でもなかったのだ。
だが実は、呆気に取られている少年よりも青年自身が、ふっと沸いた激情に囚われていることに驚きをもって自認していた。否、生まれつき聡明な性根と理性を兼持する彼は、脳内では正しく理解していたのだ。今しがた自身が施されたのは、紛れもない救済行為であった。悪意など持っての他、少年特有の変哲な手法であるが、初めから善意によって、積年抱えていた厄介な病根を摘み取ったのだと。しかも、見たことのない鮮やかな手際で。足は今まで味わったことのない活発な血液の流動に弾む心地で、有利に働いた結果を明確に証明していた。
納得できぬ要素があるとすれば唯一つ――慢心で不覚を取ったという事実が何よりも自己を許さなかったのだ。自責の念の重さ故に、相手に対し意地を張って躍起になるという醜態を招いている。よほどこちらの方が恥晒しであり、理不尽だろうと分かり切っていた。
意固地を通そうとする幼稚な自尊心と素直に誠意を受理すべきという賢明な理性。相反する思念が何度も鬩ぎ合う。
上手くいかぬ感情の流動故であった。学術・武術で幼年期の内に教導者を唸らせる進歩を遂げても、遣る瀬無さを僅かにでも覚えた時、情動の制御だけが年相応にままならなくなるというのが、現在も尚時折忠告される悪癖であった。
脳の方では結論が出ているのに、口からは複雑な矛盾を少年に弁明する術を導けぬ。身勝手にも己の心理の決着のためだと無意識に言い聞かせ、暴力的な行動を開始する。掲げた両腕を、空を凪いで大きく引き、脱兎の如く前進した。
「妖しい術者風情がどこまでも減らず口を! 我が腕で成敗するのみ!」
「ちょっと、薬が入った直後に暴れるのはご法度ですよう。やれやれ、とんだ要らぬお節介扱いだったようですな」
取り成そうと慌てて両手を己の顔の前で振り、交差させる仕種をするが、観念したように頭を掻いて防戦の体勢に出ることにした。少年は攻撃の意志をさらさら持ち合わせていないのだ。極めて冷静に、マムシに新たな指示を囁き声で下す。
「本来なら安静にする必要のある時に、彼は興奮して落ち着けないでいる。血の気が今より上昇したら、壺を軽く刺激して抑制するんだ」
足元に控えていた蝮は、強く受理の意を表すように「きゅっ」と甲高く鳴くと、様子を窺うように太った鎌首を回し、待機する態勢を取った。
青年は、視界内に迫る少年の、困惑を呈しつつも全体の雰囲気では和やかに弛緩し切っている様相に、不真面目さを覚えて歯軋りした。
突飛な反応で暴走に転じようが、どこまでも余裕綽々としているのが本能的に気に食わない。実に歯がゆく、憎しみすら滾る。
見た目からして五つ以上も下ると思われる小僧は、妖術じみた真似で不意を突き驚かせたばかりか、恩を着せようとするとはどういうことか―内奥では不条理と完悟している拙劣な悪罵と非難が脳裏に浮かび、思考するより先にその一部が口腔より吐き出される。
「また毒蟲に委ねるか!卑劣な! 」
三文芝居じみている、と内心で嘲笑う理性の声を無理やり封じ込めながら、伸ばした手刀は凶暴な手段を続行している。気功の込められた肉弾は、刃物の武器と同等の危険な威力を発揮する。情念では熱がのた打つ最中でも、牙の分断に出る行動には彼なりの確信があった。
(先ほど噛まれたことで、咬合の威力は見極めた、俺に毒も痛みももたらせぬならば、マムシと名乗るはこけおどしに相違ない!)
牙とは言え、粒のように小さい代物だ。気功をふんだんに備えた蹴りでは維持できまい。導き出した根拠からの自信で背中を押し、踏み砕かんと顔面に押し当てる。
直後、短く苦鳴を上げて押されたのは青年の方だった。痛みで思わず跳び上がり、すぐさま石階段の前で着地する。
蝮は、「きゅ~」と相変わらず気の抜ける鳴き声を発していた。しかし、解毒のために牙を向けた時とは格段に気配が変化している。
毒蟲、という種に分類し称するに相応しい威圧感を、相対する雌蝮は今まさに身に纏っていた。唯白かった歯列の隙間から、青黒い紫色の臭気が、しゅう、しゅう、と、跳ねる二股の舌の動きに合わせるようにして空気の中に漏れい出ている。
痛みを覚えた自身の足を見てみれば、何の傷も付いていない。にも拘わらず、鈍い麻痺が低く太鼓を響かせるように爪先まで浸透していた。衝撃が引かぬ間で、尚且つ得体の知れぬ不気味な臭気を発しているとなれば、即座に間合いには踏み込み辛い。
「正当防衛のためです、ちょいと傷の毒、お借りいたしました! 」
その言葉で、青年は即座に把握した。また、己に生来備わる聡明さを働かせ、コ先ほど少年の言った説明にはなかった蝮が宿す特殊な体内構造について、分析を巡らす。
(こやつ、毒を吸うだけではなく、それを自らの血肉と化したのか!)
「お借りした」という表現が意味するところに相違ない。
自身の抱えていた毒素が思っていた以上に危うかったことを改めて認識すると同時、異様な性質による結果を受け止め切れず内心でなじる。
(毒蛇でありながら相手を毒せず逆に毒をもらい受け、己が力としての毒に変化させるだと! 奇術にしてもふざけている)
たたらを踏んでよろめくが、ほんの束の間だった。気力を絞って攻勢の体形に立て直し、執念的に透き通る両目を燃え上がらせる。右の足に気功を溜めながら再び疾駆し、蝮の横を抜けて少年の懐まで肉薄した。司令塔が動かぬ限り、蝮は攻撃に出ぬと短い間に悟ったのだ。高く斜め後方に反らし上げた足刀が、偃月刀を振りかざすように回転を利かせて側頭部に振り当てられる。
「うーむ、これは骨の折れる患者さんだ。こうなりゃ黒糖ちゃんだけにゃあ任せちゃおれないね、荒療治で臨みますよ! 」
言うが早いか、少年も腰に下げていた獲物を抜き放った。登山のために携帯していた山刀である。小雨に淡く水気に包まれた空気の中で、晒された銀面が鈍色の弧を走らせて光る。持ち主の表情と声は、悠然とした調子を尚湛えつつ、俄かに引き締まっていた。
「商売道具の源なんでね、脳を狙われるのはごめんですぜ!」
言葉と共に、気絶の意図で放たれた回し蹴りを、柄の底のみで受け止めてみせた。鉄面の刃に比べれば心許ない箇所であり、当然痺れを与える程の衝撃にぎちぎちと震えるが、握る少年の手がふらつくことはない。頑丈に持ち堪えている。
華奢な見た目に反し並大抵ではない武力を備えているらしい様子に、青年は僅かに目を見開いて驚愕するも一瞬のこと。初めに連続する早い蹴撃をのらりくらりと飼い蛇と揃って回避していた瞬発力して、尋常ならざる相手と分かり切っていたはずだ。
次は活力を得た左足でもって、渾身の蹴りを再び繰り出さんと掲げ上げる。一拍の間を置いて溜めた後、先刻以上の加速で突き上げんとした。
しかし、今度も敢え無く届かなかった。勢い良く伸びた足刀が、蹴り落すため刃の部分まで触れた直前、突如視界全体が巨大な白い光に覆われたのだ。同時、ふいに爪先から軽く焼かれるような痺れを感じ、反射的に地面へ降ろしつつやや後方へ飛びすさる。
少年もまた、遮る光の向こうで刀を引きながら、軽く驚いた顔つきで滑るように後ずさっていた。
「止めんか、粗忽者め!」
白い発光物の中から、何者かの叱声が轟いた。枯れたような掠れを帯びつつも、裂帛の鋭さを孕む力強い声音だった。
二人の攻防が交錯する刹那に、1人割って入った背の高い影がある。青年は急激な眩しさに額の前で手を翳しながら見守っていたが、猛然と煌めく光体を透かして徐々に明確な人物の輪郭が浮かび上がって来た。
電光石火の如き俊敏さだ。最前まで、人の過る気配も物音も、優秀な武術家の青年は気づけなかったのだ。
幻のように出現したのは、青年より頭一つ分高い白髪白髭の老人だった。頭頂部を丸く結い上げ、透き通るような長髪と龍髭が悠然とたなびいている。身に付けているのは、同じように一切の汚れが見当たらぬ漂白されたような純白の長い褶子という上衣と袴。両脚には白い刺繍入りの長靴を履いている。
老齢ながら豊かな白眉の下では、鷹の如き黄金の色の双眸が射るように光っていた。骨格は皮膚に皺を刻みつつも引き締まって勇ましく、青年に勝るとも劣らぬ美相の影をも漂わせている。若かりし頃は、一層潤い滴る張りに満ちて端麗であったろうことが、整った面差しに余さず漲る精悍さによって伝わり来る。
広い袖から伸びる老人の右手には、杵と思しき一本の棒が握られていた。滑らかな白金の胴体の両端には、蓮の花弁を象ったような装飾物が付いている。独鈷という代物だが、巷で目にする類とは異なる。花弁のように開いた中心の突起部には乳白色の瑪瑙と思しき宝石が嵌め込まれ、放散状に光輝を撒いていた。眩いまでに膨れ上がった白光の光源はこの瑪瑙石だったのだ。どこか神聖な後光のように空間へ伸び拡がり、青少年達の貌と周囲の草木を燦然と照らしている。
また、花弁状の部分は絡繰り仕掛けのように自動回転しており、高速で一周する都度に、宙へ小さな稲妻の如き蒼白の火花が弾け飛ぶ。宙で小刻みに爆ぜ、金属を軽やかに打ち鳴らす微細な鋭い音を奏でていた。
一見心許なくしわがれたか細い老いた手が掴む調子は強堅で、特殊な法具を手繰る姿は青年以上の積年の鍛錬が見て取れるような豪壮な雰囲気に固められている。
老戦士は不意に、ここではないどこかへ話すように、小さく囁いた。
「不肖者への叱責のため、かようなる手段での”宿霊祈闘”を、御赦しあれ!」
