4. 恋のきっかけ
一方その頃、シェリーは賭博場の食堂で、チャドと今日のゲームの振り返りをしていた。
師弟関係になった直後に足を運んだ賭博場で、彼の指導のもと低レートゲームを始めたシェリーは、日々ポーカーの経験を積んでいる。
初日に一通り見学した賭博ゲームの中でも特に、運と心理戦の駆け引きが勝敗に影響する様に心惹かれたからだ。
ポーカーは、プレイヤー全員に公開される共通の五枚のカードと、各々に配られる二枚の手札の組み合わせから役をつくり、勝ち残った者が掛け金を総取りできるカードゲームである。
強い役ができなくとも、まるで自分が強い役を持っているフリ、いわゆる『ブラフ』で相手をゲームから降ろすこともできる奥深さがある。
「今日のシェリーの判断はどれも良かった。これほど物覚えが良いとは、正直驚いてるよ」
始めてまだ一週間だが、著しい成長を見せるシェリーにチャドが舌を巻く。
局面で勝率が常に変化するポーカーは、自分と相手の役の確率計算や、ブラフかどうかの判断、掛け金を最大までつり上げるための心理戦など、それなりの知識と経験を必要とする。
勤勉家で、かつ初心者とは思えないほど肝の座ったシェリーは、一歩一歩着実に勝利を重ねていた。
「きっとベルハルト様のご加護のおかげだわ」
「ブレないなぁ。当の本人は、きみがギャンブルを始めたことさえ知らないんだろう?」
「そうだけど……なんというか、パワーを感じるのよね。愛の力かしら?」
「なるほど」と空返事をしたチャドは、ぬるくなってしまったビールに口をつける。
時刻はもう昼を過ぎていて、食堂に残っている人の姿はまばらだ。彼らは、テーブルゲームの合間に喉を潤し一息つくため、この場所でくつろいでいる。
「借金返済まで、彼には相談しないつもりか?」
「ただでさえお忙しいのに、これ以上煩わせたくないもの。父には破産申請書の提出も保留にしてもらっているから、こっそり儲けて、こっそり返済するわ」
「こっそりできるかなぁ。借金の金額も相当だし、そんな大金を稼ぐとなったら名が知れ渡りそうだが……パッツィ家の窮状もいずれ知られてしまうんじゃないか?」
「……なんだか、ファンのいるあなたが言うと妙に説得力があるわ。それなら身元を誤魔化したほうが良さそうね。国内の貴族になりすますのは難しそうだし、隣国から遊びに来たチャドの遠い親戚ってことでどうかしら?」
シェリーの外祖母は隣国ネバラの出身だったため、先祖返りであるシェリーはネバラ人の特色を色濃くもっていた。
ここ、アンガス王国で生まれる人間にはまず見られない、パパラチアサファイアの美しい桃橙色の瞳は見る者の記憶に残りやすい。あえてその特徴を利用しネバラ人を装うのは、なかなか良い案のように思えた。
「瞳はこのままでいいとして、カツラか何かが必要よね。あとは偽名を……あ!」
パッと頬を紅潮させたシェリーは、興奮気味にまくし立てる。
「あのね、わ、私とベルハルト様の子供ができたら付けたいと思っている名前の候補があるの! それを使用してもいいかしら? どうしよう、なんだかドキドキしちゃうわ……いくつかあって自分じゃ決められないからチャドが選んで」
ガサゴソとポシェットから手帳を取り出すと、チャドに開いて見せる。そこにはびっしりと、男女の名前が羅列されていた。
呪詛のようなそれにチャドは引いた様子を見せつつも、真剣に候補を眺める。
「この『ベルーシェ』なんていいんじゃないか?」
「……やっぱりチャドもそう思う?」
「ああ、ネバラ人の名前の響きに近――」
「うれしいッ、それが一番のお気に入りなの! ベルハルト様と私の名前を掛け合わせたのよ!」
シェリーは弾ける声を必死に抑えるように、口の前で両手の拳を握る。チャドと感性が似ていることを知り、仲間ができたような気持ちになっていた。
高揚したシェリーはその勢いのまま、カツラもベルハルトの髪色である、カフェオレ色にしようと言い募る。チャドも反対する理由がないのか、シェリーの思うがまま自由にしていいと後押ししてくれた。
シェリーの意見を存分に取り入れた変装の話がまとまり、二人は今後の打ち合わせを始めた。
まずは、チャドの親戚を騙るための共通認識をすり合わせる。誰かと会話した際に、話が食い違っていては怪しまれるからだ。
身元を偽っていることが明るみに出た場合、賭博場に出入り禁止となる恐れもある。よって、二人は念入りに『ベルーシェ』の背景を組み立てることにした。
それが終わると、二人は今後の稼ぎ方について話し合った。
