12.兄上が死んだのは、灰色の春だった
僕は、リムデルラン王国第二王子、エトアルト。
僕には、花のような兄がいた。
「兄上! 春です!!」
「エト、お前だね? それと……」
「それと、春です! 僕と春が、あなたの部屋にやってきました!!」
六歳のころだったと思う。
僕は、腕いっぱいの花を抱えて兄の部屋にいた。
第一王子、コルネリウス。
彼の部屋はだだっ広くて、天井が高くて、どこもかしこも真っ白だった。
一点の曇りもなくて、寝台はとてつもなく大きくて、石けんのにおいがした。
コルネリウスは、寝台の中にいた。
全身に包帯を巻かれたまま、僕のほうへ顔を向けてくれた。
「すごい! 本当だ、春のにおいがする!」
「わかるんですか!? よかった、鼻も潰れたと聞いてたから」
僕は大喜びで寝台に駆け寄り、布団の上に花をまきちらした。
花にまぎれていた蝶が、ひらりと舞い上がる。
僕は指さす。
「蝶もいますよ、兄上!」
「本当? どこだい?」
コルネリウスが体を起こす。
僕が大好きな美しい顔は、包帯に覆われている。
僕はコルネリウスの隣に座り、蝶に手を伸ばした。
ひらひら、ふらり、蝶が飛んでくるのを、ひょい、とつかむ。
「はい、ここですよ。わかります? あ、羽根とれちゃった」
「ああ――うん。すてきなものをありがとう。生き物だ……生き物の、気配がする。この部屋はいつも清潔すぎて、死のにおいしかしないんだよ。――ふふ、嬉しい。お前だけだね、わたしが本当に欲しいものを知っているのは」
包帯の隙間で、赤い唇が微笑んだ。
このころ、コルネリウスは初めて暗殺者によって大怪我を負ったのだ。
後から聞いたところによると、彼は生涯命を狙われ続けた。
リムデルランは大陸の宝石。
美しい自然と強大な魔法に守護された、戦争をしない平和な国。
――それは表向きの話。
リムデルランは肉食獣に取り囲まれておびえる小動物だ。
神話時代から続く強大な魔法の守りと、王立魔法学校がなければ、すぐに他国に呑みこまれてしまうであろう地勢の小国。
兄、コルネリウスはその国の第一王子で、そして、異常に美しかった。
「兄上は、春の庭園が何より好きでしたもんね」
当時の僕は無邪気に言った。
兄はたった四歳年上なだけだったけれど、老人のような声で言った。
「そう。無理矢理命を長らえるより、わたしは春の庭で死にたい」
「死ぬ!? 兄上は死にませんよ! だって、こんなに美しくて正しい人なんですから!」
「ふふ。そうかな?」
兄の微笑みは甘い。
僕は花の蜜を吸った蝶々みたいにふらついて、一生懸命に言う。
「そうです! 兄上はいつだって、僕の憧れです。生まれたそのときから、エトは兄上のものです」
兄の手が伸びる。血と、石けんの匂いがする手が、僕の頭をなでる。
「かわいいエト。お前に全部あげたい。わたしの全部を」
疲れたような、優しい兄の声が好きだ。
エト、と短く僕を呼ぶ、その呼び方が好きだ。
僕は甘えて言う。
「全部は困ります。全部もらっちゃったら、僕は誰に憧れたらいいんです?」
「そう? そうか……そうだね」
兄は僕の頭をなで続けた。
兄の目は、布団の上に散った蝶を見ていたのかもしれない。
兄は続けた。
「――じゃあ、君には、王位だけあげよう。ひとの気持ちがわかる君に。ひとの気持ちがわかるのに、ひとの『かわいそう』に呑まれない君に。……君はきっと、素晴らしい王になるよ、エト」
兄の声は、僕の耳から入って、コロコロと転がり続けた。
兄、コルネリウスは、その後も、何度も、何度も殺されかけた。
何度も、何度も、ありとあらゆる手を使って、殺されかけた。
母と、コルネリウス派の臣下たちは、ありとあらゆる手を使って兄を治療した。
兄は、何度も何度も立ち上がって、また、倒れて。
去年、二十歳になる寸前に、兄はやっと死ねた。
コルネリウスの寝室の前室。
大きな窓の外には、雨が降っていた。
ざあざあ、ざあざあと雨が降って、中庭に敷き詰められた砂利を叩いていた。
「毒だ。こればかりはどうしようもならん」
「食事にも、杖にも、手袋にも、毒が」
「処刑された使用人は百人以上」
「隣国の仕業なのはわかりきっている」
「はたしてそうか? 奴らはリムデルランなしでは生き残れん」
きらびやかな部屋にぎゅうぎゅうに押しこめられたコルネリウス派の貴族たちが、ぼそぼそと囁きあうのを、僕は背中で聞いていた。
兄上。
あんなに庭園の春を愛していた兄上なのに、中庭からは木々が撤去されて久しい。
木々の間に暗殺者が潜んで、兄上と僕を狙ったからだ。
兄上。
僕はどうして、宮殿の外まで花を摘みにいかなかったんだろう?
この部屋からは花瓶が撤去され、おっさんたちは、みんな地味な色の服を着ている。
兄上は、兄上が大嫌いだった、あの、白い寝室で死んでしまった。
兄上は、兄上が大好きだった、庭園で死ぬことも許されなかった。
兄上。
――コルネリウス。
「地下組織か?」
「異教徒かもしれん」
「痴情のからみでは?」
「殿下は美しすぎた。男も女も、誰もが殿下に恋をし、憎んだ――」
「………………っ!!」
僕は、かっとして振り返った。
今囁いた奴をとっ捕まえて、窓から中庭に突き落としてやろうと思った。
でも、その前に、兄の寝室の扉が開いた。
「妃殿下……」
青ざめた母が部屋から出てくる。
貴族たちは心配顔を作って、母に群がる。
僕は動かなかった。
なんだろう。
何か、予感があったのかもしれない。
母の様子は、どこかが妙だ――。
案の定、母は前室を見渡すと、いきなり満面の笑みを浮かべた。
「安心するがいい。コルネリウスは元気じゃ!!」
「……は?」
「妃殿下、しかし、運びこまれたときには、コルネリウス殿下はすでに……」
うろたえる貴族たち。
僕は信じられないような気持ちで、数歩扉に近づく。
扉の向こうは相変わらず、不吉なくらい白かった。
そこに、真っ赤なものがあった。




