先輩の背中
レグルス・ルビーライトにとって、セレナ・アメジストという少女は不思議な存在だった。
出会ったのは5年前。
セレナが僅か10歳だった頃。
学生時代の話だ。
新入生にとてつもない魔術の使い手がいる。
レグルスが初めて耳にしたセレナの情報は、そんなものであった。
相方とも言える腐れ縁の同僚、プルートが持ってきた情報。
あの眼鏡がわざわざ誰も居ない時間帯の生徒会室で、自分達の主であるノクスを交えて議題にした情報だ。
さして政治にも権力争いにも興味がなく、女の尻を追いかけるのだけが生き甲斐のレグルスでも、それなりに重要な案件なんだなと理解した。
セレナ・アメジスト。
アメジスト伯爵家の次女であり、最近皇帝の側室として嫁いだエミリア・アメジストの妹。
今まで社交界などにも出てきた事はなく、アメジスト伯爵が存在を匂わせた事もなく、突然降って湧いたかのように現れた少女。
それも、僅か10歳にして学園教師の度肝を抜くような魔術を使いこなす天才。
傍から見れば、なんとも怪しい。
疑ってくださいと言わんばかりの謎の少女だった。
そして、そんな謎の少女を警戒しなければならない理由が自分達にはある。
ノクスは帝国第一皇子にして、次期皇帝候補筆頭。
他にも何人か皇族はいるが、勢力、知力、魔力量、魔術技術、戦闘力、生まれの差、どれを取ってもノクスが大きく上回っており、現時点で次期皇帝候補筆頭という地位を脅かす存在はいない。
だが、だからといって警戒を怠るのは愚者の所業だ。
ノクスの父、絶対の力を持つと言われる現皇帝アビスですら、かつて勢力で大きく劣る弟に一矢報いられ、最後の戦いにおいてあと一歩のところまで追い詰められた事があるのだから。
故に、ノクス達はセレナを警戒の対象とした。
このまま順当に行けば皇族の血縁となるだろう天才魔術師を。
目的を探るにせよ、人物を見極めるにせよ、接触するなら早い方がいい。
それがノクスの判断だった。
モタモタしている間に他の派閥に引き抜かれでもしたら面倒な事になる。
そうした判断の下、最低限の情報を得た段階で、ノクス陣営は迅速にいち早くセレナに接触した。
初対面の場として選んだのは学園の食堂。
学年の違う生徒が交流するのに一番手っ取り早い場所だ。
そこで、セレナは使用人も付けずに一人で食事をしていた。
男爵家出身の最下級貴族ならまだしも、伯爵家という高位貴族の令嬢としてはかなり珍しい光景だ。
もちろん、誉められた事ではない。
しかも、セレナは食事の作法もなっていなかった。
決して見られない程酷い訳ではないが、色々とがさつなレグルス以下という時点でアウトだろう。
おまけに、
「やあ。ご一緒してもいいかな? レディ」
そんなノクスの声に振り向いたセレナは、顔に食べカスが付いた状態で目を丸くしていた。
愛嬌のある顔ではあったが、貴族としては失格だ。
真面目すぎるきらいのあるプルートは少し、いや中々に不快そうだった。
逆に、レグルスはおもしろい奴だと思って内心笑っていたが。
それからノクスが色々と探りを入れるのを見ていたが、セレナは食べカスの付いた顔のまま、驚く程開けっ広げに事情を話してみせた。
家族に冷遇されていた事。
皇帝に嫁いだ姉の助けとなる為に学園へ来た事。
そして……そんな姉への溢れんばかりの愛を叫んだ。
どこか遠くを見るような完全にイッてしまっている目で語るセレナを見てノクスとプルートはドン引きしていたが、レグルスはむしろ爆笑した。
こうまで好き嫌いの感情をむき出しにして語るセレナは、つまらない権力争いの為に仮面を被り、感情を圧し殺して相手と接する他の貴族よりよっぽど好感が持てる。