まるで、信奉する精霊あるいは守護神に対し、真摯に祈りを捧げているような、気高い趣であった。輝き続ける白金の棒状部に揃えた左手の二本指を押し当て、白い睫毛を伏せつつ、短い呪言を唱えるように唇を動かす。光は更に強さを増すと共に、どこか不思議な温かさを伴って周囲の風景を白く染め上げた。
「老師殿!!」
老人に呼び掛けたのは青年だった。煌々と照り返しを受ける美貌に浮かぶのは、敬愛する相手への信頼と畏怖。狼狽を残しつつも、毅然と己の教導者へ向き合っていた。
「……門番の役目を担う以上、鬼の如き警戒心は必定である。しかし、人の真まことを見極める姿勢を放棄し、問答の暇すら認めず、迎え撃つとは言語道断じゃ。謂われなく相手を責める行為は仇を呼ぶだけの、巡り返る因果を想定できておらぬ愚者の所業ぞ」
熱する青年を牽制した師の方は、勢い強い手法を取ったのに反して、甚く淡々と言葉を説いた。だが、内容は直接的で、針の筵と言える舌鋒だった。
「常に本分を見定めることから始めよと、なんど講話の時に言い聞かせたのか。忍耐を失したか、我が弟子よ」
「依然、未熟な己が身とは痛感しておりまする。しかし、彼の者は見ての通り、下法の妖術を秘め隠していたのです」
険ある叱責を受けて猶、青年は謙虚な態度を示しながら事情を改めて伝える。反駁の響きはあるが、少年に矛先を向けていた先刻より幾分冷静さを取り戻している。
「それは見苦しい言い訳に過ぎん。」
容赦なく、一刀両断に切り捨てた。その短い一言ですら、聞くものを痺れ刺すような威圧感を孕んでいる。老弱の衰退など微塵も伺えぬ、若者より瑞々しい高まった覇気を纏いて厳しく老僧は続けた。
「確かに一連の出来事については、山門前に馳せ参じる僅かの間に見届けた。しかし、初めから冷静に聞く耳を立て、少年の眼を真正面から覗き込めば、疑わしさの有無とは無関係に邪念なき意志の持ち主であると自ずと判る。例え見抜け切らずとも、猶予を持って人を相手取れる男おのこを目指すがよい」
稲妻に打たれたように青年は硬直し、二の句を告げぬ様子で押し黙った。暫し、やや落ち込んだ面持ちで口を閉ざしていたが、即座に凛と眼差しを上げた。
「……仰る通り。見苦しい愚行、弁明の余地はございませぬ。そして……」
師に対し、咎められた非に関する反省の答えを取ると、身体を少年に向けつつ、腰を下ろし立膝を付いた。淡い空色に近い銀が光る艶ややかな頭部を垂れ、至って落ち着き払った口調で謝罪の言葉を紡ぐ。
「酷い狼藉を働いたのは私の方であった。非礼を詫びる。申し訳なかった、少年よ」
最前までとは打って変わった、穏和な情の感じられる謙虚な様子であった。
「頭を上げてくださいな、御坊殿。わかってもらえりゃあ良いってもんですよ。何より、貴方も御無事だったわけだ」
少年はあっけらかんとしたもので、頭の後ろで腕を組みながら、結果に充分満足した面持ちでにこやかに微笑んでいた。続けて、佇む老人に目を向ける。
「にしてもすごい御老人だ。御坊のお師匠様でしたか。こちらの方こそ、突然のお邪魔で申し訳ございません」
「不肖の弟子が世話になりましたな。さぞ骨が折れたことでしょう」
厳粛にしていた目を和らげ、老人は笑みを浮かべた。
「真に面目なし。精進が足りぬの意、悟り切れておりませなんだ」
傍らで、腰を屈めた姿勢のまま、心底申し訳なさそうに低頭し続ける青年を目に留め、少年は苦笑した。
「ですから、頭を上げて下さいって。面白いくらい真面目な御仁だなあ。それに、私こそ貴方様の師に救われた身だ。先ほどは有難うございました」
少年が頭を下げると、老人は顔の前で軽く手を振った。
「何の。これの無作法を多めに見て下さり、当方こそ恐縮ですじゃ。儂はちょうど夕餉の支度のために、奥の山林で山菜採取をしておりまして、その帰りなのです。そろそろ山門が見えようかという頃、騒々しい音が耳に入りましてな。急ぎ歩を早めた次第です」
師の言葉に、少年は相手の背に筒状の竹籠が負ぶわれているのに気づいた。籠の口からは、ウワバミソウ、フキ、ワラビ等が数本覗いている。
「雨天故に分かり辛いですが、そろそろ酉三つの刻です。是非貴方も、夕餉を共にしていってくだされ。何より、夜更けが近いのだ。ここで旅の御休息を御取りなるのが良かろう」
山門から境内の中心を真っ直ぐに伸びる古い石畳みを進んで、客殿へと案内された。石の固い上がり框で草鞋を脱いで、古めかしく床の鳴る廊下を一本経たところに、小さいが丁寧な設えの座敷がある。
紫陽花が素朴な筆致で描かれた襖を介し、十五畳程の色褪せた畳の床が広がっていた。床の間には紫陽花の絵の掛け軸を背景に、一輪挿しの紫陽花が置かれている。
長押より上に嵌る欄間や天袋にも紫陽花が装飾されており、季節の花を飾る習慣があるというより、紫陽花を題材に扱う寺であるらしかった。
入り口と反対側に立つ障子戸を経た縁側の廊下越しには、竹林と雑木林を借景に手入れの行き届いた紫陽花の低木が幾つか植わる中庭が望める。悠々と広がる山林の深い緑と手の植栽の青い緑が印象的な小さな庭だった。
高く聳える木々の隙間より、空模様が覗いていた。雨は、降っているともいないとも感じ取れぬ、微細な小雨へと変わっており、天上には次第に晴れ間が現れているようだった。雲間を縫って、途切れ途切れに橙色の光芒が差し込み、周囲を淡い黄金色に染めている。久方ぶりに顔を出した青空はほんのりとした珊瑚色に滲んで、既に夕暮れの色合いを見せていた。
草木花土は、大量の雨を溜めたばかりで、僅かな日が射した程度、増してや落日までの時間が少ない今では乾くに遅い。だが、神聖な祈祷祭祀の営まれる寺院内にあっては、しっとりと濡れた庭は艶やかで、まとなく風雅であった。
青年は、師に諫められたことや、少年への対応に配慮が欠如していたことへの悔悟による気不味さからか、案内の先導役を長い廊下を行く途中で師に交代を申し出、客用の座布団に少年が腰を下ろしたのを見届けるや否や、「夕餉の準備をして参りますので」と足早にそそくさと庫裡があるらしい奥の方へと立ち去ってしまった。
体裁を繕おうとしてか、若干動揺の納まりきらぬ白皙の美貌に持ち前の怜悧な無表情を取り戻そうと必死げなのが終始見て取れ、少年は「そこまで片意地張らずとも」と案じるように思うも、傍らで見守る風情の師はおかし気に頬を歪めていた。
「気の逸り易い奴ですが、どうか多めに見て下され。あの通り、しゃかりきですが根が真面目過ぎるが故の裏返しでしてな」
「いいえ、番人としての誇りと責任をしっかりと持たれた良いお弟子さんじゃありませんが。そりゃあ一瞬肝は冷えましたがね」
言葉とは裏腹に、全く肝を冷やした様子はない。むしろ、最後まで振り回された挙句、煮え湯を飲まされる羽目になったのは”良いお弟子”の方なのだが、敢えて互いに気遣って触れなかった。
やがて、膳を抱えて青年が襖から現れた。一通り人数分、手前まで運んだ跡、最後に櫃を置く。
その手つきに淀みはなく、由緒正しき寺院の子弟に相応しく躾けられた成果が伺える。青年が櫃を開けると、炊き立ての飯の温かな香りが鼻腔を満たした。中には師が採ったのであろう山菜が混ぜられ、鮮やかな青みを伴い芳醇さを引き立てている。青年は優雅に膝を立てた姿勢で椀を一つずつ取ると、客人、師の順によそって引き渡し、最後に自分の分を盛り付けてから席についた。
膳の上には山菜飯の他に、焼いた川魚と山菜汁が添えられていた。質素だが、歩き疲れた身には充分栄に食欲のそそる献立であった。
蝮は一旦用事が済んだことで、普段の居場所である小壺に籠っていたのだが、飯の臭いに釣られたのか、少年の膳から分け与えられる形で器用に舌を動かし満足げに摘まんでいた。青年は驚き、老師は笑いながら沈着として受け入れていた。
膳を開けたところで青年は、長い繊細な三つ指を畳上に着き揃えて、密着する程深々と頭をその間に押し下げる。蝶型の結び紐が印象的な後頭部を見せながら、土下座に近いかしずく態勢でもって少年に対し改めての謝罪の言葉を述べた。生来の落ち着きを、容姿に似つかわしい優美な仕種で持って見事に発揮していると言えた。
「再三になるが、詫びと、そして何より礼を言わせてくれ。本来であれば、君は出会った時分から恩人と呼ぶべき男だったのだから」
なお構える堅さは残っていないとすれば嘘であろう。しかし、敵愾心を孕む警戒の色は既に皆無だった。冷静沈着として、理性的に抑制の効いた声調が居間に響く。
「過ぎた時間を惜しまないことですよ。結果が全てです。俺としちゃあ、旨い夕餉を馳走になれただけで充分な釣りですよ」
あっけらかんと言葉を受けた少年は、拒絶する時も許容する時も、何から何まで大袈裟だが、それが彼の美点なのだろうと考えていた。
「申し遅れた、私は陽氷という者です」
今度は軽く頭を垂れて、光沢の曲線美が優雅な旋毛を見せながら名乗った。
「や、こちらこそまだでしたな。俺の名前は破鎖間六枝実。代々、毒療師をやっている家の生まれでございまする。数奇なご縁ですが、以後御見知りおきを」
ゆったりと胡坐を掻いた姿勢で、頭の方は深く下げる。
最後に、陽氷という青年の隣に座した老僧が低頭して自らの名を明かした。
「黄龍珀と申します。当院の寺守並びに山神に纏わる武道の師範を務めております。ご滞在の間だけでも、我が弟子と仲良くしてやって下されば有難い。陽氷よ、金輪際、邪推での出迎えは控えるのじゃぞ」
