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152話 CHECKERED FLAG

「実、俺は……」


 瞬間の静寂。


 そして――


「実のことが好きだ。俺と付き合って欲しい」


 言った。


 一線を踏み越えた。


 恋愛という、幻想というにはあまりに残酷なその領域に、俺たちの関係を引きずり込んだ。


 やや俯きがちだった実の顔はよく見えず、どんな表情をしているのか分からない。分かるのは、緊張しているのか、不安そうに指を祈る様に組んでいることだけだ。


「……」


 実はおそるおそるといった様子でこちらに目線を向けようとするも、実の前髪が揺れ、彼女の視線を隠した。


 どこかから風が吹く。


 風によってなびいた実の前髪が、その目をこちらに見せた。


 目元はやや赤みを帯びており、瞳は涙の潤いでユラユラと光っていた。


 実の口から、ぽつり。


「ダメだよ……」


 耳から入って来た言葉が一瞬、認識できなくなり、その言葉を反芻する。


 ダメ、ダメ、ダメ……。


 ダメだよ、か……。


 そっ……かぁ……。


「一応、なんでダメか、聞いて良いか……?」


 思ってもみず、いつの間にかそんな言葉が口から出ていた。こんなにも泣きそうな顔でそんなことを言われるということは、そこまで俺のことが嫌だったのか、それとも何か事情があるのか。


 悲しみよりも先に虚無感と混乱が、悲壮を感じることを邪魔しているからだろうか。あまりに混乱していると、人間は冷静な思考と判断が出来る脳を優先して使っていくのだろう。


 そんな混乱が頭の中を駆け巡っていると、実からの声が聞こえた。


「それは……増良が、幸せになんてなれないから……だよ」


「……え?」


 少なくとも単純な嫌悪による否定ではなかったことをホッとしたかったが、実の放った言葉が更に混乱を招いたために、こちらの反応も遅れてしまった。


「つまり……どういう?」


「だって私はっ……元々男だったし……」


「ええと……?」


「こんな私と付き合ったら……絶対に増良に迷惑掛けちゃうよ……」


「そんなこと……」


「“そんなこと”じゃないよ……、絶対。もし……もし、付き合ったとしても、最初の頃は気にしなかったとしても、その内絶対辛くなる……。1つ1つは小さなこととして受け止められても、それが積み重なったらって思うと……」


「それでも俺は……」


「そう言ってくれる気持ちは嬉しいよ。でも……それでその関係が嫌になって、増良のことが嫌になったり、増良に嫌いになられたりしたら私っ……」


 そう言う実の頬には、流れる一筋の涙が。


 俺たちの想いは、ある所では通じ合っていた。でも、実は俺以上にモノを考えていて、それによって苦悩を抱えていたようだ。


「そんなことになったとしたら友達ですら……なのにっ……、増良がそんなこと言うから……」


 実は息を詰まらせ、流れた涙を拭いながら願うように、その言葉を絞り出していた。


 そしてその言葉は、正論かも知れない。……でも。


「実……」


 せっかくここまで打ち明けてしまったんだ。最後まで、想いを突き通してみよう。


「俺は、俺たちの行きつく先の未来がたとえそうだとしても、それでも実と付き合いたいと思ってる」


「な、なんで……」


「もしも俺たちがここで付き合わなくて、友人のままでいたとしても、俺たちはいずれ別れの時が来るはずだ」


 実の反論をさせずに、ただ淡々と、諭すように続けた。


「喧嘩して別れるかも知れない。疎遠になって関係がなくなるかも知れない。どっちかが早死にしてしまうかも知れない。もし付き合って、さっき実が言った理由が問題無くてもその可能性はある。元男だとか世間体だとか、そんなのが全く関係してなくても、分かれてしまうかも知れない」


「なら、なんで……」


「それでも俺は――」


 投げられた疑問に対して、俺は真剣に答えた。


「俺達2人の未来を信じたいと思った。今までの俺達のことを考えたから、信じられると思ったんだ」


「……っ!」


 実は目を見開き、俺の言葉に対して動揺を隠せないでいた。


「そんなこと言ったって私は増良のこと――」


「実は」


 実の言葉を何度も遮ってでも、俺の想いを伝えないといけないと思った。


「俺のことが、嫌いか?」


 かなり意地の悪い質問だけど、俺はこうまでしてでも実の傍に居たい。


「もし俺のことが嫌いなら、そう言ってくれ。それなら俺は、もう実には関わらないようにする」


「そんなこと……私は増良のこと、嫌いじゃない、けど……」


「友人としてしか見られない?」


「そうじゃなくて……」


 頬の涙が乾き落ち着きを取り戻そうとしていた実が再び困惑し、泣きそうな顔になっている。


「俺は実を幸せにしたいと思ってる。どんな不幸が俺たちに降りかかったとしても、俺がそれを振り払うし、俺1人で無理だとしたら2人で乗り越えて行きたいと思ってる。それで実が無理だと思ったのなら、俺を振れば良い」


「そんな言い方……ズルいよ……」


「ズルくても、俺は実の傍に居られるのなら、それだけでいい」


 俺がそう言うと、実は暫く黙り込んでしまった。


「……でもやっぱり」


 沈黙の後、実なりの決意だったのか、息の音が聞こえるほど息を吸ってから、言葉が続けられた。


「私は増良を幸せにできる自信が無いからっ……!」


 そして実は再び逃げようと、脱兎の如く掛け出そうとした。


「待てって……!」


「あ……っ!?」


 今度は逃がさず、逃げ出そうとして振り出された腕を掴んで、近くにあった柱に押さえつける形になってしまった。


「逃げないで、答えてほしい。さっきも言ったけど、嫌なら嫌って言ってくれて良いから」


「分かっ……た」


 再び強く腕を握ってしまったことを反省しながら、実がまたも逃げないことをその瞳を覗いて確認しながらゆっくりと掴んだ腕を解放した。


「ふぅ……」


 実は深呼吸を1つして、しっかりと姿勢を正して、じっとこちらを見据えた。


 沈む夕日が空を七色に染めている。


 そして夕凪を拭き去るような薄暮の風が、その空の色を紺藍の海に流そうとしていた。


 刹那、遠く街から聞こえ漏れていたはずの喧騒がしんと、静まり返った気がした。


「はい……私と、付き合って下さい」

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