今まで会った事のないタイプの女だ。
惜しむらくは年齢と性癖だろう。
いかに女好きのレグルスと言えど、10歳の幼女で、しかも実の姉への愛を叫ぶような奴をベッドに連れ込もうとは思わない。
だが、だからこそ、セレナとは性欲関係なしに付き合えそうな気がした。
そして、その直後。
セレナは姉とその子供の安全を条件に、ノクスの配下へと加わる事となった。
可愛い後輩が出来たのだ。
ノクスの配下となったセレナの活躍は目覚ましかった。
なんと言っても、セレナは優秀なのだ。
戦闘を行えば魔術の腕のみでレグルスを倒し、事務仕事を任せれば見事にプルートの補佐をやり抜いてみせた。
セレナはいつもひたむきに努力していた。
戦闘も、書類仕事も、始めから全てできた訳ではない。
セレナは優秀だったが、今までまともな教育を受けてこなかったからだ。
魔術は独学とはいえ、既に極めたと言えるような高い次元に到達していたが、戦闘訓練を受けていない為、それを戦闘で効果的に使う事ができず、ゴリ押ししかできない。
事務仕事に関しては言わずもがなだ。
その不足を補う為に、セレナは小さな身体で人一倍以上の努力をし続けた。
そして、しっかりと結果を出す。
そんな姿を見続けていれば、初対面の印象があまりよくなかったプルートも割とすぐに絆された。
ノクスに至っては、セレナを妹のように可愛がっていた。
本人に特別扱いしている自覚はなかったみたいだが、レグルス達から見れば一目瞭然だ。
あんな自然な笑顔を浮かべる主は初めて見た。
セレナが入ってから、ノクス陣営の雰囲気は目に見えて明るくなった。
別に、今までが特別暗かった訳ではない。
だが、ブラックダイヤ帝国という国に属している限り、大抵は明るい雰囲気とは無縁になる。
虐げられている平民達は当然として、貴族も度重なる派閥争いや後継者争いなどの政争のせいで、友や親兄弟すら疑い、時に敵対しなければならない。
そんな中で、色々と貴族らしくないセレナは清涼剤だった。
ひたむきに頑張る幼女を見ていれば、大抵の奴はほっこりする。
レグルス達にとって、セレナは光だったのだ。
決して、夜を吹き飛ばす目映い太陽のような強い光ではない。
例えるなら、闇夜を淡く照らす月明かりのような、弱くも優しい光。
セレナは、そんな不思議な存在だった。
だが、三年前、その光が陰る事件が起こる。
セレナにとって、自分の全てとも言える存在だった最愛の姉、エミリアが暗殺されてしまったのだ。
それを期に、セレナは変わった。
感情は擦り切れ、笑顔を浮かべる事はなくなり、ただ姉の忘れ形見を守る為だけに仕事に邁進するようになった。
優しさを氷の甲冑で覆い隠し、親兄弟すら切り捨て、戦場では六鬼将の一人として相応しい、まさに鬼のような容赦のない戦いぶりで敵を殲滅する。
それでも優しさを完全に捨て切る事はできず、完全に割り切る事もできず、戦う度に傷付いていく姿は、見ていてあまりにも痛ましかった。
時間の経過で少しずつ落ち着いてはいったが、セレナの心の傷が完治する事は一生ないだろう。
レグルスは、可愛い後輩をこんなにした奴が許せなかった。
八つ裂きにしてやりたかった。
当時は、セレナの見ていない所でレグルスも随分と荒れたものだ。
それを諌めていたプルートも、内心では同じ気持ちだったのだろう。
セレナにはできるだけいつも通りに接しながら、裏ではエミリア暗殺の黒幕を血眼で探していたのを知っている。
相手は相当なやり手だったようで、結局見つける事はできなかったようだが。
そして、ノクスはそんな二人以上に精神がやられていた。
いくら長い付き合いになる二人の前とはいえ、らしくもなく弱音を溢すレベルだ。