挨拶のついで、弟子に釘を刺す師の言葉を、青年は粛々と受け流した。
「当然です。もう彼を恨みませぬ。なにせ、生まれ落ちた日より烙印された呪痕を拭われた恩義が出来ました故。先ほど、私のことを患者だと言ったな。お前は、最初からずっと、治療師としてのみあろうとしてくれたのだな。本当に、疑ってあいすまなかった。浅ましき無礼、赦してくれとはもうこの場ではくどく乞わぬが、数々の稚拙な先走りに顔が火照る思いなのだ。何遍顧みても羞恥が引かぬ」
切れ長い両目の間の整った鼻梁を押さえて、微かに頬を赤く染めながら嘆かわし気に言い募る。
「いやあ、前に起きたことは気にしないたち性質なんですよ。あなたの持病も治せて良かった」
明朗快活に言い放ち、呵々大笑する。突き抜けて細部に拘らぬらしいと悟った青年は、ほっとしたような微笑を浮かべた。
「師に倣い、私からも頼もう。短い間だが、それまでどうかゆるりと寛いでくれ。夕餉の用意だけではなく、他の形でも礼を尽くしたい」
「ご厚意、有難く頂戴いたしやすよ」
青年の丁重な申し出に対し、少年が揚々と応じた時だった。
「お待ちくだされ、なんと。まさか、あの傷が、治せたというのか」
やりとりを見ていた老師が、遮るように大きな声を上げる。面倒を見る師範として彼も気に掛けていたことなのだろう。
「治療を、六枝実殿、あなたが行ったと……」
蝮が人の飯を嬉し気に食すのを見ても落ち着いていた師が、驚きを抑えられぬ様子で声を詰まらせている。尋ねられた六枝実の方は、あっさりと首を一振りして頷いた。
「破鎖間家……。そうか、なるほど……」
「御存じなのですか、老師よ」
やがて、合点がいった様子で一人ごちる師に、青年が訊く。師は黙って頷き返すと、少年の方を見遣りながら言葉を続けた。
「聴いたことがあるぞ。毒療師とな。今では半分、伝説のように化している存在だ。確か、神宮廷府の管轄外となる地に一族郎党、身を潜めているいう話は耳にしているが。実際、生きている間に、この目で目の当たりにできるとは思わなかった」
「私は初耳です。しかも、蝮の毒によって毒を取り除くとは。そのような風変わりな治療方法を有する一族がおるのですか。その1人が、彼だと」
「ふむ、伝説の類ですかい。こりゃまた神話の英雄のような鼻の高い気分になりますが、ちょっと心細いですな。道理で、あんまり認知されている気配がなかったんですな」
少年は各々の反応を窺いながら、登山道に向かう途中、診察のために滞在していた麓の村で直面した驚嘆と怪しみがない混ぜになった顔色を思い浮かべる。
医術を担う職業者は現時点で、全国を統治する神宮廷府の認可がなければ数に加えられていない。少年の属する毒療師の一族は、南方の離島にある隠れ里を拠点としている。中央政府と隔絶している理由は彼も深く知り得ないが、市井の大半の医者では扱い難い高度かつ危険な薬物を操る特殊性が疎まれたのだろうと聞かされた覚えがある。隔絶しているとは言っても、古くから伝わる成人の儀の一環として、家法により定められた道程に沿い、少年期までに身に付けた初歩的な医療を実践する修行に出向く習わしがある。対立を理由とするまつろわぬ姿勢ではなく、ただ蟲達と共に自由に独立していたいというのが始祖である初代村長の隠れ里を選んだ理由だとされているが、実際のところはわからない。ただ、毒に苦難する者は誰であれ救わねばならぬという指針は掲げられている。始祖の性分が末裔の自分にも似たのか、六枝実もその指針を胸にしつつ、自由に患者様を診て回りたいと考えながら旅を続けてきた。
「君の連れている黒糖殿は、蟲にしては随分従順だが……一体、どのように育てられたのだ?」
食後、老師が彼女へのご褒美にと用意した金平糖を人の子のように嬉々として貪る蝮を、まだ信じられぬ心地で見つめながら青年は問い掛けた。特別な調教をしたのは違いないが、甘未に興味を示すほど人と味覚が変らぬというのは不可思議だった。
「治療を行った時もちらっと言いましたけど、俺の相棒、黒糖ちゃんは、人の感情や感覚を理解できるように育てられるんです。母蛇が生んだ卵から返った時分から、まるで実の兄弟が同じ人の友達みたいに、四六時中、連れ添って遊んだりしてね。里で栽培した情緒の起伏を促す特殊な薬草を胎内に注入する措置をしているからでもありますが。毒療師は皆、蝮だけじゃなく、生まれつき毒性を持つ生き物や蟲を診療の相棒として連れ歩くので、手なづける必要があるのだと教えられました。餓鬼の頃からじゃれ合っていたら、仕事仲間というだけではなく、家族みたいなもんですがね」
少年の話を聞いて、老師も青年も納得した。菓子を堪能する時の愛嬌さえ漂う今の姿を見ていると、子犬のような懐き具合もわかるようだと、それぞれ内心で恐れと感心を抱く。
「蝮殿の他の兄弟、もしくは姉妹はどうしている? 蛇であれば、複数生まれているはずだ。ご家族のどなたかの相棒として過ごしているのか?」
何気ない調子で青年が問い掛けた時だった。罵声を浴びせても攻撃的態度を取っても、徹底した笑顔で悠々としていた少年を取り巻く空気が、急に冷えたように思われた。無意識に、ゾクリと軽く鳥肌が立つ感触がした青年が少年の顔を窺い見る。
表情は落ち着き払っていて変わらなかった。ただ、ふと生気が抜けたように、目線がここではない虚空を向いて沈んだ面持ちである。口元にだけ、何とも言えぬ微笑が残っていた。相棒たる蝮の方は、主人の纏う気配の変化に気づいているのかいないのか、夢中で金平糖を頬張り続けている。
不味いことを尋ねたのではと青年が口を開き掛けた側で、固まっていた少年の方がゆっくりと言葉を紡いだ。
「毒を食べて毒を解毒し、毒を自分の血肉にもし得る。そんな強力な蟲を生業の御供にしないといけない決まりなんです。すると残念ながら、誰でもみんな一緒に、というわけにはいかない。黒糖ちゃん以外は、負けていなくなっちゃいました」
老師と青年は共に絶句する。暫くは居間を重い空気が押し包んだ。やがて、少年の方が平時の砕けた笑顔を口元に戻し、沈黙を破って笑いかける。
「彼女は、普段楽天的で、鷹揚に構えちゃいますけどね。兄弟の命も背負ってるんですよ。まあ、父も母も通って来た道ですや」
そこまでの台詞が発せられたところで、蝮が金平糖の皿から鎌首を上げ、主人の方へ向けた。そして、人間の情を吹き込まれたことを表すように、どこか哀切を孕む鳴き声を甘える子犬のように響かせる。
同時、師が刃ハッと閃いたように瞠目し、言葉を放った。
「もしや、蟲毒の術では」
“蟲毒”とは呪術の一種であり、広くは蛇や百足、蛙、蠍、蜘蛛等の小動物を一箇所に閉じ込めて共食いの争いをさせ、勝ち残った一匹を” 蟲毒”とする。本来は呪力を得るための食物とするのだが、破鎖間家では、強力な毒療のための毒を有する使役のための個体として飼育する風習としているようだ。
「御明察。蟲を育ててやるには、避けては通れんですわ。うじうじ嘆いても仕方のねえってもんです。顔してちゃあ、主人として示しがつかんでしょう」
愛情を注いで育てた飼い動物達に、まるで親族間の権力争いのような闘争を強いる。恐らく、共食いの相手となったのは黒糖の兄弟・姉妹達だ。残酷な意味を察して、再び師は口を硬く鎖し、隣の青年も沈痛の面持ちで沈黙を続けた。
驚くほど流暢に答える少年の口調は、どこまでも平明であった。しかし筋金入りとも入れる天真爛漫さは、測り知れない重い事情に裏打ちされた処世の態度かもしれぬと老師は推察する。
「おっと、気を病まれたなら申し訳ない。治療者失格だ。貴方方に暗くなられちゃ困りますぜ。言ったでしょう、先ほど。過ぎた時間を惜しまぬことですと。本心からの言葉なんですよ、あれは。少なくとも、陽氷殿の傷の方が深刻だったのは確かだ。一つだろうと二つだろうと、救い得た命のあることが毒療師にとって最上で大切なんです」
逆に、励まされてしまうとは実に恐れ入る。老師は内心で少年の担う背景と度量の深さに感銘を受け、本来の毅然とした老寺守の佇まいを取り戻し、姿勢を正した。身体は小さいが醉も甘いも既に噛み締めた気骨ある若き治療師に敬意を払い、いたずらに情けをかける真似はよそうと決意する。今度は、患者である弟子の師範として、素直に謝意のみを示さんと黄金色の双眸を炯と向けた。
「全く持ってその通りだ。これの病は目立たぬが、確実に寿命を蝕みつつあった。巷の名医とされる者に依頼しても完治することはなかった。儂めも術者の端くれとして多少の治療処置は心得ておりますが、かようなまでに即刻取り除けようとは……。今はただ、毒療師の存在を思い浮かべ、可能性を探っていればと深慮の至らなさを後悔するばかりです。貴殿に心から感謝を述べる他はございませぬ」
「老師よ、ご自身を卑下するのは御止め下され。私はこの通り、体調は健明にございます。例え早く処置できずとも、不肖私のために、充分に慈愛の御心を砕かれたのだ。懸念されることは一切ござらん」
師の苦心に労わりを投げかけたのは陽氷だった。力強い表明に、深く髭を溜めた口から、安堵するような吐息が落ちる。一連のやりとりを目に留めた少年は、「一件落着ということですな」とさっぱり笑って区切りを付けたのだった。蝮は一同を見渡すように、胴体をくねらせると、砂糖の粒がついた口回りをしゅるしゅると舐め回していた。
