無意味に見えて無意味ではない悟り、人は一人では生きられない
例えば食べ物の構成要素に食物繊維があります。
これには栄養価もカロリーも有りません。
合理的に考えれば食べるだけ無駄なので、浅はかに考えてしまえば接種するのは完全に無駄だから一切取らないでいいと思ってしまいます。
こんにゃくとかきゅうりとかがそんな感じですかね。
でも日本の文化として伝統的に各地で栽培され続け、食べられ続けています。
伝統的に広範囲で使われていると言う事は意味があると言う事です。
そして実際には内蔵を掃除し、老廃物を付着させて排出するために必要だというのは大体皆が知っています。
例えば中国拳法にはどう考えても無意味にしか見えない動きや構えが有ります。
ヨガも同じで、どう考えても合理的に意味があるとは思えない動きや構えがあります。
どこかの未知の未開部族の謎宗教でも同じです。
しかしそれらには体の動きから心を作る意味があるんじゃないかと思います。
音楽を聴く事と、自分が行う行動に合理的には一切関連がありませんが、例えばロッキーのテーマを聞いてたらテンションが上がってトレーニングしたくなります。
色んな文化の色んな儀式。
これらのほとんどに意味は有りませんが、その文化圏に生活する者としてのメンタルコントロールが無意識に行われ、行動欲求の方向付けがされるのだと思います。
そして小説を書くと言う行動。
これもまた、合理的にはたった一人で出来ます。
しかし一度習慣を変えてしまえば中々執筆に踏み切れません。
でも最近、久々に何か月も、下手すれば1年以上離れていた執筆している人達の集まる生放送を視聴しました。
そして彼らと色々コメントでやり取りしていると、少しずつ執筆欲が高まるのを感じました。
そこで思いました。
人は一人で生きられない、その真の意味は何か?
何かをするコミュニティに入ろうが、たった一人で行おうが合理的に考えれば同じです。
しかし実際は影響を受けて、それが自分の力になるのです。
本当に活動し、行動しようと思ったら、たった一人じゃ出来ません。
何とかして人と関わらなければならないのです。
趣味でプログラムを作るにしても、本当にその道を進もうと思うなら、それを発表したり、販売するといった、人と関わるゴールが無ければならないのです。
人生という岸壁を登るうえで、人と関わる事こそが手で掴む出っ張り部分なのです。
発表する、販売する、意見する、やりとりする。
それが無ければ一歩も進むことが出来ず、道は閉ざされたまま開かれないのです。
仙人のように孤独に己を高めよう……そこには道は何も無いのです。
インドの有名な修行僧で、生きている間常に手を挙げて天を指さしている人が居ます。
彼がもし、一切人と関わる事が無ければこう悟った事でしょう。
「この行動にも、自分の人生にも、何一つ意味は無かった。
物凄く苦労して、我慢して、苦しみ続けたが、何の成果も得られなかった」
しかし今はこう悟っているでしょう。
「こうやって天を指さし続ける修行をすると地域の人々に公言し、家族にも協力してもらい、色々な参拝者を受け入れて、時には海外の雑誌やテレビの取材を受ける。
この人との関わりにこそ、修行の意味があった。
自分が探し求めていた人生の真理とはここにあったのだ」
私は独身ですが、仮に結婚してたりした場合、軽い気持ちで言った言葉が反響しあって現実になり、次の一歩を踏み出して自分の夢に近づいていく。
そんな良好な関係を築けたでしょうか?
まぁそれは理想論ですね。
そもそもの話、出会う人々に対して「友達になりたい」「深い関係になりたい」と本当に思うようなことが有れば、すでに自然とそうなってるんですよ。
自らの欲求で。
必要に迫られて、情報を得なければならないから、協力しないと不安だから、というネガティブな理由で友好関係を結んだことしかありません。
まぁそれは、私の心が死んでいるから、本当の自分の欲求を追い求めて生きていないからかも知れませんが。
そもそも私のハンドルネームのレブナント。
ネタ元はDoomというゲームの敵キャラですが、自分自身の心はとうに死んでいるけどまだ何か諦めきれなくて彷徨い続けている諦めの悪いアンデッドという意味から付けています。