帝国第一皇子として、将来帝国を背負う者としての自負と自覚を誰よりも強く持つノクスが、あんな泣きそうな顔で弱音を吐くなど。
「……情けない。守ると約束したのに、帝国第一皇子の名にかけて契約したというのに、それを守れず、あまつさえ、こんなままならない状況にセレナを追い込み、それを黙って見ている事しかできないとは。己の情けなさに失望すら覚える」
弱々しくそんな言葉を吐く姿は、とても帝国第一皇子として、常に帝王のオーラを撒き散らしていた傑物には見えず、ただ己の無力に苦悩する少年だけがそこに居た。
それから、セレナがなんとか持ち直したと言える状態まで回復するまで、ノクス陣営はまるで新月の夜のように暗い雰囲気を纏う事となったのだ。
そして、そんな最低な時期をなんとか乗り越えたと思ったら、今度は革命騒ぎときた。
決起したのは、暴政に耐えかねた平民達。
たまに見かけた良い女を摘まみ食いするくらいしか平民に興味のないレグルスや、完全に平民を見下していて猿くらいにしか思ってないプルート、上に立つ者として色々と割り切っているノクスは特に思うところもないが、セレナは別だ。
セレナはなんだかんだで優しく、根が善人だ。
聖人とまでは言わないが、困っている人がいれば普通に助け、苦しんでいる人がいれば同情し、殺した敵にすら罪悪感を覚える。
正直、軍人どころか帝国貴族にも向いていない。
加えて、最愛の姉であるエミリアの影響だろうが、姉の思想に反する行いに、セレナは強い拒絶感を示す。
セレナにとって同情と憐憫の対象である平民達を殺すなど最悪だろう。
少なくとも、吐き気では済まない拒絶反応が出ている筈だ。
だが、それでもセレナはやる。
それが姉の忘れ形見を守る為に必要な事だと判断すれば、どんな非道な事でもする。
自分の心などいくらでも踏みつけにして、傷だらけになりながら戦い続ける。
痛ましい。
あまりにも痛ましすぎる生き様だ。
しかし、それでもやめさせる事はできなかった。
ロクな後ろ楯もないのに、権力闘争の火種になり得る厄介な血を引いてしまったルナマリアを守る為には、自分達の後ろ楯に加え、セレナの六鬼将としての地位が必要不可欠だとわかっていたからだ。
レグルス達にできるのは、同僚として、先輩として少しでもその小さな背中を支えてやる事と、できるだけ普通に振る舞って、少しでもセレナの心を軽くしてやる事くらいだった。
そんな歯がゆい思いをずっとし続けながら迎えた今回の戦い。
最初は殆ど勝利確定の戦いだった。
戦う相手も狂気に取り憑かれた獣達であり、平民を相手にするよりはずっとセレナの心も痛まない。
どちらかと言えば当たりの任務、その筈だった。
だというのに、敵の本拠地を攻め落とそうという詰み直前の段階で、唐突に現れた裏切り者が命を投げ捨てた作戦を開始し、自分達は一気に追い詰められる側となった。
レグルスにとって、自分達の傷はどうでもいい。
だが、セレナがこれ以上傷つくのは見ていられない。
セレナは前回の戦いで片眼を失った。
今回の戦いで両足を失った。
しかも、今まさに命すら失いかけている。
本当にいい加減にしてほしい。
運命というものがあるのならば、いったいどこまでセレナを追い詰めれば気が済むというのか。
だが、だからこそ。
「セレナ、お前逃げろ」
レグルスは、この期に及んで逃げようとしない、いや逃げるという発想が頭にも浮かんでいないような間の抜けた顔をした可愛い後輩に、軽い調子でそう告げた。
そんなセレナの顔を見て、やっぱこいつ結構なお人好しだわとレグルスは思う。
「で、でも、逃げようにも鳥型アイスゴーレムはもう……」