少年は、寛いでばかりは申し訳ないから次は夕餉の後片付けの手伝いをと申し出たが、またもや丁重にしかし毅然と断られてしまった。おろおろと見遣る間にも、青年は洗練された手際の良さで膳と膳を重ね、細腕に見合わぬ膂力で颯爽と持ち上げる。
「ところで、あのお若い御坊の方は、御住職の御子息、或いはお孫様で?」
夕餉の片付けを一通り終えた青年が、今度は風呂焚きの用事に掛かるのでと襖を閉め去った後、その姿勢の良い背を片目に視認してから少年は徐に問いかけた。
「……なぜに、そのようなことを?」
老人は切れ長い両目を細めつつ座布団の上で悠然と湯呑を白髭のかかる唇へ押し運んでより、繊細な手つきで敷物へ戻し置いてから、やおら口を開いて応じた。同時に、細くなっていた琥珀色の瞳を持ちあがりゆく瞼より徐々に見開き、正面の相手へ据える。口調は一定かつ柔和であったが、視線を捉える様子は、どこか闇夜に霞む群雲の隙間からすっと覗く半月に似て、静謐だか探るような鋭さを含んで見えた。
音は発せても言葉は編み出せぬ蝮は、自然外された存在となって、俄かに張り詰め出した空気の中、少年の横に這いつくばりのんびりと砂糖菓子を貪り味わっていた。
「お二人だけで、御寺院を切り盛りしておられるのが、少し不思議に思われましてねえ。言っちゃあなんですが、人通りもほとんど無い侘しいお山の中です。外界から手伝いなり修行の用で門弟を募るというのも難しいでしょう。なら、貴方の御身内かなとまず考えたわけです」
ささやかな気迫にも動じず、少年は泰然至極に言葉を続ける。おまけに、何気に遠慮を欠いた調子であった。
「…彼は、私の実の息子でも孫でもありませぬ。故あって、自我も芽生えぬ内より預かり育てておりまする」
しかし、老人に特段機嫌を損ねた気配はなかった。落ち着いた態度で、淡々と青年について答える。
「ほう。なるほど、些か高貴な佇まいの方ですな、どこの公家より修行に出ておられるのですか?」
寺を貶めているのではない。人気の無い山寺だが、都の名刹に見劣りせぬ風格と規模を兼ね備えている。大分色褪せた外装から、さぞかし昔は栄えた歴史ある徳の高い寺であったと考えられた。だが、施設の持ち合わせる要素や青年当人の群を抜く美貌を差し引いても、自ずと滲み出る貴人然とした風情は森閑とした空間に不釣り合いに思われる。身に纏う上衣も道着も良質の布を使用しているようだが、決して主張するまでに華美ではない。青と白を基調とした清純な色合いであったが、叩きこまれた礼儀作法や佇まいだけで作り上げられたものでないだろう。押し隠せぬ独特の雅美さが漂う。
老師龍珀には会話の折、第一声を発する前に、数拍間を置く癖があるようだった。老いによる反応速度の衰えから来るものか、思慮深い性格を裏打ちするように慎重に手前で思考する故かは伺えない。少年の次の質問を受けた彼は、今までの応答の時よりも、やや長い間を挟んだ。深く、息を吸うような音を零す。暫しの静寂の後、どこか重そうに師は唇を動かした。
「……あれは、生まれのわからぬ身の上です。何せ、赤子の時、当院の庭に捨て置かれていたのですから……」
「え……なんと…」
一調子に軽薄だった少年の声音も流石に濁った。しばらく二の句が継げず、大きな目を瞠る。
「これはとんだ不躾なことを申し上げました。非礼をお詫び致します」
痣や傷跡の残る剥き出しの膝小僧を掌で鷲掴み、収まりの悪い結った赤髪の頭を大きく下げた。
「お気にめされるな。珍しい時世でもないのです。どうかお顔をお上げ下され」
老人には相変わらず気を悪くした雰囲気はなかった。むしろ、こちらこそ重い気遣いを与えて申し訳ないとでも言うように、目の前で手を振りかざす。
「あれも、自身の出生には頓着せぬタチでしてな。物心ついて字の読み書きも充分に出来るようになった頃、武術の鍛錬の合間、呼び出して経緯を聞かせたのです。すると、あっさりと落ち着き払った表情で関心ありませぬと言ってのけましてね、以来その話題は、あれとはそれ切りでございます。当初は、子供であるがためと寺院で儂との生活しか知らぬ故、理解せぬがためと思っておったのですが……。学問の時間に家族の通俗・普遍的な形態を知り得ても泰然としたままでした。まあ、元より年齢に見合わず早くから達観した振舞を行う子ではありましたが……」
少年は顔を上げた後も、普段の軽口めいた言葉は返さず、黙ったまま神妙な顔つきで聞き入っていた。込み上げた気まずさに、事情がどうあれこの合間で挟むべき一言が思い浮かばなかったのだ。
傍らでは、主人の様子の変化に感づいたらしいマムシが、菓子を砕くのを止めて小首を傾げながら見上げている。
老師は、困惑を続ける少年の内心を知ってか知らずか、腰元を整えて、両膝の上へ上品に両手を揃え置きながら改まって彼を見据えた。
「席を立っておるのが、ちょうど良かった。当人には悪いが、もはや隠していても意味はありますまい。人と成りを知る一端のつもりで、小耳にでも挟んでくだされ」
小雨はいつの間にか止んでいたらしく、外の方は無音に等しい静謐に包まれていた。景色は掠れゆく残照に陰り、そよ風に揺れていた花々と木々の葉を影絵のように朧気にして浮かび上がらせる。
また、止んだ後も長い雨だったせいか、葉先より雫の落ちる音がした。ただ広い山院に、人がたったの三人、今この部屋には二人しかいない。大自然が大半部を占拠する空間の中で、仄かで儚いはずの水滴の一粒は、微かに反響して聴覚を震わせた。
「あれは今より約十七年前、今日のように時雨の降る頃でございました……。」
薄闇に溶ける庭景を目の端に見遣りつつ老師は、 訥々と言葉を紡ぎ始めた。静穏で深い声色に流されて、小雨の如くそっと聞く物の耳朶を凪いで染み入りゆく。
「竹林の先に畑があるのですが、奥にある井戸の左横に藤棚が見えますでしょう。陽氷は、あそこにいたのです」
老人が手を差し掲げた方向に釣られて頭を動かすと、群生する竹林の間に生じている僅かな隙間を透かして、点々と並ぶ小さな畑と井戸、そして言葉の通り左手に藤棚が置かれているのが見えた。花の時季ではない故か、長細い蔓が垂れ下がるばかりの姿はどこか侘しい気配を湛えている。それは植物を支える柱と網目の木が、目が粗く黒ずんでいるためでもあるかもしれない。そのような状態が、紺色に覆われつつある夕景の中、大分と離れた距離でも目に取れた。
「今でも鮮明に思い浮かぶほど、痛ましい様子でした。いかな事情があれど、何故そのように断ずる前に寺の門を叩いてくれなんだか……。顔も分からぬ親御殿の胸中と子を憂い、嘆かずにはいられなかった……」
哀れを滲ませた低い声で、俯きがちに俯きながら呟く。少年はただ、聞き入ることに専念するしかなかった。
当時、山菜取りから帰り戻り、静かな雨に濡れる畑の様子を見に伺った際、か細く猫が鳴くような声に妙を感じ、藤棚の下の存在に気付いたという。
駆け寄ってしゃがんでみれば、籠に入れられて襤褸のような産着に包まれた赤ん坊の姿がある。慌てて片手に携えていた蛇の目傘で雨から守るように覆い、庭内の納屋にて濡れた身を拭った。小さな口から漏れる泣き声は元気に乏しかったが、触れた小さな手から確かな温もりが滲むのを感じ、絶対に我が手で守り育てると決意したという。彷徨える依然自我も知らない命を前に、一切の迷い等なかった。
但し、正確に言えば放置されていたのは彼一人ではなかったという。実際に発見した時は、陽氷と同じように産着に包まれた赤子がもう一人並べられていたのだ。
「恐らく元は双子で、その片割れだったのでしょう。陽氷と同様、男子おのこでしたが、兄だったのか弟だったのか、もう知る術はありませぬ。抱え上げた時には既に、息をしておりませんでした」
静かに語る老主の白い頬に、一筋の雫が伝った。
「救ってやれなかったことへの報いとして、供養を上げ、墓を立てた。竹林の間からは見えませぬが、畑のある右手奥に墓地がある。その一角の水子供養の場所に、彼は眠っておりまする」
零れ落ちた涙を懐から取り出した手拭でそっと払い、ここからは見えぬ墓のあると思しき方角を、慈しみの籠る眼差しで眺め遣った。
「儂は当院にて奉祀する山神に、せめて一人でも生き長らえさせて下さった御恩について感謝の念を捧げた。そして、山神武術を守る寺の者として、必ずこの子を育て上げてみせますと、堅い決意をお伝え申し上げるために。六獅実殿、この機会に、貴方にも山神の間をご案内しよう」
客殿から渡廊を一つ跨いで歩いたところに、” 山神の間”と称される本堂は建てられていた。
金箔が粗い網目のように点々と残る観音開きの戸を押して入ると、居間より遥かに高く繊細かつ豪奢な装飾が施された格子天井と、壁に掛けられた蝋燭の灯火で仄かに浮かび上がる祭壇と一体の神像が出迎えた。
「これが、御寺様の山神様で?」
「左様。現在、各地に自然五要素に基づく神を祀る寺院があることは、貴殿も御存じですな。当院もその一つで、御山を中核とする聖神をお祭りしているのです」
景色は掠れゆく残照に陰り、そよ風に揺れていた花々と木々の葉を影絵のように朧気にして浮かび上がらせる。
また、止んだ後も長い雨だったせいか、葉先より雫の落ちる音がした。ただ広い山院に、人がたったの三人、今この部屋には二人しかいない。大自然が大半部を占拠する空間の中で、仄かで儚いはずの水滴の一粒は、微かに反響して聴覚を震わせた。
