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蝶と蜘蛛

作者: 月宮 影

 陽光を浴びて銀白色に光る蜘蛛の巣に、澄んだ青色を持つ蝶が捕らえられている。必死に羽を動かし、一刻も早く逃げ出そうとするが、空しくも巣が少し揺れるだけで絡まった糸がとれる気配はない。それでも抵抗をやめない蝶を、下から蜘蛛が狙いすましていた。一歩一歩、あの長い足を見せつけるかのように動かしながら、ゆっくりと蝶へ近づいていく。食われる――すなわち、自分の死を悟った蝶は一層強く羽を動かし、糸を振りほどこうとする。蜘蛛も逃がすまいと着実に蝶との距離を詰める。

 そんな命をかけたやり取りは、自然の中ではごく当たり前のことであろう。蜘蛛は生きるために蝶を捕まえ、蝶は生きるために逃げようとする。人間は捕食者としても被食者としても、両者と関わりを持たないがために、その行為にあまり興味を抱かないのだ。

 だが、食う・食われるの矢印が向き合った関係に、人間が介入したらどうなるのだろうか。最近の私の興味は専らそこへ向いている。……我ながら、何とも頭のおかしな話だとは思う。だが、理解を超えた怪奇を、彼は――私の友人はこの目に見せてくれたのである。もしあれが真実の出来事でないというならば、彼は今すぐにでも奇術師としての人気を博することであろう。しかし、長年の付き合いから分かることであるが、彼はそこまで手先が器用な方ではないし、私を騙して面白がるような人間でもない。つまり、彼は本当に自然淘汰の輪に組み込まれてしまったのだ。私はただただ、その結末が知りたいのである。


***


 それは今から一月ほど前の暑い夏の日。見せたいものがあるから一寸来てほしい、と彼から連絡をもらった。私と彼の家は歩いて二十分ほどの距離。そう遠くはないのだが、だからこそ何かしらの用がない限りは訪ねることなどしなかった。そうでなくとも、私は出不精の気があるのだ。だが、せっかくの誘いを断る理由もない。蝉の声を遠くに、茹だるような暑さの中を、私は不快感を隠そうともせずに歩いた。

「やぁ、久しいね。邪魔をするよ」

「おぉ、よく来てくれた。さぁ、上がってくれ上がってくれ」

 快く迎えてくれた友人は、私の記憶の中のものより少しばかり老けて痩せたように見えた。彼と最後に会ったのは昨年の冬頃。半年ほどでここまで顕著に変わるものなのであろうか、と不思議に思ったが、あえて口に出すようなことはしなかった。

「見せたいものがある、と言っていたが……一体何なんだ」

「まぁまぁ、それはもう少し後に話すとしよう。それよりも、どうだ?最近は」

「どう、と言われてもなぁ……」

 呼び出したのは彼の方であるが、何故かすぐには本題に入ろうとしなかった。否、すぐにでも話してしまいたい、と切羽詰まった気配を感じられないこともなかったのだ。だが、それと同じくらい、あるいはそれ以上に話すことを躊躇わせるような何かがあるようなのだ。具体的なことは分からない。それでも、その葛藤が彼の顔にははっきりと表れていた。故に、私たちは詮無いことと理解しつつも、近況を語り合い始めたのだった。

 しかし、もとより長く語り合う程の話の種を持ち合わせていない私は、すぐ話に詰まってしまった。それは、意外なことに彼にも同じことであった。本来、出不精な私とは違って、彼は散歩なり旅行なり、外に出るのを好む人間であった。そして、出先であったことをよく私に話したのだ。前に彼を訪ねた時も土産話をたくさん聞かされ、よく分からない土地の名産品を持たされた。てっきり、今回の「見せたいもの」というのも、出先で拾った何かかと思っていたが、それはどうやら違うようである。彼の近況を聞くに、どうやら最近は外出をしていないようなのだ。彼の話のほとんどは、石の壁に囲われた最も身近で最も狭い空間での出来事だった。

