23. 動きだす事態
澄み渡る青空に、広場の鐘の音が響き渡る。
貴族のタウンハウスが立ち並ぶ閑静な邸宅地。小路のひとつが繋がる先は、シェリーにとって見覚えのある通り道だった。その一角には、ノートル侯爵のタウンハウスがある。
古びた教会、静かなカフェ、洗練された仕立屋に、厳かな図書館――ベルハルトとの思い出が次々と蘇る街並みを走り抜けたシェリーは、通い慣れた賭博場の前に立っていた。
高く昇った太陽の下、額から汗を滴らせながら息を整える。靴ずれによって血を流す足が、じくじくと痛みだした。
おぼつかない足取りで目指す先は、ロウと夜の散歩をした中庭だ。
人目につかず、ベルハルトにとっても馴染みのない場所。身を隠すことを考えた末に、思い至ったのがそこだった。
人の少ない回廊を渡ると、中庭の噴水の音が聞こえてくる。木陰のベンチを見つけたシェリーは、力尽きたようにそこへ座った。
うつむいた視界に映るのは、質素な灰色のワンピースと、艶をなくしたカフェオレ色の髪。
(……私は、なにをしてるんだろう)
現実から目をそらしている場合ではないことは、わかっていた。
だが今は、なにも考えられない。これ以上、動くこともできないし、誰にも会いたくなかった。
シェリーはベンチに横たわり、目をつぶる。
(ちょっとだけ……あと、ちょっとだけ休んだら)
悲鳴を上げる心と体を、やわらかな風が撫でていく。
風に揺れる木の葉と、噴水の水音。その優しい音に身を委ねながら、シェリーは静かに呼吸を繰り返した。
◆
「今回の……は、……伯爵の……」
「例の……が、視察に……」
(――ん、あれ……)
ふっと意識が上昇する。シェリーは小さく瞬き、ゆっくりとまぶたを押し上げた。
ぼんやりとする眼前には、日没直後であろう、薄明の空が広がっている。少し暑いくらいだった気温も、今や心地よい涼しさに変わっていた。
(……私、いつの間に寝てしまったのかしら)
夜が近づいたことで、賭博場への来場者も増えてきたのだろう。回廊を歩く人々の話し声が耳に入り、徐々に意識がはっきりとしていく。
頑丈なベンチの上、慣れない姿勢で寝ていたためか、体のあちこちが痛い。まずは凝り固まった体をほぐそうと、シェリーはベンチに手をつき、起き上がろうとした。
「して、そのパッツィ伯爵はポーカーができるのか?」
突然耳に飛び込んできた「パッツィ」という単語に、シェリーは不自然な体勢のまま固まった。
(どうして、お父様の話が……)
会話が聞こえた方向へ、神経を研ぎ澄ます。
おそらく、ベンチに寝そべっていたシェリーに気づいていないのだろう。中庭の植木の陰で、男たちが会話を続ける。
「経験はないそうですが、ルールは知っていると言っていました。なんでも娘がポーカーに詳しいとかで……まあ、できなければできないで、いつものように他へ誘導してましたが」
「ポーカー以外のゲームは、相変わらず買収しているのか?」
「ええ、その都度。しかしディーラーの買収は足がつきますから、正直なところ極力避けたいのですよ。その点、ポーカーでしたら、あなたの強さに任せておけば良いので安心です」
明らかな不正を示す会話に、シェリーは息をのむ。
まだ事態を正確に把握できてはいないが、男のひとりは父をギャンブルへ誘った人物――おそらく、例の金貸しだろう。
(……こうやって、詐欺事件の被害者たちを陥れていたのね)
どうやらポーカーだけは違うようだが、それでも最初から被害者たちに勝たせるつもりは一切なかったようだ。
追い詰められた負債者から最後の希望をむしり取ってまで、金貸しはなにをしたいのか。返済させるためではないとしたら、その本当の目的は一体――。
「では、今夜のゲームには一名追加ということで対応しよう」
「ええ、そのように。伯爵が到着次第、あなたのテーブルに案内しますよ」
(え?)
真意を図ろうとしていた思考が途切れた。
父が賭博場に来る。その情報に、シェリーは戸惑う。
ポリーの話によると、父は昨夜のうちにギャンブルの誘いを断ったはずだ。それにもかかわらず、今夜ここに来るということは、金貸しに強制されたか、あるいはポリーがベルハルトに相談した際に、なんらかの指示を受けたかだろう。
家から離れていたシェリーにはあずかり知らぬところで、話が進んでいたようだ。
(もう、逃げている場合じゃないわ。お父様を見つけて、事情を聞かなくちゃ)
自分が聞き耳した内容も含めて情報を交換し、整理しなければならない。
シェリーは、気づかれないようにゆっくりと身を起こす。金貸しよりも先に父と接触するためには、建物の正面玄関付近に身を潜めておくのが良いだろうと判断した。
徐々に遠ざかっていく男たちの足音を確認したシェリーは、目立たぬようにひっそりと中庭を後にし、外を目指した。