「あれは今より約十七年前、今日のように時雨の降る頃でございました……。」
薄闇に溶ける庭景を目の端に見遣りつつ老師は、 訥々と言葉を紡ぎ始めた。静穏で深い声色に流されて、小雨の如くそっと聞く物の耳朶を凪いで染み入りゆく。
「竹林の先に畑があるのですが、奥にある井戸の左横に藤棚が見えますでしょう。陽氷は、あそこにいたのです」
老人が手を差し掲げた方向に釣られて頭を動かすと、群生する竹林の間に生じている僅かな隙間を透かして、点々と並ぶ小さな畑と井戸、そして言葉の通り左手に藤棚が置かれているのが見えた。花の時季ではない故か、長細い蔓が垂れ下がるばかりの姿はどこか侘しい気配を湛えている。それは植物を支える柱と網目の木が、目が粗く黒ずんでいるためでもあるかもしれない。そのような状態が、紺色に覆われつつある夕景の中、大分と離れた距離でも目に取れた。
「今でも鮮明に思い浮かぶほど、痛ましい様子でした。いかな事情があれど、何故そのように断ずる前に寺の門を叩いてくれなんだか……。顔も分からぬ親御殿の胸中と子を憂い、嘆かずにはいられなかった……」
哀れを滲ませた低い声で、俯きがちに俯きながら呟く。少年はただ、聞き入ることに専念するしかなかった。
当時、山菜取りから帰り戻り、静かな雨に濡れる畑の様子を見に伺った際、か細く猫が鳴くような声に妙を感じ、藤棚の下の存在に気付いたという。
駆け寄ってしゃがんでみれば、籠に入れられて襤褸のような産着に包まれた赤ん坊の姿がある。慌てて片手に携えていた蛇の目傘で雨から守るように覆い、庭内の納屋にて濡れた身を拭った。小さな口から漏れる泣き声は元気に乏しかったが、触れた小さな手から確かな温もりが滲むのを感じ、絶対に我が手で守り育てると決意したという。彷徨える依然自我も知らない命を前に、一切の迷い等なかった。
但し、正確に言えば放置されていたのは彼一人ではなかったという。実際に発見した時は、陽氷と同じように産着に包まれた赤子がもう一人並べられていたのだ。
「恐らく元は双子で、その片割れだったのでしょう。陽氷と同様、男子おのこでしたが、兄だったのか弟だったのか、もう知る術はありませぬ。抱え上げた時には既に、息をしておりませんでした」
静かに語る老主の白い頬に、一筋の雫が伝った。
「救ってやれなかったことへの報いとして、供養を上げ、墓を立てた。竹林の間からは見えませぬが、畑のある右手奥に墓地がある。その一角の水子供養の場所に、彼は眠っておりまする」
零れ落ちた涙を懐から取り出した手拭でそっと払い、ここからは見えぬ墓のあると思しき方角を、慈しみの籠る眼差しで眺め遣った。
「儂は当院にて奉祀する山神に、せめて一人でも生き長らえさせて下さった御恩について感謝の念を捧げた。そして、山神武術を守る寺の者として、必ずこの子を育て上げてみせますと、堅い決意をお伝え申し上げるために。六獅実殿、この機会に、貴方にも山神の間をご案内しよう」
客殿から渡廊を一つ跨いで歩いたところに、” 山神の間”と称される本堂は建てられていた。
金箔が粗い網目のように点々と残る観音開きの戸を押して入ると、居間より遥かに高く繊細かつ豪奢な装飾が施された格子天井と、壁に掛けられた蝋燭の灯火で仄かに浮かび上がる祭壇と一体の神像が出迎えた。
「これが、御寺様の山神様で?」
「左様。現在、各地に自然五要素に基づく神を祀る寺院があることは、貴殿も御存じですな。当院もその一つで、御山を中核とする聖神をお祭りしているのです」
神像は成人女性ほどの背丈で、青銅と思しき明るみある緑色で象られていた。撫でるように照らされ、煌々と屹立している。
全体的に線は細いが、明瞭な筋骨を浮き彫りにされた容姿とたおやかに目を伏せた中性的な相貌は、どことなく彼の青年を彷彿とさせるなと少年は思った。
「しかし、生きる道を見つけ出したとは言え、不安が失せた訳ではございませんでした」
再び老師は切り出して話を続けた。少年を見据える。
「治療を施された貴方自身が既にご承知でしょうが……先ほど申しましたように、あれの身体には、生まれついて病疫の印があったのです。それが、左足首の痣のような模様だ」
「やっぱり……。”生まれ落ちた日より烙印された呪痕”という陽氷殿の表現は、当方の見立てと一致していましたな」
食後、厠へ寄るため席を外した用事の途中、瓢箪に入れて連れ出した黒糖の牙から毒の検分のための確認作業を行ったのだ。部外者の前で行うには危険なので、密かに取り掛かる必要があった。手袋を身に付け牙を拭き、専用の治験材料として持ち歩く実家の庭で栽培された”見識草”の葉や茎に拭いた布を擦り合わせ、慎重に反応を見る。
調べて分かったのは、根付く力の強さである。一度付着すると、細胞の根本まで蜘蛛の巣を張り巡らせるように深く食い込んで行く。簡単な消毒や洗浄では取り除けない。どす黒い姿に変わり果てた草をおぞましい心地で眺めつつ、改めて危険性を思う。回る早さには対象の大きさも関係しているようだ。抜きん出た長躯に成長したことで、深刻な衰弱を遅らせていたのだろうと少年は考えた。この詳しい内容は、老師にも青年にも黙っていることに決めた。
「もはや打つ手なしと諦めかけていた。基礎的に頑健で、幸いどうにか日々間に合っている。ただ、あまりに酷い境遇を思い、生き延びた時の感謝を伝える時と同様、毎夜祭壇の山神に祈りを捧げ、治り切る未来を祈らずにいられなかったのだ」
以上を踏まえ龍珀は、より重く礼を告げる。
「そこにあなたがお越しになられたのだ。山神の采配かと思えたほどの、奇跡の治療であった。改めて謝辞を」
「本当に礼には及びませんよ。過ぎた時間を惜しまず、出来る限りの療治に専念が我が家訓なのですからね」
原因の詳細には関心がないのか、言及する気配はなかった。少年の方も、これ以上下手に不安を与えてはと考え、毒の構造の件は一旦脇に追いやった。
「失礼ながら老師殿。出生のお話を陽氷殿に成された際、御兄弟の件はお伝えになられたのですか?」
山神と称された神像を仰ぎながら、神妙な面持ちで問い掛けた少年に、龍珀は静かに首を振って答えた。
「今日まで一心不乱に山神聖武の鍛錬に勤しむ姿を見ていると、あの者の思考にとって邪魔でしかないと思いましてな。腕にかけては驚く程に優秀で、幼い身でかなりの技量を得ました。あれは本来、生まれに関係なく、武道者として天倵の才を備え持っていたようだ。老骨の身で、程好く安心できるというものです」
穏やかに続ける龍珀氏の横顔を見つめながら、少年は、ふと青年個人の心中へ考えを巡らせた。眼前の老人は気にしてしないと言っているが、実際はどうなのだろうという憂慮があった。少年にとっては対話のつもりだったのが結果的に闘いとなったあの短時間の中で、感じ取ったものがある。外面上は平静怜悧に固められているが、一皮剥いた途端、激情を露わにする様子から、一抹の脆さが秘められている気がした。埋められない、飢えに似た空洞部分から、本人ですら確かな形では気づきえない、渇望の衝動が生じている面もあるのではなかろうか。
幼き日、蟲術の儀式に向き合わされ、黒糖を除く仲間達と無理矢理別れを告げなければいけなかった苦い記憶が蘇る。儀式の終了後、納谷の裏側まで逃げ隠れ、生き残った黒糖を抱えながら一人顔を濡らして泣き喚いたような、溢れんばかりの悲憤が慟哭とは別の形の激しい形と化し、旅の者などの他者が遣り場の代わりとなっているのではないか。だとすれば、決して問答無用の対応も責められたものではないように思える。
とはいえ、六枝実は実際に疑問を放つ真似はしなかった。ひょっとしたら師にしても、埋められぬ溝への煩悶を汲んでなお強くあろうとする彼の意志を思い遣って、哀しみを見ないふりをしているのかもしれない。 あくまで部外者である自分が意見の類を差し挟む資格はなかろう。
また、双子であるらしいというのも気になるが、不幸な死者としての事実だけ受け止め、平穏な生活を堅実に生きる道を選んだのなら、それで良いだろう。野暮で無用な詮索にしかならない。これ以上の追求は避けるべきだ。
もやつく思念を振り払って少年は、語りの中で別に気になった事柄を話題に上げた。
「ところで先ほどから何度か口にされている、武術の修行とは? 戦に備えての鍛錬とは見受けられませなんだが……」
「はは、それは当然です。かの山は、神仙より古来闘技の術を直に授かったことで建立したとされる神聖古武術の寺なのです」
改めて堂内を見渡しながら、師は 寺の教義を説いた。
「武技の体現こそが奉納の神舞。武闘であり舞踏。祈りの形も同様です。祈祷であり、祈闘。闘技を用いるのは、祭祀の対象が大自然であるからです。大自然は、人に恵みをもたらすが、時に暴威をも奮う表裏一体の畏怖すべきもの。その神々に対し、闘技という人の力で発揮できる限りの”体当たり”によって、聖なる御声に肖らせて頂くのが、我々の神々との対話方法なのです。祈闘により神に仕える僧は”聖武人”と呼ばれる。当山は、大自然の神の内、”山神”を奉る寺院。厳密な祈闘技の名称は”山神聖武”となります」
「もしかして、俺達の闘いを御止めになる時にされたのも、その御業の”山神聖武”の一つで?」
「左様」
言って懐より、短い棒状の小道具を取り出す。師が割って入った時も握られていた独鈷だった。法力を発していない今では、他では見ない独自の装飾が施されている以外には何の変哲もない法具に見える。