「バーカ。お前一人ならそんなもんなくても飛べるだろうが。俺でもわかるような事がわからねぇなんて、お前はいつからそんなバカになった?」
「ッ!?」
レグルスの言葉を聞いた瞬間、セレナの顔が悲痛に歪む。
そう、セレナは一人であればこの絶体絶命の窮地から逃げられるのだ。
当初の超ド級サイズの化け物相手なら難しかったかもしれないが、今の縮んだ状態相手なら、弱りきった身体でもなんとか射程外まで飛んで逃げられるだろう。
だというのに、セレナは考えてもみなかった事を突き付けられたかのように驚愕している。
つまり、セレナはレグルスとプルートを見捨てて逃げるという事をまるで考えていなかったという事だ。
まったく、姉の事を言えない程のお人好しである。
「……脳筋の言う事に賛同するのもシャクですが、まあ、それが妥当な作戦でしょうね。セレナ、殿は僕達が務めます。あなたは帝国まで撤退し、ミア殿とノクス様にこの事を伝えなさい」
「プルートさん……!?」
プルートもレグルスと同じ気持ちなのか、いつも通り真面目くさった理詰めでセレナを説得し始めた。
それでも、セレナは躊躇っている。
いつもなら冷酷な仮面を付けて迷わず最善手を選択する奴が、今回に限ってそれができていない。
そこまで自分達の事を大切に思ってくれていたのだろうか?
そう思うと、不謹慎だが少し嬉しい。
だが、この状況で時間を無駄にする訳にはいかない。
故に、レグルス達は伝家の宝刀を使って、無理矢理セレナの背中を押す。
「行け、セレナ! お前には生きて守らなきゃいけねぇもんがあるんだろうが!」
「その通りです。あなたには使命がある。生きて、ルナマリアを守りなさい。必ず、最後まで守りきりなさい」
「ッ!!」
その言葉を聞いて、セレナは決意を固めたようだった。
悲しみに顔を歪め、涙を流し、それでも強い意志の籠った瞳で前を見据える。
生き延びた先の、未来という名の前を。
「『氷翼』ゥ!」
そうして、セレナは地を這うような低空飛行で飛び去って行った。
最後に彼女が見たのは、自分達二人の、先輩の背中だろう。
ならば、それに恥じないように最後の最後まで戦い抜く。
ワールドトレントが、飛び去るセレナに向けて蔦を伸ばした。
「『火炎剣』!」
「『水切断』!」
それを、残り少ない魔力を振り絞って迎撃する。
最後の大仕事だ。
この化け物を足止めし、可愛い後輩を過酷な運命から守る。未来へと逃げ延びさせる。
その為に、二人は満身創痍の身体に渇を入れ、大剣と杖を構えた。
「まさか、最後に背中を預ける相手がお前とはな」
「全くです。腐れ縁とは怖いものですね」
そんな軽口を叩き合い、二人は笑った。
互いに大貴族の家に生まれ、歳の近い側近を求めたノクスの下に集って、早10年以上。
気が合わないと思った。
喧嘩ばかりしていた。
だが、今思い返してみると、それも案外悪くない思い出だ。
特に、セレナが来てからは、同じ先輩としてそれなりにわかり合えたような気がする。
だから、背中を任せるのにこれ以上の相手はいない。
「行くぜ、化け物。セレナを追いかけたきゃ」
「僕達を倒してからにしてください」
そうして、レグルスはワールドトレントへと駆け出し、プルートがそれを支援する。
最後の戦いが始まった。
「『極炎纏』!」
「『海王刃』!」
炎が燃え盛り、水が飛沫を上げる。
その勢いに押され、ワールドトレントはこの場に釘付けとなった。
この二人を倒すまで、ワールドトレントがセレナを追う事はできない。
追わせない。
一歩足りともこの先には進ませない。
二人の強い意志が、覚悟と決意が、確かに化け物の歩みを止めてみせたのだ。
そして、炎と水の乱舞は、二人の魔力と命が完全に尽きるまで止まる事はなかった。