彼の顔について
私は書こう。描くのではなく、書く。一瞬しか存在しない世界の様子を目に写し、一枚の絵のように、一枚の原稿用紙に世界を、文字を紡ぐ。
『彼の顔について』
笑って。笑って。頬を上げる。人からよく、子供ぽいと言われる。
「セーンセ。今日も調子悪いですね」
眉が下がる。見るからにお酒に酔っていると分かる風貌。
「うるさい。先生を馬鹿にするな」
パシッと教科書で頭を殴られる。
「ニャハハハ」
頭を押さえておどけて見せる。
だって、好きなんだもん。先生の顔。
垂れ下がった目は黒目が大きくて、右の目じりに泣きぼくろ。ひそからにエロいと思っている。顔は角ばって男らしい。上背は逞しく、中肉中背。年齢は27。丁度、10差。私が27歳の時、37。結婚適齢期だし、狙っちゃえ。
「さっさと行け」
背中を押されて校内に入る。
「ちぇっ」
と小さく舌打ちをする。付き合いたいとか、結婚したいとか、本当はどうでもいい。ただ、笑ってほしい。本当にそれだけなの。ただ、あの日見た笑った顔を見たいだけ。きっとこれが好き。純度100%の好き。
『風景』
柔らかな風が髪を撫でていく。髪がかき乱されて目の前が見なくなる。ぱっと目を開けてみると黄金に輝く田棚。
「すごい」
息を飲むとはこういう事を言うのだ。さつきは何度も息を飲んで、自然の芸術を見つめる。知らず知らず目を見開く。まるでこの世とは違う野原。涙が流れる。頬を伝う。
「どうして、涙がでるの?」
さつきが住む町は騒音に満ちている。老人が言う、‘良き、昔が無くなってきている’。哲学めいた言い方だとそうなるが、簡単に言うと良き伝統文化が無くなってきている。
「私、ここに住みたい」
クシャッと手に持った紙を強く握りしめる。
‘若者農家募集一戸建て付き’と書かれたチラシ。顔を上げて、目元を拭く。
「うん。頑張ろう」
両腕を肩の高さに持ち上げて肘を曲げる。
「わっしょい」
その時、ざぁっと風が吹き、重い実を付けた稲穂を揺れる。そして、こちらを見つめている一人の男性。
「えっ?」
幻想は一瞬で終わる。
「あれ?」
今度は大粒の涙が流れる。
「あれ?あれ?」
『自然』
葉脈に光が通る。細い光が手の平に映る。木漏れ日が差し込む。一本の大きな木の下に腰かけて、木の肌に触れる。でこぼこと小石で満ちた海岸のようだ。
近くに水滴が付き、先を地面に垂らした草。空気は早朝でピンッと張り詰めている。頭上を見上げる。おおい茂る木々を越えて青い空が見える。どこまでも高く、どこまでも青く澄み渡る空を鳥が一匹飛んでいく。
がさっ。
茂みで音がする。目が点になる。犬なのか、猫なのか、もしくは狸か狐に化かされたのではと思えるほど、それらの動物を足して引いたような動物。
さて、数秒睨みあう。向こうは歯を出して、前足を折り、今にも飛び掛かりそうだ。耳はピンッと立ち、先が折れ曲がり、顔つきは猫のようで体は犬。
「ケェェン」
と一声鳴く。
はて。鳴き声は雉のようだ。尻尾は狸のようで体色が狐。
「妙だ。化かされる時刻でもあるまい」
『心情=感情』
嫌い。好き。愛している。死ね。うざい。悲しい。嬉しい。楽しい。面白い。爽やかだ。思い浮かぶ限りの感情をまず書く。そしてふと思う。喜怒哀楽と大きく感情を分けると4つになる。なのに、随分と沢山の感情があるものだ。人とは器用だ。一人の相手と接している時もまるで複数と接しているかのように、豊富な感情を持つ。何故か分からない。なぜなら、私は一人の人に対して一つの善い感情だけを抱くようにしているから。なのに、一体何故複数の感情を持つ?