「宿霊祈闘具と申しましてな。聖魂をお招きし、そのお力を拝借して闘技に臨むという時に使用するものです」
「眩しい光も、神様を召喚した効果によるもので?」
「然り。”神魂招来”と唱えることで、御霊が御宿りし、御光の輝きによって力を強くすることが可能となる」
そう言えば老人は、独鈷を操作する際、何か短く呪文めいた文句を唱えていた。
「お弟子殿の方は祈闘具を持たれていないようでしたが……」
「これは神宮廷府により総代に任じられた者に付与されるものです。あれが管理を継ぐか、あるいは別の地に創建する時に授かることになろう」
故郷のあった地域とは馴染のなかった文化故に、純粋な感心を抱きながら新鮮な気持ちで耳を傾けていたが、新鮮な文化であるからこそ、尋ねずにはいられない疑問があった。
「なるほど。しかし、このお山がお二人だけなのは、いかなる訳です? 大自然の信仰の一角である山を預かる寺であれば、もう少し賑わいがあってもおかしくはないと思うのですが……」
「不思議に思われるのは最もです。ここも、かつては修行僧が多く在籍し、往来や訪問も活発ではあったのですがな。山をお守りする寺は各地にございますが、当山の流派に限っては、或る時を境に、儂めただ一人となってしまったのです。孤独に耽っていた折に見出したのが陽氷だったものですから、若き優れた才能を見出したという意味でも大いなる希望を抱かずにはいられなかった」
風貌や口調こそ、絵に描いたような厳格かつ辛辣な老僧の指導者ではあるが、保護者として育てる決意を述べた際の熱い情動や真剣味と言い、能力の非凡を指摘する頻度と言い、紛れもない深い愛情を注いでいることがひしと伝わるようだった。
「あやつめ、技巧に関しては恐ろしく早熟で非の打ちどころもないのじゃが、情念操作はまだまだ至らぬのう。儂の心労を慮って、血の気を抑える修練を増やしてほしいものじゃ」
嫌みめいた愚痴を零すところは、手のかかる息子或いは孫に苦悩する父親或いは祖父という風情だ。故郷の村長であり師範であり実父であった男のの面影をふと感じた少年は、どこも関係性は変わらぬとはことのことかと内心笑みがこみ上げた。
「いかん、つい長く話込んでしもうた。そろそろ風呂焚きが終わる頃です。居間へ急ぎましょう」
話題の中心であった弟子の現実での行動を思い出した師は、慌てた風に少年を促して堂を跡にした。
青年が戻るより早く、六枝実と黄白は着座していた。
襖が開き、頭巾と作務衣を身に付けた背の高い影が顔を出す。風呂を焚く作業のために着替えたのだろう。昼間の優雅な上衣と勇壮な道着の姿は、端麗かつ精悍な本人らしさを引き立て堂に入っていたが、生真面目な気質から寺の雑務もまめにこなすのだろうと容易に想像できる点、簡素な格好も板に付いている。
青年は敷居を跨ごうとした素足を、ふとその溝に留めた。入室の手前、風呂が沸いたことを一言告げようとした矢先、老師と少年の様子が妙なことに気が付いて、怪訝な顔色を浮かべたのだ。
「……師よ、何か愉快な話でもされていたので?」
老師の顔つきは通常通り厳然と締まっているのだが、口元は僅かに弛緩している。心なしか、何かをこらえるように唇が震えてさえいた。対する少年も、両端の口角を大きく吊り上げやや不気味にニヤついていた。
だが、問い掛けたくなったのは、今急に二人が可笑し気な表情を浮かべているからだけではない。
「いや、何も特別なことは話し取らんぞ。六獅実殿は朴念仁のお前と比べて、戯れに乗って下さるのが上手いのでな。ついつい盛り上がっていたのだ」
吹き出しかねんばかりにつっかえながらも適当に繕って答える師に、より胡乱な眼差しで青年は言った。
「いえ、気のせい、或いは我が不徳故の軽い災いだと良いのですが……風を引いたことのない私が、先ほど何度か鼻にむず痒さを覚えまして。……よもや、少年、あらぬ噂など勝手に立てて吹き込んではおるまいな?」
途中で師に対座する六枝実に矛先が向くが、気に障った顔をすることはない。どころか、自身に疑いの目がかけられた時、その瞬間を皮切りに、我慢の限界と言わんばかりに大声を上げて笑い出してしまった。面食らっている青年の前で、連鎖するように今度は師が声を高鳴らせた。
二人の間で沸き立つ様子に、青年は意味が分からぬまま、しばし呆然と見守るしかなかった。
一番風呂は少年となった。老人の手前、遠慮したのだがこれまた聞き入れてはもらえず、旅の疲れをお流しあれとやんわりとしつつ強硬に勧められたのである。助け舟を求めるように、沈黙したたま隅に座して控える青年に目配せしたのだが、「師は最後に一人ゆるりと味わうのを好まれるのだ」とすげなく返された。自分が最年少である上に、徳の高い武道に身を捧げる僧職の者二人を相手に、終始客人の待遇を取られるのはどうにも居心地が悪い。
通された湯浴み場は中々に立派な設えだった。小規模で寂れかけた寺であるはずだが、内装建築に用いられている木材は木目の麗しい檜だ。頻繁な取り換えは流石に厳しいのか。縁や隅に多少の劣化が見られたが、まるで目立たぬ程に清潔感で覆われている。日頃の清掃が行き届いているのだろう。生真面目な青年らしく、普段の作務にも抜かりないと見えた。
一角に置かれた僅かな蠟燭の灯りに照らされ、長年、水気と湿気を吸った室内は、艶々と煌めいて輝いていた。
片手に携えた桶を洗い場に置けば、コーン、と軽快な反響音が組み木の天井を突くように高く鳴った。
浴槽は奥に一つ設置されていて、なみなみと湯を湛えている。林の先にある比較的大きな泉から引いた井戸水を利用しているらしく、実に綺麗な湯面だ。また、雨に恵まれたこの時期は特に多い日数で湯浴みができるというから、尚のこと贅沢な色合いを帯びる。街道の宿場にある風呂屋でもこれほど上質なものを使ってはいまいと思わせる透明度だ。壁に取り付けられた湯口から新鮮さを含んだ豊富なそれが注がれ続けている。
有難く洗うための湯を桶にて拝借し、勿体なげに身体に落とし掛けていく。西南の国より仕入れたと思しき果香を滲ませる石鹸を手に取り、湿らせた手拭いに馴染ませて肌に泡を立てた。
風呂場には毒療蝮の黒糖も伴っていた。毒療師家独自の修練で人間に近い精神性を身に付けている彼女は、食事もさることながらこと清潔習慣においても人間に変りなくなっている。物心付いた時から湯浴みに連れ立たせる内、すっかり楽しんだような表情を見せるまでに馴染んでいた。今も、愉快げに舌をしゅるしゅると伸び縮みさせながら、濡れた木床を器用に滑って湯跳ねにはしゃぎ、桶から湯が空になる都度、中で短くとぐろを巻きながら「きゅきゅー」と朗らかに鳴き叫んでいた。
そんな彼女と自分を慎重に洗いつつ流しつつして、六枝実が湯船から立ち上る湯気を倣と眺めていると、入口の方から鈍く固い音が聞こえた。
濛々と夢幻のように浮揚する白煙を透かし、細身長躯の人影が一つ、引き戸を開けながら入ってきた。陶磁器の如く白き麗貌に、微かに水色がかった長い銀色の髪――寺の青年の陽氷その人であった。現在は風呂場の中ということで、印象的な長髪も頭部に巻かれた手拭で丁寧にひっつめられている。裸身が露わになったことで、持ち前の白皙が一層真珠の如く特別際立っていた。
自らも入口前に置かれた桶を手に取り、静かに歩いて来る姿は相変わらず優美だが、完全に剥き出しの筋肉と浮き彫りになる骨格が勇壮さをも如実に訴えている。貴き麗人であると同時に、雄々しき戦士であることが明白となる無駄のない肉体美であった。
「私も風呂を済ませるようにと師が仰せになられた。一人でゆるりとお寛ぎのところ、失礼する」
凛とした声で淡々と告げながら、締まり切った腰を屈め静かな手つき桶を浴槽に入れ湯を掬う。一旦、湯水を滴らせて濡れると、棘に似た気迫は薄まり、柔らかい優艶さの方が増す。
六枝実は、恐らく年の近い自分達を打ち解けさせようと師が計らったのだろうとなんとなく察した。客人を湯殿に入れる間、歓待側は待つのが通例だ。
「して、少年よ。特殊な家系の治療師だとは言うが、それを差し引いてもやはり不思議だ。何者なのだ、君は?」
青年は、少年の座する隣に置かれた風呂椅子に腰かけ、筋肉の緻密に隆起する肩に湯を流し掛けながら問うた。彼は、自身に備わる生来の美しさと違わぬ玉の色を取り戻した傷跡も残らぬ箇所を改めてしげしげと眺めつつ、身体を洗う手は止めぬまま、時折蒼の目を相手の方にも遣る。
難しげに苦笑を浮かべながら、尋常のおどけた口調で話す
「何者かと問われましてもねえ~。お師匠さんとご一緒の時にお答えしたことが全てとしか言いようがありやせんねえ。陽氷殿、ひょっとして、まだ、納得いきませんか」
少年は難しそうに苦笑を浮かべながらも、意地悪げにお道化た調子で逆に問い返した。隙の無いその態度に、青年も一度口を噤む。
具体的に何が釈然としないのか、最初に問いをかけた自分がまずろくに答えられぬ時点で、およそまともではないだろう。疑問に思う部分が詰まるところ何であるのか己の心に追及した結果、強いて導ける形があるとすれば、自身より二、三歳程度下る少年でありながら、残酷な運命を飄然と受け入れ、重大な事態に狼狽えぬ精神の強靭さに漂う、どこかしら人間離れした得体の知れなさであろうか。