この一週間のシェリーの様子からゲームはポーカーに絞る方針を固め、今夜から高レートテーブルに参加することを決める。借金の返済期限から逆算し、そろそろ高額掛け金に切り替えるべきだと判断した。最低掛け金の設定が高いほど、勝って得られる金額も多くなるからだ。
一通りの話し合いを終えた二人は、夜までに必要なものを揃えるため、賭博場を出ることにした。
「できれば、もう少し低レートで経験を積ませたかったところだが仕方ない。今夜からが、ある意味で本番だ。今まで以上に気を引き締めるんだよ」
「わかったわ、師匠。任せてちょうだい」
晴天の午後、強い陽射しを浴びながらシェリーは胸を張って前へ進む。
その背中を押しているのは、まるで彼女を導くような真っ直ぐで優しい風だ。それに突き動かされる迷いのない足取りは、彼女の苦境など誰にも感じさせないほどに力強い。
少し後ろを歩くチャドは、風を受けて邁進する彼女の姿を静かに見据える。
「……なぜ彼を好きになったんだ?」
チャドの口をついて出た突然の問いに、シェリーは振り向き、目をしばたたかせる。
「チャドから恋の話を振ってくるなんて、珍しいこともあるのね」
「私だって恋の話くらいするさ」
気の置けないその返答に思わず笑みがこぼれる。
「でもあまり華やかな話ではないのよ?」
「ほぅ、意外だな。一目惚れの運命的な恋かと思ってたよ」
「あながち間違ってはいないわ。彼と出会えたのは奇跡だと思っているもの」
シェリーは遠くを眺め、心に焼きつく子供時代を追想する。
二人の出会いは、シェリーが五歳、ベルハルトが十三歳の時であった。両家の当主が旧友で、子供たちの顔合わせの場をつくったのが始まりだ。
「幼い頃の私は、周りの大人が匙を投げるほど落ち着きがなくてね。何をやってもダメな子で、友達だって一人もいなかったの。周りに馴染めなくて独りぼっちだった――そんな私に唯一、最後まで向き合ってくれたのが、ベルハルト様だったのよ」
当時のシェリーは、一時もじっとしていられないほど何事にも集中できず、日常生活に大きな支障が出ていた。いくら躾けようとも、本人でさえも制御できない。原因不明で、改善の兆しも見えないその様子に、周りは次第にシェリーと距離を置いていった。
そうして次々と自分から離れていってしまう人たちを、シェリーもまた、黙って見ていることしかできなかった。
そんな折に出会ったのがベルハルトだ。
心身ともに大きく成長する不安定な時期の少年が、歳の差のある移り気な女の子に付き合い続けてくれたのだ。それは想像以上に根気のいることだっただろう。
それでも彼は、いつも笑顔でシェリーの面倒を見てくれた。時には叱られたり、喧嘩したりもしたが、それさえもシェリーにとっては、かけがえのない時間だった。
産後まもなくこの世を去った母。妹との距離を測りかねていた姉と、多忙でなかなか育児に関われなかった父。つらく寂しい思いをしていた時、彼らに代わって家族のようにそばにいてくれた少年を、恋い慕うようになるのは必然だった。
「いつからだったかしら――理由はわからないけれど、歳を重ねるごとに徐々に性格も落ち着いていったの。今ならあの時の周りの気持ちがわかるわ。誰も悪くなかったし、どうにもできないことだった」
吹き抜ける風がシェリーの髪を巻き上げる。あらわになったその顔に、過去の陰りは少しも見えない。
「ベルハルト様に出会って、私は本当に救われたの。他人から見たら、きっかけなんてちっぽけなものかもしれない。それでも私の人生が変わったのは、彼に恋したおかげだわ」
思慕が募り、そして月日が経つにつれて物事に集中できるようになると、それまでの遅れを取り戻すかのように、ありとあらゆる努力を重ねた。
彼の隣に立っても恥ずかしくない人間になるために、マナーや教養、社交に加えてダンスや乗馬など、学べるものは必死に学んできたのだ。
そして、そんなシェリーをずっと隣で見守り支えてきてくれたのもまた、ベルハルトだった。
優しい幼馴染はきっと、借金の話を知ったら奔走してくれるのだろう。無茶をしがちなシェリーを助けてくれるのは、いつだって彼だった。
もうこれ以上、頼りきりにはなりたくない。
あの穏やかな時間を繋ぎ止めるのは、自らの手でなくてはならないのだ。
「彼を愛してる。――だから、自分の力で未来を切り開くのよ」
チャドはシェリーの想いを知り、彼女の原動力を理解した。
太陽の光を浴びたパパラチアサファイアの瞳が輝く。
彼はそのきらめきに目を細め、彼女を待ち受ける未来がどうか幸せなものであってほしいと、そっと静かに神に願った。