夜を泳ぐ金魚
その日、私は学生時代の友人の屋敷を訪ねていた。友人は彼の父である公爵の跡を継ぎ、公爵となったばかりで、私は彼を祝うために挨拶にやってきたのだ。
友人は歓迎してくれて、その日のうちに帰るはずだったのだが話が盛り上がり、夜も更けてしまったので泊まっていくようにと勧められた。悪いとは思いつつも、断る理由もなかったので彼の好意に甘え、泊めさせてもらうこととなった。
案内された部屋で寝ていたのだが、ふと夜半に目が覚める。
視界は朧で夢の中へと逃げたくなったが、御手洗いへと行きたくなったので渋々ベッドから起き上がる。
窓に備え付けられたカーテンの隙間から差す月の光が、やけに青白い気がした。
部屋を出てしばらく廊下を歩く。流石公爵家だけあり、屋敷は広い。
自分の屋敷とは全く違い、どこも豪華で煌びやかだ。ただ、この屋敷は少し変わった造りをしている。
中庭を屋敷でぐるりと囲むような形をしているのだ。
あまりないような屋敷の造りだが、友人によれば古い歴史がある屋敷の為、老朽化で傷んだところを改築したり、増築したりした結果このような造りになったらしい。
それだけ長い歴史を歩んできた屋敷なのだと思うと、そこを私が歩いているのが恐れ多い気がしてくる。
少し羨ましくもあるが、大きな責務と引き換えに手に入れられるものだと思うと、私には手に余るように思えた。
客室のある二階から階段を降り、一階の御手洗いへと続く廊下を静かに歩く。中庭に隣接する廊下を歩けば目的地に到着だ。
中庭に差し掛かると、不気味なほどに青白い光が中庭を覆っていた。
屋敷に囲われた中庭は、まるで水槽の中のようだ。木々や草花は水草で、ベンチや小さな明かりの灯る洋燈は水中飾り。青白い月の光は、ここが水の中だと私に錯覚させる。
巨大な水槽のような中庭に思わず見入っていると、視界の隅で何かが動いた。
気になって動いたものの方へと視線を向ければ、透けるような乳白色と朱色が視界から逃げていく。
今のは何だろうか。
また視線を動かせば、ひらりと何かが視界の隅で翻る。それはドレスを翻したような、魚の尾が揺れたような、そんな風に見えた。
眠たかった頭は冴え、今度こそ視界で揺れる何かを視線が捉える。
美しい人だった。
赤い艶のある髪と、透けるように白い肌。僅かに見えた瞳は夜の闇よりも深い、黒曜石のような色をしていた。
赤と橙と白がパレットの上で混ざり合ったような不思議な色合いの、半透明で肌の色がなんとなく見えてしまうような夜着を纏い、私になど気付かずに夢中で中庭で舞い踊っている。
金魚のようだと、思った。
水槽のようなこの中庭で、夜を泳ぐ美しい金魚。
私の目は釘付けになり、金縛りにあったかのようにその場から動けない。
どのくらい見ていたのかはわからないが、ふと彼女が踊るのをやめた。
彼女は中庭の真ん中で幾許か佇んだ後、夜着を翻し、私の方を見た。
視線が合う。夜よりも深い闇に絡め取られ、私は呼吸さえも忘れた。
意思を持たないような虚ろな黒い瞳は僅かに光を帯び、また闇に飲まれる。頬に雫が一筋、夜の静寂の中に流れ落ちていった。
しばらく見つめ合い、やがて彼女は私に背を向けて歩き出す。
目を離した覚えはないのに、気付いたら彼女は闇の中へと消えていった。
私は御手洗いのことなどすっかり忘れて黙って部屋に戻った。
友人に姉や妹がいたなど一度も聞いたことはないし、友人には可憐で美しい婚約者がいるが、先ほど見た彼女とは全然違った容姿をしている。
あれは、一体誰なのだろう。
疑問ばかりが頭に浮かんでは、答えも出せずに消えていく。しまいにはあれは夢だったのではないかとすら思えた。
いずれにせよ、友人に聞いてみなければ何も答えは出ないだろう。
妙に冴えてしまった頭と眼はなかなか寝てはくれなかったが、なんとか眠ることができた。
空はもう、白んでいた。
翌朝、友人に昨日のことを早速尋ねた。