相手は、夕刻前に繰り広げた醜態を当に水に流しているのだ。素直に打ち解けた距離感で接すれば済む話に過ぎぬ。だがやはり、あっさりとした片付き具合を飲み込み兼ねているのだ。ここでも己の頑迷さが悪く作用しているようだった。
しばし二人の間に沈黙が流れた。時折、湯水の静かに弾ける音が木の天井にこだまする。
「すまん、六枝実。師の驚き様が我が反応をも物語っているのだ。指摘せねばわからぬ程微細な大きさの病根を目敏く見抜いた上に、私の山神武道の修練では至れぬ領域のいなし方で攻撃を制してみせた。いかなる観察眼かと、一武道家として窺わずにはおれなくてな」
数拍の間を置いて口から実際に出てきたのは、当初念頭にはなかった武道家としての視点での疑問感覚であった。
「半人前だがいっぱしの治療師ではあるんでね。どんなに些細な顔色も見逃せねえんですわ」
少年の答え方はやはりあっさりとしていた。どのような角度で尋ねようが、彼としては治療する者として培った意識に基づくという一点張りなのだろう。
腰掛に胡坐で座りながら、どっしりとした面持ちで構える少年の体躯は、年代の近い青年と比して甚く小柄ではあった。しかし、悠然と答える様は、武道者の相手とはまた異なる生業で腕を磨き上げて来た極め人の風格を湛えている。
何かを探り出そうとするのは、無粋というべき域であろう――そう結論付けた陽氷は、鼻から息を吐きつつ微苦笑を零した。
「全く。節介を焼く上に食えん奴だな、君は」
「そう仰る御仁も気難しいもんでしょう。もし今度治療させていただくことがあれば、大人しく願いますよ」
初めて不満げな表情になって頼む。冗談めかしているのだと相互にわかってはいたが、特に青年にとってはそれが一本取れたような面白みがあって、少年には悪いがやや吹き出さずにはいられなかった。白桃色に染まる唇を寛いだように緩ませる。
「君の言うことが全てであれば構わぬのさ。ただ、くどいだろうが、別の面でまた礼が言いたくてな。雑念に打ち勝つべしとの一心で、鍛錬に集中することで見ない振りをしていたのだが……年を重ねようと拭えぬものはあるのだと思い知ったのだ。感謝する、六枝実よ」
礼儀正しく、膝に両手を添え、腰元から顔までを真っすぐ少年に据える。端麗に揃う睫毛を伏せ、ほぼ常に締まっていた口元に微笑を含んで軽い角度で低頭した。髪に吸われた湯水の一部が、真珠のような雫を生んで、床に小さく爆ぜて散る。
「や、これはまた、借りが出来ましたな。流石に、心の治療まで成し得たつもりはありませんでしたが……」
「ところで、蝮も湯に浸かるのか……?」
互いに身体を洗い終え、奥の湯船に浸かった頃だった。先ほどまで風呂桶の一つの中で大人しくしていた彼女が、何ら平然と温めた水の中に身を浸して浮揚していることに陽氷は目を細めて問い掛ける。青大将が水上を気持ち良さげに泳ぎ漂うのは目にしたことはあるし、書物でしか知り得ないが海に棲む蟲の類は当然水中に抵抗はない。しかし、湯水に入る上に、気持ち良さそうな顔色まで浮かべているのは初めて目にする。黒糖は瞼がないはずであるにも関わらず、心地良さそうに瞳を細める形を披露し、一息つくように呼気を出してさえいた。
「ははっ、珍妙ですかい? ま、人様と共に湯を嗜む蛇ってのもウチ独自かもしれやせんねえ」
飼い主は少しも気を悪くした風はなく、驚きを浮かべた美貌を面白そうに見遣りながら返した。
「いや、確かに、変わっていると言うか……。失礼、旅の相棒に難癖を付けるわけではないのだ。その、初めて見る光景ではあるのではな、お、面白いと思うてな」
その時、少年が青年を不意に注視するように首を突き出して見つめ出した。少年は、青年の「面白い」という感想的な単語に意外さを覚え、関心を強く寄せたのだ。よく口元を除けば、可笑しみをを堪えようとして緩みかけた唇が不器用に噛み合わさっている。唇の前に手を翳してまでいる点は、何となく、照れと言える感情を抑え隠すような仕種に思えた。
少年は思わず軽く吹き出して自らの右膝をはたいた。
「堅物ではなかったんですね。良かったあ、ほっとしやしたよ。貴方ったら、基本強張ったお顔をなすって、怖いんですもん。男前が勿体ないってもんですぜ」
「無粋になってはならぬと心がけている。言われるまでもない。あと、男前というのは余計だ。容姿など、器に過ぎぬ」
苦言を添えて、思わず不機嫌そうに口を窄める。出会い頭に見られたような突っけんどさがやや息を吹き返したようだった。素直になり切れぬ風情も、彼の実直さを表す特徴の一つなのだろう。
「貴方方の教義に対しては俗な評かもしれやせんが、重要ですぜ。何も美醜の問題だけじゃあない、良いお顔というのは、対する相手にとって入口となるもんだ。それこそ、俺ら治療師にとっちゃあ、面がおっかねえというのは、患者さんから銭をいただくのに分不相応でさあ」
元より物怖じせず鷹揚に構えた少年であるが、時間経過によるものか一段と言葉遣いの砕けた、よく言えば威勢の良い、ややもすると横柄な口調の受け答えだった。しかし六枝実にしてみれば、懐を割って話せる領域まで仲を深めんと促す態度であった。未だどこかしら残留している水臭さをいい加減、打ち砕こうではないかという意志があったのだ。
青年の方でも、当に角張る意気は失せていた。返って、挑戦的にも映る直入な語り掛けを面白がるように微笑する。顔は正面から向けず、濡れた細枝のような睫毛をちらつかせながら、流し目を寄越して応う。
「ふん。君が言うのならば一理の説得力はあるな。ひとまず聞き入れよう」
その後、しばらくは二人とも黙したまま、湯船の中で静かに鎮座していた。少年は足を組み、青年は前に伸ばして揃えている。
不意に青年の方が沈黙を破った。
「君の属する家族の形は、通俗と変わらぬか」
「え? 何です?」
目を丸くして、隣人の美貌を見返す。格式張った妙な物言いでの問いかけに六枝実は、発した本人から直後言い添えられるまで、至極単純な内容であることに気付けなかった。
「いや、蝮殿との付き合い方を聞いてな、少しばかり、考えたのだ。血縁が絆の深まりに如何ほど関係するのか、ということをな」
そう紡ぐ陽氷の蒼瞳は、どこか遠い虚空を見つめるようだった。手掛かりのない状況で、奥底から訳も表せず焦がれるような眼差しで、静かに逡巡する雰囲気であった。
「血が繋がってる、繋がってないは、毒療の腕前を培う分には関係ありやせんねえ」
どこか歯切れの悪そうな青年とは対照的に、どこまでも少年は竹を割ったような捌けた言葉を返す。
陽氷は、六枝実の口にする価値観に、何か弾かれたように身を竦めた。熟考し噛み締めるが如く、白桃の唇を一度閉ざして薄く瞼を伏せる。
硬くなった陽氷に対し、六枝実は温かく見守るように視線を送りながら付け加えた。
「お爺様に守られていることで充足しているのではありませんか? ……なんて、傍から他人が勝手な見方をするのは出過ぎた真似かとは思いますが、俺には、素晴らしいご家族としか言いようがないです。良いお師匠さんですなあ、陽氷殿のお爺様は。あれだけお気に掛けて下さるというのは、むしろ羨ましいくらいだ。俺の親父殿なんて、ろくなこと言わない上に放浪癖すらありますからねえ」
「いや、あの御方は、その、俺とは……」
ハッと瞳を大きく開いて、少年の方を真正面から見遣る。同時に言い募ろうとするが、はたと言葉を変えた。
「すまぬ。妙なことを言いかけた。そうだ。龍珀師匠は寛大で偉大な、優れたお方だ。生まれてから頂いた御恩を、一生かけても返しきれぬお方だよ。今のように評されると、弟子ながら鼻が高いものだな」
天衣無縫にして、天真爛漫。谷より深い懊悩など、誰が打ち明けようとも、この少年は何の雑念なく受容し、次には何事もなかったかのように図々しく相手の懐へ分け入っていく。
だが、風や水の流れように至って自然な動きのようで、不快感など霧散するのだ。
そう思うと、普段より肩に圧し掛かっていた暗い重しが解かされていく心地がして、何となく気楽になり笑みが零れた。
会話をする人間の青少年達を余所に一匹のんびりと身を泳がせる蝮も、言葉の意味を取ってか取らずか、笑みを描くように口を割ってプカプカと空気を吐きながら、シューシューと舌を鳴らしていた。
湯上りは、老師手製の茶菓子が振舞われた。来客の日故、特別にということだった。
食した後、煎じた温かい茶を各々口に運んだ時、ふと老師が切り出した。
「六枝実殿が修行の旅に出る年頃というなら、我が弟子も一つ試練を控えておる」
「陽氷殿が試練を?」
湯呑を置いて六獅実が尋ねた。師は微笑して首肯する。
「この者は技術の上では師範代まで到達しておるでな」
「お止し下さいませ、老師殿。ひけらかす程の肩書ではございませぬ」
隣席へ向けて手の平で指し示した師に、当人の青年は慌ててかぶりを振った。月のような白い頬がほんのり朱に染まっている。
「して、残すは巡礼の儀礼じゃ。これは、其方のように旅を経るもの。山神信仰の伝導を行うのは無論のこと、各地の五要素に纏わる神々の社を廻って全ての技種を知り尽くす必要がある。まあ、必須の通過点であることとは別に、陽氷は当山に籠り続ける生活を送って来た身、院に収められた書のみではなく、実地で世の見分を識る良い機会となろう」
「それはご立派だ。でも、何故、俺にその話を?」