問うてみる。目の前でコーヒーをすする書生風の男性に。
「あの、申し訳ございません。少々、質問しても大丈夫ですか?」
丸眼鏡に肩からショールを羽織る。本から目を上げると、知的な口元。どきりっ。つい声が裏返る。
「人の感情につて。なぜ、一人の人に対して一時に複数の思いを抱くのでしょうか?」
男性はさらりと。
「人だからです」
目を大きく見開く。目から鱗。つい、席から立ち上がる。
「そうですね」
『日常』
さえないの一言に限る。私の日常は25年ほぼ冴えない。そして、今年の4月から幻聴に悩まされている。又、信仰はどうだ。主イエス、聖母マリア、聖ヨセフ、聖ミカエル、聖ウリエル、聖アダム、聖アベル等、修道院はどうだ、神はどうだ、怪談はどうだ、ナザレのマリア、サラ、聖イヴ、セラはどうだ、聖ラジエル、ルシファー、ルシフェル
ハデス、ポセイドンがどうだと幻聴が酷い。お前は不死など、幻聴が酷い。私がすべきは忘れる、体の感覚を切ることなのに。
さて、病に侵されている日々。また、‘飽きた’や‘夢男’など少々都市伝説も入り込む。誰に相談しても自分の心の強さしだいと言う。
8月頃の幻聴は‘母を殺して喰え’と迫ってくるものだった。怖いの一言だったが外に出ることで改善されていった。つまり、精神病は自宅に帰ると改善される。それか、悪化するか。私の日常はさえない精神病の日々。11月から、精神障害者手帳が出される。
『願いとは』
願いとは問うと大概の人は富と言う。若しくは若さ。若い人に聞くと遊ぶ時間と答える。私、個人では後悔と言う。後悔があるから、未来を変えようとする。そして、後悔に憑りつかれたら、時が一か所で止まる。だから、後悔してもいいからこれからに繋がることをやるべきだ。私が若者に望むことは後悔することである。後悔して生活を変化させることである。
『恋情と愛情の狭間で揺れる』
恋と考えると不思議な気持ちになる。甘いのか。苦いのか。辛いのか。幸せなのか。私には分からない。不思議と大学時代の合気道をしていた彼のことが思い浮かぶ。今、私は合気道をして彼のことを考える。細身の彼。合気道は気を相手に向けて、力を使わず、相手の力を使うため、力は少なくていい。私は彼に対する思いは恋情だった。今になってふっと思う。愛には程遠く、きっと恋だった。
『恋情と愛情の狭間で揺れる』
「私は好きよ」
そう一言告げるだけで、私たちの関係は崩れる。だって兄妹だもの。
血の繋がりはない。俗に言う、義兄妹。でも、幼馴染でもあるから、親友、と言うことも出来る。幼い頃から、何でも話せた。いつ頃からだろう。拓を一人の男性と意識しだしたのは。
今、目の前に拓が俯きで眠っている。拓の頬にそっと触れる。柔らかくて、17歳男子にしては滑らかな肌。
「好き」
好き。好きだよ、と一言口で言葉にして、二回心中で言う。触れられる距離だけまだありがたい。だって、この前、『トモ、愛しているよ』と拓から言われた。
好きより愛している。
家族、親友、兄妹、微妙な距離。でも、居心地が良い絶妙な関係。
「う…ん。トモ」
拓が前を呼ぶ。
「なぁに、拓」
ダーリンでも、貴方でもない、名前を隣で呼べる喜び。気持ちに少しの恋情を込めて拓の手を取り、ペタンと座り込んだ。
『好きと言えるだけ幸せ』
「‘好き’と言えるだけで、どれほど幸せだろうな」
白い天井から吊るした清潔なカーテンで区切られている病室。
「大変だな。目を覚まさない相手に好きだと言い続けるのも。でも、知っているか?中国で20年間意識不明の夫相手に、日記を読み続けて目を覚まさした妻の話」
そっと布団の間に手を入れて、アストルフォの手を握る。ギュッと、ギュッと、何度も何度も握りしめる。そして、手を振り払う。何時もなら、文句を言ってくるのに、何一つ返事がない。
「好きだよ」
そっと呟く。好きだ。好きだ。心の中で何度も思う。外見上はにっこり笑っているように見える。
「まるで、返事だな」
返事にとれる反応が返ってきただけましだ。
「なぁ。アストルフォ」
剣道の試合で怪我をしてから三年寝たきり状態。
「アストルフォ。アストルフォ。起きたら、一緒に出掛けような」
例えば、お前があまり気にしなかったショッピングに行くとかな。