「なぁ、君には姉も妹もいやしなかったよな?」
「何を当たり前のことを。弟が二人いるだけだよ」
「昨日、夜中に御手洗いに行ったときに中庭で綺麗な女性を見たんだ。赤い髪に黒い瞳をした、何かの踊りを踊っている女性だ」
友人は一瞬、朝食を食べていた手を止めた。
「夜中だろう?夢でもみたんじゃないのか」
「そうだろうか」
「きっとそうだよ」
何だか釈然としないが、確かにあれは夢だったのかもしれない。友人に言われるとそんな気がした。
「そうか、夢だったのか」
それを仕舞いに別の会話へと移り、いつものように友人と談話を楽しんだ。
流石にこれ以上お世話になるわけにはいかないので、お昼をご馳走になる前に友人の屋敷を出た。また近々会おうと友人と約束し、馬車を走らせる。
寝不足がたたり、寝心地の悪い馬車の中にもかかわらずあっという間に夢の中へと沈む。
自分の屋敷へと到着し、目が覚めた頃にはあの夜のことはもうすっかりと忘れてしまっていた。
あの日から何週間か経った頃。
私は幼馴染の友人の元を訪ねていた。彼は侯爵家の次男で、私と同じように家を継ぐわけでもなく、ふらふらとしている男だ。
私の家は伯爵家なのだが、彼の両親と私の両親の仲が良いため、彼とは幼い頃からの仲であり、かくいう私も優秀な兄が家を継ぐため、好き勝手させてもらえているので彼同様ふらふらとしている。
つまり私と彼は同類なのだ。
「よう、久しぶりだな」
「ああ、久しぶり。元気にしていたようだな」
「相変わらずだよ。君は?」
「僕も相変わらずさ。さ、早く僕の書斎へ行こう」
私と彼はいつも彼の書斎でたわいもないことを話している。
彼は学者で、色々なことを知っているので私は彼の話を聞くのが好きだ。
彼は私のつまらない話も、自分の知識を活かして面白くしてくれる。とても尊敬できる友人だ。
だが彼は出不精で、社交界などは興味がなくその辺はあまり詳しくはない。その辺の話を持ってきて彼に聞かせてやってくれと彼の両親に頼まれており、私が頻繁に彼を訪ねる一番の理由である。
書斎に着くとボサボサの黒髪を手で荒く掻き、下がってきた眼鏡をくいっと上げた。
話を始めようとするときの、彼の癖だ。
「さて、今日はどんな話を持ってきてくれたんだい?」
「ああ、そういえば数週間前にクレモンド公爵に会ったよ。公爵になったばかりだが、彼は卒なく公爵家の仕事をこなしているようだったよ。昔から彼は優秀だったからな」
「ユリアスは何でも卒なくこなす、存在が嫌味なくらいな奴だったからな。でもユリアスが元気そうで安心したよ」
お互い懐かしい旧友の話に盛り上がっていたが、ふとあの女性のことを思い出した。
「そういえば、彼の屋敷で夜中に御手洗いに行きたくなって起きたとき、不思議な女性を見たんだ。中庭であんな夜更けにその…透けるような夜着を着て踊る女性さ」
「夢でも見たんじゃないか?」
「…そういえばユリアスにも同じことを言われて自分で納得したんだった。やっぱりあれは夢だったのか…」
そう呟くと、目の前の彼は思案するように床を睨んでいる。
「どうかしたのかい?」
「いや…」
何かを言おうとし、言い淀んだ。自分の言いたいことをはっきりと言う彼にしては珍しい。
「その彼女は…赤い髪に、黒い瞳をしていたか?」
「凄いな!その通りだよ。何故分かったんだ?」
「……」
「とても美しい女性でさ、彼女、水の中を泳ぐみたいに踊ってたんだ!まるで鉢の中の金魚のようだったよ」
うっとりと夢の中の女性を思い出している私に、友人は真剣な眼差しを向けた。
「おい、アーノルド」
「ん?なんだい?」
「そのことは誰かに言ったか?」
「ユリウスと君にしか言っていないよ」
「なら、もうこれ以上誰にも言うなよ」
ただの夢の話なのに、急にどうしたというのだ。冗談にしては、真剣な声をし過ぎている。全くどうしてしまったんだ。