「貴殿はまさしく今旅の最中だ。腕前を拝見したところ、険しい道中を切り抜ける術に手慣れておいてのようだが、我が弟子は初心者も同然。技巧の優秀が余所の実践にすぐさま直結するものではない。そこで、是非とも経験者である貴殿との同行をお願いしたいのだ。引き受けて下さらぬか?」
「老師よ、それは。六枝実殿に迷惑となる」
裾を整えて正座を糺し、毛先が床に触れるほどに額を深々と伏せて懇願の意を示す師に、困惑した青年が制しようとする。
「世話を焼いてくれ、などと甘やかしのための頼み事では無論ござりませぬ。経験値のある、何より同年の者に沿っていれば、日の浅い弟子にとっても良い刺激となりましょう」
「俺は構いませんよ、老師さん。そうやって畏まられる方が困りますなあ。道中、仲間の方が増えるのは、寂しさが減って心強い。黒糖ちゃんとて賛成のはずです。ねえ?」
にかっと大きく歯を見せて笑いながら、腰の側で壺から顔を出して人間達を伺っている斑の蛇に尋ねかける。蛇は、まるで、人の小娘がはしゃぐように、「きゅー、きゅー♪」と甲高い鳴き声を高く上げながら、太い筒のような身体を揺すってくねらせた。その様子に、少年は納得したようにより大きく口を広げて笑みを描く。蛇が同意の合図を示したらしかった。
「しかし、俺達は大歓迎として、陽氷殿はどうお考えなのです? ご本人からの意思も確認しないことには、強引な同伴ということになりゃしやせんかね?」
向き直って老師を見遣ってから、次に青年の方へ視線を馳せる。口調は普段の六獅実らしい邪気のない明朗なものだったが、同時に言葉遣いはこれまた彼らしく遠慮がなかった。咎める雰囲気はないが、行動に出るからには実際に赴く者が同意しなければ意味がないという態度が滲んでいた。
「確かに、弟子を無視した申し出でしたな、不躾であった……。陽氷よ、お主はどうかね?」
「ええ、迷いはもうございませぬ。六枝実よ、君の旅路に連れ立たせておくれ。私の毒を打ち消した君の解呪の姿勢を、聖なる武道を伝え行く者として学びたいのだ。よろしく頼む」
明度の高い色合いの瑠璃の瞳で、少年を真正面から捉え見る。淀み無き森奥の泉の水面を彷彿とさせる、純粋な決意を宿していた。
「はは、なら決まりですな。だが元より畏まりませんでも、ただ簡単に行きたいとおっしゃってくだされば話は仕舞いでさあ。全く、親子揃って仰々しい方々だ、ま、祈りの場で日々を営まれてるとあっちゃあ無理もない」
気楽に胡坐を搔いて苦笑する少年からさりげなく零れた” 親子”という言の葉に、頭を下げたまま青年は眉根を上げて反応したのだが、可笑しそうにしている相手が感づくことはない。
「旅に出なくとも、俺は元来自由を好む気風でしてねえ。家の者の目を気にせずに、色んな人と会うのは面白いもんですよ。ところで、そちらさんの予定している開始の日はいつなんです? 急くようですが、当方は明日には峠向こうの里を見に行きたいと思ってましてね。これで厳しけりゃあ考えますが、陽氷殿いかがです?」
どこか、試すような顔つきで微笑みながら、青年の顔色を窺う。
「問題はない。いつであろうと赴きたいと思う。本来は一週間先ではあるのだが……。師よ、早めても構いませぬか」
間髪入れぬ回答だった。訊かれた師も、当然であったかのように頷いた。
「勿論だとも。時期など、法典で厳格に定められているわけでもない。なら、六獅実殿に合わせて前倒しとしよう」
「いきなりで悪いですねえ。支度は問題ありませんか?」
「すぐに完遂させるさ。聖武に励む身ならば、如何様な時にも支度など整えておくものだ」
どこかしら不敵な、余裕を湛えた美しい笑みで青年は返した。だらしなく胡坐を掻いたままの少年は、その表情を満足げに見上げていた。やや離れた位置に座す老人は、了承と安心の表情で静かに微笑んでいた。
翌朝、小雨に濡れ染まる林を背に堅牢に聳える山門を前にして、積み荷を背負って並ぶ若者二人と、温かな眼差しで見守る老人の姿があった。現在、三人の背後にある山門は、先日来た方向とは反対側の裏門であり、下り側の峠道へ抜けるように立っている。背の高い美青年が、丁重な様子で老人へ二言三言呟き、少年も同様に短く紡ぐ。頷き返した老人と、しばらく三人共に軽く笑い合った後、若者二人の影は下り坂へ向けてゆっくりと遠ざかって行った。名残惜しむように、朝の清涼さを残す夏風に棚引かせて、長く見送っていた。
「府研所長、対象のDNAデータの記録受信、本日分終了いたしました」
聡明だが冷たい女の声が響く。理系研究者らしい白衣を纏った彼女は、七三分けにした黒髪の裂け目から眼鏡を掛けた美しい黒の瞳を厳しく光らせて、告げた。
「体温、情感等異常なしかと。引き続き、現在のシステムで観察を行ってよろしいかと」
斜め横に腕組をして立つ所長と呼ばれた初老の男性は、女性と同じく眼鏡を掛けた瞳で、やや不機嫌そうにくぐもった声を漏らした。
「不気味なほどに順調なものだな。構わん。観察は続行しろ」
彼は相対する女性を見ていない。気難し気にくすんだ灰色を浮かべる落ち窪んだ瞳が向けられた先は、満タンの水を湛えた壁一面を占める巨大水槽だ。
魚類が泳いでいる気配はなく、大小様々な水泡が上昇と膨張、消滅を繰り返す空間は暗い赤に染まって不気味な景観を呈している。浮遊する泡の群れは、深海に蠢く海月を連想させた。
男が観察していたものは、水泡ではない。不規則に浮かび踊るその間、小さな肉体が四方から垂れ伸びた管に繋がれて浮かんでいた。四肢は小さく丸まり、握り、踏み締める力も窺えない。頭部は未発達で、顔面における両目が位置する箇所は、永遠の眠りに耽るかのように深く閉ざされている。その形状は、まるで人間の胎児に似ていた。
「計画上で隔離した双生児の内、片方であるAは生命維持に失敗した。約十年以上前、発信機から受信される生体反応がふいに途絶えたのだ。結果がまさか反対になるとはな」
女性同様、まるで、事典を読み上げるような単調さで、抑揚なく事実内容を伝える。
「残存するAのデータで復元できそうか。今のレベルでは、劣化したコピーになりかねんが。王帝府の総代にはなんと報告する」
「世界改造のための後継因子の作成に支障は見られないと伝えましょう」
女性の受け答えも、相変わらず淡々としている。徹底して事務的な様子を、何を思う風もなく見遣った”所長”は、更に言葉を重ねた。
「完全な国家製作のために、治政の関係者達が自然培養の在り方を捨てて、はや二十年以上か。第二成長期まで現在進行史から途絶された場所に移し、放牧じみた育成様式で成功した事例など指で数えるほどもいたかな。まあ、どうあれ、因子さえ望ましい形で整えば問題はないのだが」
淡泊だった物言いに、どこか哀憐に似た響きが籠る。それでいて、退屈げに吐き捨てる調子だった。
「余剰人口削減の推進策を円滑にするには、まずは責任者を隔絶した環境に置いて様子を見るのが最善、というのが総代の掲げる指針だ。授預先となった施設が無駄に感情的な措置を取らんと良いが。後継擁立に面倒だからな。見境なき勢いでぶつかり相争った果てに生存する因子が重要なのだ、確実にふたつでなければならん。故に、今度こそより強靭にして放つのだ」
ふいに、冷静に見えた男の表情が変化する。ニヤリと、右の口角を押し上げる形で、唇を歪めて笑ったのだ。割れた間から覗き広がる白い上下の歯が気味悪く光る。
「実験目的でBの方を対象に、衰弱の早まる薬剤を注入して培養を図ったはずだが、十八年の記録を更新したか。育成に失すれば毒の回りが早かったはずだが……まあ、良い、失敗を成功とするのが科学だ。そして、ここからは俺の個人的な見解と感想だ――面白くなってきたじゃないか。見ものだぞ、これは」
「ええ、所長。興味関心が生み出す快楽も、科学の進歩を後押しする増進材かと思いますので、否応なく同意いたします」
愉悦感を湛えた笑みを貼り付け、大仰に両腕を広げ掲げるポーズを取る所長の男性と、機械的に対応を続ける助手らしき女性。重苦しく静寂の横たわる空間の中で、両者の声が静かに重なり響いた。胎児に似た肉体を囲う水泡の群れは、ただ一定の間隔で膨張と増殖を続けていた。
完
執筆のリハビリのために適当に書いた、なんちゃって東洋伝奇ファンタジーの短編です。治療としている場面は、あくまでファンタジー的なものとして見てください。日本風と中華風のイメージがいい加減でごちゃまぜです。お寺の描写も、あくまで大雑把なファンタジーの産物ですが、建物の雰囲気は禅宗寄りのイメージです。道教の要素は、紫陽花の山中ではやや浮く気がして省きました。いずれにせよ、もっと勉強が必要だということもわかり良い機会になりました。
ここ一年半以上、何もまともに投稿できていなかった……。また再始動できたらいいな。
この物語、大まかな展開を含めて、ぼんやり夢に出て来たことがきっかけで構想を練りました。何故か、毒蛇をペットのように引き連れて、しかも魔法のように治療に使う、という荒唐無稽な場面が最初に現れたのです。起きている間であれば絶対に思い浮かばない内容なので、せっかくだし使おうと思いました。
最後の、今までの流れと全く雰囲気の異なる取って付けたような場面は、夢に締めのように浮かんだので、入れることにしました。こういう、急激に状況が違うものを持ってくるという方法も面白いかもしれない、という考えもあってのことです。
双子設定の意味は、特に何も考えていません。今のところ、長期化の予定はないので。
以上です。では、また。