 普段のように見知らぬ土地の話ならば、私が口を挟む余地などありはしないが、家内の話ならば別である。家に籠る年数では圧倒的に私の方が上なのだ。

 そんな変な理屈から妙な優位性が芽生えた私は、何だか自分の気が大きくなるのを感じた。

「珍しいじゃないか、君が外の話をしないなんて。何かあったのかい?」

「いや、何かあったというか……まぁ」

「はっきりしないな。だが、ここ最近はどこにも出掛けていない。それは紛れもない事実なんだろう?」

「あぁ、その通りだ」

「それはどうしてだい? あんなに出回るのが好きだったじゃないか。どこか怪我でもしたのか」

「いや、怪我をしたわけではない」

「では一体何故なんだ」

 彼がその理由を話すことを躊躇っているのは一目で分かったが、追及を止めることはしなかった。友人が自分に熱く語るほど大好きな事を突然やめてしまったのだから、大いに気にかかるというものだ。私は彼の目をじっと見つめ、また彼も私を見つめ返した。時折、無意識なのだろうか、左腕をさすっていた。

「君、虫は得意か?」

 少しの沈黙の後、返ってきた答えはそんな問いであった。

「虫……?」

「あぁ、虫だ。特に蜘蛛とか蝶とか」

「特段好きというわけでもないが、まぁ、別に苦手というほどでもない」

「そうか」

 彼はまた何かを考えるかの如く押し黙ってしまった。やはり左腕をさすっている。

「それと出掛けなくなった理由が何か関係しているのかい?」

 そう問えば、彼はこくりと頷いた。

「……そもそも、君を呼んだ理由もそれなんだ。見せたいものがある、と言っただろう。君に見てもらいながら経緯を話そうと思っていたんだが……。いざとなると言えないものだな。俺は怖いんだ。得体の知れぬものが自分の中に入り込んで、なお生きようと蠢いていることが。自分の体なのに自分の意思が全く働かぬことが。俺は明晰夢でも見ているのではないかと、何度も疑った。けれど、奴がこの肉体に爪を立てる度、信じがたいが現実なのだと思い知らされるのだ。一人ではとても耐えられぬと君を呼んだが、やはり恐怖は俺の心に巣くっている、なかなか話し出せない事をどうか許してほしい」

 彼はまるで自分に言い聞かせるかのように言葉を紡ぐ。到底、私には何のことを言っているのか、彼の身に何が起こっているのか、まったく分からなかった。

「君、少し落ち着け。私には何のことだかさっぱり分からない。ただただ何かに怯えているのは分かった。少しずつで構わないから、事の始まりから話してくれないか」

「……何を見ても信じてくれるか?」

「……あぁ、信じよう」

 その他の言葉が口から出せなくなったかのように私は力強く答えると、少しだけ落ち着きを取り戻した彼は、時を二週間ばかり戻って話してくれた。


***


 今日のようにとてもよく晴れた日だった。こんなにも天気が良いならば、何処かへ出かけなければ損だと考えた俺は、思い立ってすぐに家の敷地の端にある蔵に行った。君も知っての通り、あそこにはスコップや釣り道具、ランタンなど、色々な道具を入れている。今日何をするかは、蔵で目についたもので決めようと思ったんだ。だが、蔵に入る前、入口であるものに目が留まった。――青い蝶が蜘蛛の巣に引っかかっていたのだ。陽の光に溶けて蜘蛛の糸は見えず、まるで蝶の時間が空中で止まったかのようだった。蝶はまだ生きていたようで、糸から必死に逃れようと羽を動かしていた。俺は少しだけその光景に目を奪われ、はっと我に返ったところで庭先に置いてあった脚立を持ってきた。蝶が掛かった巣の下の方に、蜘蛛が狙いを定めているのが見えたからだ。特に蜘蛛に対して恨みがあるわけでもないが、捕まった蝶をこのまま見過ごすのも可哀そうだと思ったのだ。

 蔵の入り口の上の方にできていた巣とはいえ、もとより蔵がそこまで大きくないため、脚立を使えば巣は胸元の高さであった。とりあえず、蝶にこれ以上糸が絡まないよう丁寧に逃がしてやろう、そう思って手を伸ばすと、俺の行動を察知したのか、蜘蛛がものすごい速さで俺の左手に上ってきた。

