5. 変化の始まり
濃厚なバラに、甘いハチミツ、刺激的なシナモンに重なる爽やかなオレンジ。あらゆる匂いが混ざり合った強烈な空気の中、ベルハルトは頭痛をこらえて笑顔を浮かべていた。
今夜は王宮開催の夜会当日だ。同伴なしで入場した彼は、虎視眈々と機会をうかがっていた令嬢たちの、格好の餌食となっていた。彼女たちが身につけている香水が絡み合い、形容しがたい香りが辺りに漂っている。
「ベルハルト様、本日のダンスのお相手はすでにお決まりですか?」
「最初のダンスは是非とも私と――」
「以前の夜会で、次のダンスを約束してくださいましたよね?」
次々と自己主張を始める令嬢たちの誘いを、ベルハルトは紳士の仮面で笑っていなす。今夜の最初のダンス相手は、シェリーにしようとすでに決めていた。
前回のお茶会からすでに二週間が経つ。結局、今日まで休暇を取れず彼女と会う時間をつくることができなかった。
今夜の夜会には、パッツィ伯爵家も招待されていたはずだ。シェリーに会えたら、すぐにでもダンスの申込みをしようと意気込んでいたが、会の中盤に差し掛かった今もまだ彼女の姿は見えない。このままホールに留まっていても、逃げ場がなくなるだけだろう。
ベルハルトは第二王子との約束を建前に、一旦この場から避難することにした。令嬢たちは残念そうな顔を見せつつも、ベルハルトに嫌われたくないのか、それ以上食い下がることはしなかった。
(さて、どこへ行こう……殿下はガヴェル子爵と歓談中だろうか)
遠目にガヴェルの様子をうかがうが、彼を取り巻く人々の中に、見知った顔は見つけられない。どうやら今夜のクロバスは、ベルハルトが把握していない変装で参加しているようだ。
あまりジロジロ見ていては怪しまれるだろうと、給仕からシャンパンを受け取り、人が少ないバルコニーへと移動する。
ホールから漏れ聞こえる優雅な音色を背に、しばらく夜風にあたっていると、テラスドアが開いて音が流れ込んできた。バルコニーへ入ってきた相手が、こちらへ近づいてくる気配がする。
「ベルハルト様」
か細い呼び声に振り向くと、そこにいたのはポリーだった。どうやら、伯爵一行がようやく会場に到着したようだ。
ポリーは、妹と同じプラチナブロンドの髪をひとつにまとめ、シンプルな赤いドレスを身に纏っている。数ヶ月ぶりに会った彼女は、最後に見た時よりも儚げな雰囲気を醸し出していた。
「久しぶりだね、ポリー。元気、――そうには見えないけれど大丈夫?」
「……ベルハルト様、私……」
彼女の青い瞳が、みるみる涙で濡れ始める。ぎょっとしたベルハルトは、慌てて彼女を近くのベンチへ連れて行った。
「何があったんだ? ゆっくりでいいから話してごらん」
「どうしよう……。私、どうしたら良いかわからなくて……頼れるのはもうベルハルト様しかいないんです」
ポリーは訥々と、伯爵家の窮状を話し始めた。
語られた内容はベルハルトにとっては寝耳に水の話で、すぐには反応ができなかった。
借金を返すことができないため、望まぬ結婚を迫られているのだと、ポリーが涙ながらに訴える。多忙なベルハルトに相談するには、今夜が唯一のチャンスと単身ここへやって来たらしい。
「返済期限まであとわずかなのです。ベルハルト様、私は――」
「シェリーは?」
「……え?」
「シェリーも結婚を迫られているのか?」
ポリーは、ぽかんと口を開けてベルハルトを見つめた。
ベルハルトは、ひどく動揺していた。借金や結婚の話もそうだが、なによりもシェリーから一言も相談がなかったことに、思いのほかショックを受けている自分に気がつく。
どれほど些細なことでも話してくれる彼女に甘えきっていた。いくら忙しかったとはいえ、彼女たちの今後に関わる問題を把握できていなかったことに対し、自責の念に駆られる。
(今からでも、立て直しの手立てを講じなければ)
なかなか返事をしないポリーに焦れたベルハルトが、出口に向かおうとベンチから立ち上がった。
「とにかく一度、伯爵と話をさせてほしい。今夜はご在宅か?」
「待ってください!」
ポリーは、慌てて彼の手を掴んだ。
「父はすでに爵位を返上することを決めています! シェリーも結婚を受け入れると言っていましたし、あとは私の――」
「なんだって?!」
にわかには信じがたい話に、思わず声が上がった。
(僕と結婚すると言い張っていたシェリーが? 他の男と結婚?)