「なんでなんだ?夢の話だろう?」
「…もしかしたらそれは、夢じゃないかもしれない」
「一体どういうことなんだい?」
「これは怪談書を読んでいたときに知ったんだが…どこの家かは書かれていなかったが、どこかの貴族の屋敷にまるで金魚のような装いをした美しい女性が出ると、書いてあった。彼女は奴隷でとても美しく、彼女を気に入った貴族に闇市場で買われ、屋敷で夜半に中庭で毎夜毎晩踊らされていたそうだ」
友人の言葉が耳に吸い込まれ、脳に届くたびに血の気が少しずつ引いていく。
これ以上聞きたくないのに、友人は話すのをやめてはくれない。
「屋敷の主人は中庭を囲むように屋敷を増築し、当時の使用人によればまるでその中庭は水槽の中のようだったそうだよ。そこで主人は奴隷を踊らせて、喜んでいたそうだ。『私の可愛く愛しい、金魚。さぁ、もっと美しく泳いで私を喜ばせておくれ』ってね」
その話の奴隷はまるで、私が見た女性のようではないか。
「だけど…それはあくまで昔の話だろう?」
「怪談だからね。…でも、あくまで小さな噂程度だが、今でも出ると言われているらしい。ただ、あまり広まっていないのは、見たと言った奴らがことごとく姿を消してしまっているからだって言われている」
「……」
「だからアーノルド。絶対にこれ以上その話はするなよ。噂だとしても、僕は友人を失う可能性を少しでも減らしたい」
「……分かったよ。このことはもう誰にも言わない。私だって、命が惜しい」
そこでその話は終わり、私たちは気を紛らわすかのようにたわいのない話をし続けた。
宵の口に友人と別れ、私は自分の屋敷へと戻った。
食欲が湧かず、夕飯をほぼ口にしなかったので家族に心配されたが、応える気力もなくそのまま自分の部屋へと入り、ベッドに横になった。
いつの間にか眠っていたらしく、気づいたら夜だった。
窓から差し込む星と月の明かりがベッドを青白く染め、嫌でもあの夜を思い出す。
美しい人だった。
あの話を聞いてから、私の頭の中を常に泳いでいる。
彼女は、買われてずっと踊らされていた。あの怪談話の主人は、彼女に魅入られてしまったのだろう。
かくいう私も、彼女に捕らわれている。彼女がもし生きていて、もう一度出会えたなら、私は彼女を攫ってしまうかもしれない。
あんな狭い水槽の中ではなく、もっと広い海で泳がせてあげたい。
こんなことを考えてもなんにもならないと分かっているのに、どうにも考えてしまう。
きっと、一目惚れだったのだ。
生きてもいない、夢だか怪談だかの中の女性に恋をした。全く阿呆だと思うが、それでも惹かれてやまなかった。
友人と約束したし、もう私が彼女のことを口にすることはない。
多分、もうユリアスは私を彼の屋敷に泊めてはくれないと思う。もしあの怪談話が本当なら、とんでもない醜聞だ。それを私が彼の屋敷で見たと言ったら、私は彼に消されるのだろう。
だから、彼女とはもう会えない。
彼女が在り続けるのは、私の頭と心の中だけ。
私は彼女の存在の欠片を、あの屋敷から私の頭と心へと移す。
どうか少しでも、あの屋敷から離れられたなら。そしたらきっと、あの虚ろな瞳が綺麗に輝くのではないか、そんな風に思う。
あれから何十年も経った。
私は結婚し、子供が生まれ、つい最近息子に家を継いだばかりだ。
あれから幾夜も、私は夜になるたびに彼女を思い出した。
夜になると、どうしても彼女を思い出してしまうのだ。
そういえば最近、クレモンド公爵家の屋敷の一部を取り壊したらしい。
理由は詳しくは分からないが、ユリアスの孫が何かを怖がり、屋敷を一部取り壊すことになったと風の噂で聞いた。
中庭を囲むようになっていた屋敷は、今はもうあの中庭を囲んではいないらしい。
美しい金魚は今も、あの狭い水槽の中を泳いでいるのだろうか。
あの水槽が壊れた今、どうか叶うなら広い夜空を自由に泳いでいて欲しいと願っている。