「うわっ」

 特別虫が苦手というわけでもないが、さすがにこの近い距離で蜘蛛を見るのは気持ちが悪い。反射的に蜘蛛を振り落とそうと左手を大きく振った。しかし、蜘蛛はなかなか振り落とされない。

「くそっ、どっかいけっ」

 半ば無意識に体を右にひねったのは、左の方に巣があったからだろう。蜘蛛を地面に振り払おうと右手で払ってみたが、今度はその手に蜘蛛が上ってくる。それを払おうと左手を出せば今度はそちらへ上ってくる。なかなか取れぬ蜘蛛に俺は大分焦った。蜘蛛が俺の顔をじっと睨みつけているような気がしてとても気持ち悪かったのだ。

「……っ、落ちろっ、落ちろっ」

 さっきよりも大きく手を振る。段々と体全体が動いていたらしい。カチャリ、カチャリという無機物の甲高い音をどこか遠くに聞いたかと思うと、突然ぐらりと体が傾いた。

「……っ!」

 そこからは一瞬だった。視界いっぱいに広がる青い空、背中に感じるやわらかい土の感触、左半身を中心とした鈍い痛み。どうやら脚立に乗ったまま暴れたために、脚立ごと倒れたらしい。蔵の入り口は少しだけ高くなっていて、蝶を助けるのにかなりギリギリの所に設置したから、落ちないように気をつけねばと思っていたのに、まさか本当に落ちるとは。だが、幸いにしてそこまで高い所ではなかったために傷もなく、むしろ落ちたことで頭が冷静になった。

「いたた……」

 体を起こし、ふと蜘蛛がどこに行ったか辺りを見遣る。だが、どこにもあの黒い影がない。俺が落ちる瞬間に手から離れたのだろうかと、倒れる前に脚立を置いた場所も見たが、そこにもいなかった。丁度手のひらくらいの大きさの蜘蛛である、そんな簡単に見失うとは思えない。

 消えたのは蜘蛛だけでなかった。あの蝶も巣と共に消えたのだった。脚立から落ちる瞬間、巣を巻き込んでしまった自覚はあった。その証拠に、途中でぷつりと切れてしまった細い細い糸が宙を漂っている。だが、自分の下にもその近くにも、蝶はおろか蜘蛛の巣すら見当たらなかった。

「どこにいったんだ……」

 ぽつり呟いた瞬間、左の手のひらで何かが動いた。とても軽い感触でほんの一瞬であったため、勘違いかとも思ったが、そっと手のひらを上にしてみる。

 するとそこには、俺が探していたあの蜘蛛が入り込んでいた(・・・・・・・)。手のひらにくっついていただとか、そういうことではない。刺青の如く、黒い影が俺の肌に居座っていたのだ。

「……っ、何だこれっ」

 突然現れ出たそれに、驚きながらも落とせないものかと、必死に服の袖で擦ってみる。だが、どれだけ擦ってみても肌が赤くなってしまうだけで、蜘蛛の影が消えることはなかった。俺はまじまじと自分の手のひらを見つめた。細長い手足には細かい毛までもが見える。少しでも手を動かせば、まるで蜘蛛が自ら動いているかのようで気持ちが悪かった。思わず手のひらの蜘蛛を握り潰した。もちろん、そんな感触はない。ただ普通に手を握り締めただけだ。

 だがその時、丸めた手の中でまたしても何かが蠢いた。僅かな隙間から腕に向かってすり抜ける感じ、皮膚の中を移動している感じ。俺は慌てて手を開いた。すると、蜘蛛の影が一歩二歩と歩いたのであった。

「……っ!」

 決して見間違いではない。俺が手を動かしたわけでもない。今、確かに、蜘蛛は自らの足で俺の肌を僅かながらも移動したのである。

 その時俺は確信した。口ではありえないとこぼしつつも、どこか冷静な心がこう判断したのだ。

――この蜘蛛は俺の手の中で生きているのだと。

 どう考えても現実的ではない、馬鹿げている、そんなことは分かっている。けれど、その結論に妙に納得している自分がいた。けれど、自覚した途端、手を切り落としたくなるほどの嫌悪感に襲われた。当然である。どうか想像してみてほしい。中々の大きさの蜘蛛が、ずっと手のひらにくっついているのだ。顔にも触れる、食べ物にも触れる、自分の生活に必要なもの全てに触れる、そんな場所に蜘蛛が。それだけではない、奴は俺の肌の上を這うのだ。あの針のような足がとすり、とすり、と移動した感覚が忘れられない。