シェリーにはこれまで、ベルハルトとの結婚は諦めるように勧めてきたが、追い詰められて選ぶような不幸な未来を望んでいたわけではない。どうして自分に相談してくれなかったのかと、悔しい気持ちがこみ上げてくる。
一分一秒が惜しい。やはり、まずは彼らの現状を正確に把握し、支援できることがないか早急に話し合わなければならないだろう。
ベルハルトはポリーの手を取り、足早に出口を目指す。
途中ですれ違ったクロバスの部下に、急遽夜会を抜ける用事ができたことを伝えると、彼はベルハルトとポリーの顔を交互に見て意味ありげに頷いた。なんだか誤解されたような気がするが、今は言い訳をしている暇はない。
馬車乗り場に停まっていたパッツィ家の馬車に乗り込むと、ベルハルトは急ぎ伯爵邸へ向かうよう御者に告げた。
車内に響くのは、馬の蹄鉄と馬車の車輪が地面を叩く音だけだ。バルコニーを出てから終始無言でうつむいていたポリーは、二人きりになった空間でようやくポツリと言葉を発した。
「私と結婚していただけませんか?」
思いがけない言葉に、ベルハルトは目を見張って隣に座るポリーを振り向く。
車内の薄暗さが彼女の表情を覆い隠し、その真意はつかめない。
「……どうして僕との結婚を望むのか聞いてもいい?」
「もちろん、あなたを愛しているからです」
ポリーは愛の言葉を囁きながら、ベルハルトにぎゅっと寄りすがる。火照った体と顔を近づけ、彼の瞳をじっと見つめた。
あからさまな媚を含んだ幼馴染の求婚に、ベルハルトは戸惑う。出会いからこれまで、ポリーから恋愛感情を向けられるようなことはなかったし、逆もまた然りだった。長年付き合ってきた幼馴染の急変に困惑し、思わずその体を強く押しやる。
「すまない、きみの置かれている状況は理解しているけれど、結婚は――」
「シェリーのためにもどうかお願いです。自分だけ嫁ぎ先が決まるのは嫌だと、涙を流しながら心配してくれたあの子を安心させてあげたいのです」
突然シェリーの話を切り出されて、ベルハルトの心が乱れる。
(僕がポリーと結婚したら、シェリーは安心して他の男のもとに嫁ぐことができるのか?)
彼女の未来を想像する。不本意な結婚であってもきっと、努力家で前向きな彼女は相手の男を愛し、そして愛され幸せな家庭を築くことができるのだろう。むしろ、ベルハルトへの刷り込みのような片思いから解放されて、本当の愛を見つけることができるかもしれない。
――自分がずっと望んでいたことのはずなのに、これほど胸が苦しくなるのはなぜなのだろう。
「……結婚の話は、とりあえず保留にしてほしい。とにかくまずは今できることを全てやって、それでもダメだったら改めて話し合おう」
ポリーから視線を外し、窓の向こうを見る。ぽつりぽつりと道を照らす街灯の奥に、暗闇に溶け込む見慣れたブドウ畑が見えてきた。まもなく伯爵邸に到着するだろう。
ベルハルトは暗闇を見据えながら、己の気持ちと真剣に向き合わなければならない時が、刻一刻と近づいてくる音を聞いていた。