19. 隠れ家にて
初夏だというのに、手足が冷たい。荒れ狂う心が体を支配し、そこから一歩も動けなかった。
屋敷を訪れたベルハルトが、ポリーとなにを話したのかはわからない。しかし婚約の話が浮上した以上、返済期限までに事件解決は見込めないと判断されたのだろう。
一度平民になれば、爵位を取り戻すことは不可能に近い。最後の手段として、幼馴染思いのベルハルトが、姉に救いの手を差し伸べたのだとしたら。
(もしかして、両思いだった……とか)
跡取り同士ゆえに、これまで思いを交わせなかったのかもしれない。さらにそばには、ベルハルトへの片思いを隠さないシェリーがいた。そんな『妹』を、二人が慮っていたとしても不思議ではない。
ここまで追い詰められたことで結婚を決意できたのなら、仮に完済できても今さら二人は喜ばないだろう。
(私は一体――)
目指していた未来を見失い、足元が崩れていく。指針が震えて心が揺れた。事実を確かめたいのに、聞きたくない。
――怖いのだ。粉々になった恋を見つめ続けなければならない未来が、どうしようもなく恐ろしい。
けれどこのまま、ここで立ち止まっていることもできない。二人の関係、調査の進捗、姉の鬱憤、自身の将来――受け止めなければならないことはたくさんあるのに、ゆっくりと考えることもできない。残された時間はあとわずかだ。
シェリーはベルハルトに触れられた手を、もう片方で強く包み込む。そして自身を鼓舞するように、ぽんぽんと胸を叩いた。
体の歯車を回し、ゆっくりと脚を動かす。今は心を置いてでも、前に進まなければならないときだ。
「明日はロウに会ってから、本屋へ寄って――」
声が出ることを確かめながら、明日の予定を繰り返す。明かりが消えた屋敷の中、シェリーは幽霊のような足取りで自室を目指した。
ベルハルトにはまだ会えない。現実に向き合う心が整うまでは、理想にすがり続けることしかできなかった。
◆
そうして、一睡もせずに迎えた翌朝。
シェリーは、父が起きてくるのを広間で待っていた。
一晩悩んだ末に、まずは父から話を聞くことに決めたのだ。今はまだベルハルトに直接確認する勇気はないが、調査の進捗は把握しておかなければならない。
ポリーとベルハルトの間で交わされた話を父が承知していないことを祈って、必要最低限の情報を求めることにした。仮に婚約の件が話題にのぼったとしても、間接的に聞く分、衝撃も和らぐだろう。そもそも、ベルハルト本人の口から告げられるまでは希望を捨てないつもりだ。
(……臆病者の極みだわ)
シェリーは膝の上で、灰色のワンピースの裾を握りしめる。結局、可愛い服を選ぶ気分にはなれなかった。髪や化粧も軽く整えただけで、すぐに身支度が終わった。
その後は朝食もとらずに、今に至る。手持ち無沙汰で辺りを見渡していると、広間の柱時計が目に入った。シェリーが起床してからすでに数時間が経過したが、未だ父が起きてくる気配はない。何度かノックをしてみても応答はなかった。
そろそろ乗合馬車が出る時間だ。最後にもう一度、声をかけてみてから出発しようと、シェリーは父の寝室へ向かった。
「お父様、シェリーです。お話がしたいのですが」
扉に耳をあてて中の様子を探るが、やはり物音はしない。
(無理矢理起こすのは悪いし、今夜改めて時間をつくってもらえばいいわよね?)
現実逃避を長引かせるための言い訳を自問する。幸い、ポリーもまだ就寝中のようだし、このまま静かに外出するのが良い気がしてきた。今はまだ、姉と顔を合わせてもなにを話すべきかわからない。それなら、夜までに少しでも気持ちを整理してきたほうが有意義だろう。
シェリーは自室に戻りカツラをつけると、気配を消して屋敷を出た。
鬱々とするシェリーとは対称的に、城下は今日も生き生きとした空気に満ちていた。朝摘みの蕾が並ぶ花屋を通り過ぎ、焼き立てのパンの香りが漂う大路を進む。
ロウに指定された住所は奥まった場所のため、シェリーは一番近い発着所で馬車を降りた。大路を外れると、そこはまるで迷路だ。通りすがりの人や付近の店の店主に道を尋ねながら、入り組んだ小路を歩き回る。
(本当にこんな場所にロウがいるの?)
昨日は詳細を聞かなかったが、指定された建物が一体なんなのか気になってくる。人目があると言っていたから、無名の店や食事処だろうか。なんにせよ、思った以上に内緒にしたい相談事のようだ。
その後も小路を進み続けると、ついに探していた建物にたどり着いた。目印として教えてもらった淡い紫色のクレマチスの花が、外壁に蔓をのばして覆っている。一見した限りでは看板などは見当たらず、ただの民家のようだ。ここでなにを相談されるのか、いよいよ不安になってくる。
しばらく建物の前で躊躇していると、玄関の扉が開いた。年季の入った木製扉の向こうから現れたのは、ロウだった。白いレースアップのシャツを着ていて、随分とくつろいだ雰囲気だ。
「あ、ベルーシェ!」
シェリーと目が合ったロウは、すかさずエスコートに走る。
「よかったぁ。迷子になっていないか心配で、様子を見に行こうかと思ってたんです」
「想像以上に入り組んだ場所にあって驚いたわ」
「知る人ぞ知る隠れ家なんですよ。商談絡みで密談したいときなんかは、よくここを利用していて」
なるほど、そういう目的の人が集まる場所だったようだ。ロウに案内されて建物内部に入ると、密談に適した造りだというのが納得できた。
距離を離した個室がいくつかあり、扉には店主だけが開けられる鍵付きの覗き窓がついている。犯罪防止のため、店主が定期的に見回りをしてくれるのだという。
シェリーはロウと連れ立って、予約していた個室のひとつに入った。