 俺は自分の左手を睨みつけた。また蜘蛛が動いて歪んだように見えたが、それが蜘蛛自らによる動きなのか、俺が無意識に手をうごかしたからなのか、分からなくなった。ただ、どうして俺の体に蜘蛛が入り込んだのか、こいつはいつまで居座るのか、こんな目に合っているのは俺だけなのか、と尽きぬ疑問と漠然とした恐怖を感じていることだけは分かった。


***


「それで……、これが今の話の蜘蛛かい?」

「あぁ、そうだ」

 彼が袖をまくって差し出した左手には、確かに黒い蜘蛛の影があった。一瞬、刺青のようにも見えるが、それにしては細部まで忠実に再現されすぎているし、何よりその蜘蛛から生気を感じるのだ。言葉にするのが非常に難しいが、こんな非現実的な話を何の疑いもなく信じてしまう程に、彼の肌に住まう蜘蛛は、どこか惹きつけられるような不気味さと美しさを持ち合わせていた。そっと、蜘蛛のいる所に触れてみる。普通の肌を撫でている時の感触と何ら変わりはなかった。

「聞いていた話と蜘蛛の位置が違うように思うんだが、この一週間でまた移動したのか?」

 私は少し気になったことを聞いてみた。彼は話の中で、蜘蛛が手のひらから一、二歩移動したと言っていたが、今はそこから更に進んで、肘の内側近くにまで来ていた。

「……あぁ。或る時は夜中の寝ている時に、或る時は日中蔵の整理をしている時に。いつ、どれだけ移動するのか、特に法則はないようだ。だからこそ、俺はいつあの感触に苛まれるのかと気が気ではない。それに……」

「……それに?」

 彼はその先を躊躇った。じっと腕の蜘蛛を睨みつけている。そして、蜘蛛がいない方の腕で自分の左肩を強く掴んだ。

「こいつの目的が達成された時、俺はどうなるのか分からないのが一番怖いんだ」

「……目的?何だ、それ――」

 私が言い終わらないうちに、彼は着流しの上半身だけを(はだ)けた。突然顕わになる小麦色の肌。特に傷などがあるわけでもなく、至って健康的であるが、彼が掴んでいた左肩をよく見れば、鉛筆で書いたかのような線が幾らか見えた。ほんとうに今にも消えそうな程うっすらしていて、よく見つけたものだと少し自分自身に感心してしまう。だが、一体それが何なのかまでは分からない。不思議に思ってじっと見つめていると、私がそれを見つけたことに気がついた彼が、無言のままくるりと体を反対にした。つまりは、こちらに背を向けたのだ。

「……っ!」

 言葉を失った。目の前にある光景にも、彼の恐怖する所以が理解できたことにも。

 彼の左肩付近には、細い細い蜘蛛の巣と、それに捕らえられた青い蝶がいたのだ。左腕の蜘蛛のように肌へと入り込んでしまっている。蜘蛛も巣も色が黒かっただけに、鮮やかな青色というのは肌の色に非常に映える。羽の模様の一つ一つや体表の毛など、繊細な部分までも生き生きと見られるが、深い黒色の目だけは生の輝きがどうしても見られない。まるで標本のようだった。ぱっと見ればその鮮やかさに、蝶が生きながら額に収められている感じを受けるが、じぃっとよく見れば不可逆的な死が漂っている。ただ、蝶の打ちつけられた場所が誰の目にも触れる額の中ではなく、たった一人の男の背だっただけである。

 私は蝶にも触れてみた。蜘蛛同様、感触は人の肌である。蝶に触れた自分の指を見てみたが、やはり鱗粉もついていなかった。

「この蝶も動くのかい?」

 私が問えば、彼は静かに首を横に振った。

「いや、今のところ動いた感じはしていない。まぁ、自分の背中などそうそう見るわけでもないから断言は出来ないがな」

 聞けば、彼がこの蝶に気がついたのもつい二日前だという。蜘蛛の行く先に何があるのか気になって、ふと左肩を見れば、見覚えのない線が浮かび上がっている。慌てて鏡で確認してみて蝶を見つけたそうだ。

