22. 向き合えない心
シェリーは横を振り向き、目を見開く。
小路に繋がる小道の階段。そこを駆け下りてくるのは、愛してやまない――しかし今は誰よりも会いたくなかった、幼馴染だった。
(……どうして)
思わぬ人の姿を認め、シェリーの脚が縫い止められた。その隙きにすぐさま追いついたロウが、彼女の腕を掴んで引き寄せる。
「ベルーシェ、聞いてください! ボクは――」
「シェリー、その人は?」
抱きとめられたロウの腕の中、耳に入ったのはいつもより低いベルハルトの声。
ロウの視線が、駆けつけたベルハルトに注がれる。対峙した二人の間に挟まれて、シェリーは思わず息をのんだ。
なぜベルハルトがこんな場所にいるのか。なぜベルーシェに扮するシェリーを見抜けたのか。ロウとの関係をどう伝えるべきか。この状況をどう説明すべきか。
(助けを求める? でも、ロウになにかされたわけじゃないわ。警邏に突きつけたいわけでもないし、私はただ逃げたかっただけで……)
ぐるぐると頭の中が混乱する。言葉に詰まったシェリーをどう捉えたのか、ベルハルトが質問の矛先をロウに変えた。
「シェリーとはどういった関係で?」
「『シェリー』?」
「……まさか、彼女の名前も知らないのですか?」
眉をしかめるベルハルトを見て、シェリーは慌ててロウに向き合った。
「ロウ、ごめんなさい! 実は私、シェリーが本名でベルーシェっていうのは、えっと……愛称! 愛称なのよ」
ベルハルトに内緒で子供の名前を考えていた後ろめたさと、ロウに嘘をつき続けてきた罪悪感。それらに押しつぶされて、シェリーは咄嗟に言い訳をする。
「愛称だって?」
しかし、その弁解に反応したのはロウではなく、ベルハルトだった。
彼は目を細めてシェリーを見る。
「それは、二人の間だけの特別なもの? 僕はシェリーの愛称なんて知らないのだけれど」
「えっと、これは、その」
「呼び捨てだし、僕と話すときよりも気安い口調だし……カツラもお洒落のためだったのか? もしかして、その人が例の――」
日陰にいたベルハルトが、影の境界線を一歩踏み出す。陽の光を受けて増幅した存在感と、淡々とした問いかけ。その静かな圧力に、シェリーはたじろいだ。
後ずさりした彼女を、すかさずロウが支える。そしてそのまま、ぽつりと呟いた。
「なるほど、きみが彼女の『大切な人』だったのか」
それはまるで、全てを悟ったかのような声色だった。
ロウはベルハルトを見据えると、自身の腕の力を抜いた。支えをなくし、体勢を崩したシェリーが、咄嗟にロウにしがみつく。
二人に近づく足音がピタリと止んだ。
「……シェリーとは随分と親しそうですが、お名前をお伺いしても?」
数歩の距離を空けたまま、ベルハルトがロウに問いかける。
ロウは、体勢を立て直そうとするシェリーを大げさな仕草で手伝うと、ふんわりとした笑みを浮かべた。
「ああ、失礼。ボクはファルハーレン子爵家のロウと申します。彼女とは……そうですね、特別な関係とでも言っておきましょうか」
それを聞いたベルハルトの指先が、ぴくりと動いた。
「やはり――シェリーが結婚を打診した相手というのは、あなたなのですね」
(え?)
唖然としたのはシェリーだ。
思いがけない話にぽかんと口を開けながら、以前もベルハルトが同様の勘違いをしていたことを思い出す。
あの時もたしか、シェリーが誰かと結婚する予定だと思われていた。どこから生じた思い違いかはわからないが、ベルハルトの誤解が未だ解けていない以上、このままうやむやにはしておけない。
訂正しようとシェリーが口を開いたその時、ロウがかぶせるように言った。
「ボクが、彼女から結婚を打診されたとして、貴殿になにか不都合でもあるんですか?」
「……なに?」
(なんですって?)
ベルハルトの低い声が、シェリーの心の声に重なった。
てっきりロウは、一緒に否定してくれると思っていただけに、衝撃で言葉が詰まる。彼の意図がわからない。
「ロウ、一体なにを――」
戸惑うシェリーと視線を合わせたロウが、彼女の耳元に顔を寄せる。
「すみません、シェリー。少しだけ、彼と話をさせてもらっていいですか? ボクに言いたいことはいろいろあるでしょうけど、今はぐっとこらえてもらえると助かります」
二人にしか聞こえない声量で、ロウがささやく。
その様子を見ていたベルハルトの口元がこわばった。
ロウは横目でそれを確認すると、改めてベルハルトに向き合い、さきほどの質問の答えも待たずに話を続けた。
「貴殿こそ、ベルーシェとはどういう関係なんです? 見たところ、恋人や婚約者というわけでもなさそうですし」
「僕は……彼女の幼馴染だ」
「ふぅん。それで? まさか、たったそれだけの関係で、ボクとベルーシェの逢瀬に割って入ってきたんですか?」
「ロ、ロウ、ちょっと……!」
誤解を助長するような口ぶりだ。焦ったシェリーは、彼のシャツの袖を引く。
ロウはそれに気づくと、シェリーを振り向き「安心して」と笑いかけた。
そして、次の瞬間。一体なにを思ったのか――ロウは、彼女のその手をかすめ取り、指を絡めて包み込んだ。
あまりの出来事に、シェリーの思考が停止する。
「このように、ボクとベルーシェは仲良しなんです。貴殿が心配するようなことは、なにもありませんよ」
「ね?」とロウが、シェリーに確認する。
まるで子供のような無邪気さに、困惑している自分のほうがおかしいのかと、頭の中が混乱した。
誰も話さなくなった三人だけの小路。そこに流れる時間が、束の間止まる。
「――彼女を愛し、生涯大切にすると誓えるのか?」
流れを再び動かしたのは、小さくかすれたベルハルトの声。
「誓うと言ったら、認めてくれるんですか?」
絡めた指をほどいたロウが、不敵に笑う。シェリーは手元から視線を外して、そっとベルハルトをうかがった。
彼はうつむき、自身の拳を強く握っている。
「僕は……僕は、彼女が幸せなら――」
(……ああ、やめて)
彼の台詞に続く言葉。小さい頃から何度も聞いてきた、いつもの言葉。
耳を塞ぎ続けてきたその言葉を、今さら聞いても心は揺らがない――揺らがないはずだったのに。
(聞きたくない)
幼馴染として、『妹』として、長年大事にされてきた。
いつかは、恋人として、妻として、愛してくれるのではないかと彼の心変わりを夢見てきた。
そこには、不安も迷いもなかったのに。
昨夜のポリーの言葉が頭をよぎる。
『もうすぐ私、ベルハルト様と結婚するの』
『一体いつまで、夢見る子供でいるつもり? ちゃんと現実を見なさいよ!』
結局、自分は向き合えない。
シェリーの幸せを願う、いつもの言葉でさえ、こんなにも心をぐちゃぐちゃにするのだから。
血を流し続ける胸の内をこれ以上誤魔化すことはできないと、臆病な自分が叫んでいた。
もはや、二人の会話を聞く余裕は残っていなかった。
微かなざわめきの方向に向かって足を踏み出す。そのまま迷わず駆け出した背中に愛しい人の呼び声が届くが、振り返ることはできなかった。
(彼のいない、どこか遠くへ。遠くへ――)
石畳を打つ足が痛い。
込み上げてくる熱さを必死に抑えながら、シェリーはひとり、小路の向こうへ消え去った。