「おそらく蜘蛛はこの蝶を狙っているんだろうな。俺の中に入ろうが関係ない。こいつにとっては捕食の場所が変わっただけ。……それが俺を更なる恐怖に落とし入れたのだ。今まではどこか現実味のない漠然とした恐怖だった。だが、近いうちに行われるだろう捕食行為は、この世のどこでも行われる紛れもない現実的なものだ。自分の背で生きたものが生きたものを殺す。この背で一つの命が消える。俺はその死を一生背負わなければいけないのだろうか。……それに、食とは生の糧。生きるための行為だ。この蜘蛛はきっと蝶を食らってなお、生きる為に次の獲物を探すだろう。俺の肌を這いまわるのだろう。だが、こいつの餌となるものが他に、どこにあろうか。ついには俺自身に牙をたてるのではないかと気が気ではない。やつが這っているのを俺は確かに感じられるのに、俺はやつを止めることも握り潰すこともできない。俺は何も出来ないのだ」

「この先、何が起こるかは分からない。けれど、その何かが起こった時に、誰にも知られず一人で抱えていくことはとても無理だと思った。だから君を呼んだ。可能ならば、俺とこの怪奇を共有してほしい。俺の身に起きている事をどうか見届けてほしい。……君、引き受けてくれるかね?」

 彼は私をじっと見つめた。

 私の中で答えは既に出ていた。不謹慎かもしれないが、私は彼の中にいる蜘蛛と蝶にひどく惹きつけられていたのだ。特にあの青い蝶。微動だにせず、だが鮮やかさを失わず、蜘蛛の巣に捕らわれてなお己を失わぬ姿には、何か感じるものがあった。嵐の前の静けさとでも言うべきか、皆から優等生と呼ばれるような子供が、ある日突然殺人を犯した時のような異様な狂気とでも言うべきか。この蝶はただ蜘蛛に食われるのを待つ定めのはずがない、私は謎の期待を寄せていたのである。

 だが、それもこれも、壮大なる自然の摂理が、彼の――たった一人の男の小さな体で為されているということが前提としてあるのだった。考えてみてほしい。その道の者でない限り、蜘蛛の捕食行為など見ることがあるだろうか、蝶の目や毛などをまじまじと観察するだろうか。彼らにとっては行っていることなどいつもと変わらない。けれど、そこへ普段ならばまず干渉しないであろう要因が加わるだけで、普通は普通でなくなるのだ。いつもは見過ごすであろうものを過剰に観察し、いつもならば先の見える行為もまったく予想のつかぬものとなる。人間の介入というものが思わぬ形でなされた今、私の心は好奇に満ちていた。

「あぁ、勿論。しかとこの目で見届けよう。何、私と君の仲じゃないか。何かあればまた呼んでくれ」

 それから私は彼と他愛のない話をしてから帰路についた。またすぐに訪ねよう、という言葉を残して。彼もまた、来た時よりかはいくらか晴れやかな顔をしてそれを許してくれた。


***


 こうして私は暇さえあれば彼の家へ出向くようになった。在宅の仕事をしている私にとっては、彼の家に向かえない日などなかったのだが、さすがに毎日というのは迷惑だろうと考えたために、頻度としては三日に一度くらいだ。その度に彼は快く出迎えてくれ、二人で腕の中の蜘蛛を観察した。毎度、蜘蛛の位置が少しずつ変わっているのを見て、私は何とも言い難い気持ちになった。確かにこの蜘蛛は生きているのだ。一度でいいから動いているところが見てみたいと思うのは、もはや当然の流れであった。

 そして或る雨の日。その日も私は彼の家を訪れていた。いつものように観察を終え、何事もなかったことに心内で落胆しつつも帰ろうとしていた時、いきなり雨足が強くなったのだ。すぐに止むだろうから少しゆっくりしていくといい、と言ってくれた彼の言葉に甘え、私は縁側からふと庭へ目を向けた。強い雨のせいで、生き物の姿は見えるどころか気配すら感じられない。けれど、必ずどこかで生と死の攻防は起こっているのだろう。私は最近、物事に対する見方が変わったことを自覚していた。

――と、しみじみ思っていたら、向こうから彼が私の名を呼んでいた。

「すまないっ、ちょっと来てくれ!蜘蛛がっ!」

 その言葉に私はすぐ彼のいる台所へと向かった。彼は左肩を押さえながら、顔を顰めていた。

「どうした、大丈夫か。痛むのか」

「……いや、痛みはない。だが、この肌が勝手に蠢くような不快感は……。すまない、君、ちょっと見てくれやしないか。やつが移動しているかどうかを」

「……っ」

初めて見た時よりも大分進んだ蜘蛛は、二の腕の外側まで行き、彼一人では見づらい場所にまできていた。だから私を呼んだのだろう。そこに他意はない。けれど、私は思いがけない好機に内心喜んだ。もちろん、それを表情に出すことは彼に失礼だったため必死に我慢した。

彼がするりと着流しから腕を抜く。差し出した腕はあの日と変わらぬ健康的な肌の色をしていた。しかし、もう肘の近くになど蜘蛛はいない。すっと視線を上へ流すと、果たしてやつはそこにいた。あの細長い手足をゆっくりゆっくり動かしながら、まるで沼の中を進んでいくように自らの巣へと近づいているのだ。

「あぁ、いたぞ……。蜘蛛は動いている。生きている」

 彼に向って言ったのか、自分に言い聞かせていたのか、もはや分からない。否、そんなことはどうでもいいのだ。ただ、蜘蛛が生きている証をこの目で見られたのが何より嬉しかった。

 肌の中の蜘蛛には、自然の中にいる蜘蛛のような俊敏さはない。ただ筋肉が収縮しているのに合わせて、蜘蛛の絵が動いているだけのようにも見える。音だって全くしない。それでも、そこに触れてみれば、皮膚の下になにか埋まっているかのように動きが感じられるのだ。確かに蜘蛛は自分の意思で動いているのだ。

「あぁ、ついに自分の巣へと足をかけたよ」

「……そうか」

「蝶は相変わらず動いていないね」

「……あぁ」


「これからどうなるんだろう」

「……どうなるんだろうな」




 それから、また三日が経った。私はいつものように彼の家へと向かった。そろそろ蜘蛛と蝶の攻防にも決着がつく頃であろう。結果にも、その先に起こることにも、私は多大なる興味を抱いていた。

「失礼するよ。調子はどうだい」

 相変わらず鍵のかかっていない玄関扉を開けて、私は大きな声で呼びかける。普段ならばどこからか彼が顔を出してくれるのだが……妙なことに今日は家の中がひどく静まり返っている。不安に思った私は小さな声で謝りつつも、勝手に家の中へと入っていった。今更気にするような仲でもない。彼のいそうな場所はどこか、考えながら廊下を進んでいた時だった。

「……っ、蝶?」

 居間の方から、ひらひらと青い蝶が飛んできた。木から葉が舞い落ちるように、洋服のフリルが揺れるように、優雅に飛んでいた。そして、蝶が私の横を通った時には、世界が突然ゆっくりになった気がした。おかげで私は見えたのだ。蝶の羽の模様の一つ一つまで。

――そうだ、彼の背にいた蝶だ。あの鮮やかな青色も、細かい装飾も、全て彼の肌の上で見たものであった。見間違いではない。私は何度もあれを見ていたのだ。間違えるはずがない。

 では、一体何故。わたしは振り返って、再度あの蝶を見た。背にいた時には、その生死さえ分からぬ程動かなかったというのに、今は懸命にその羽を動かし生きている。そう、生きているのだ。ゆっくりと、だが確実に迫りくる蜘蛛に対し、ずっと逃げる機会をうかがっていたとでもいうのだろうか。今の蝶は生の輝きに満ちていた。

 だが、一つだけ違和感があることに気がついた。蝶の羽の端の方、綺麗な青色を汚すように黒い点々が浮かび上がっていた。あんな模様あったであろうか、否、そんなものはなかった。あれは何なのか、じっくり目をこらしてみると、点々はただの黒色ではなく、どちらかといえば赤黒いことが分かった。そう、まるで乾いた血のような―――

「……っ!」

 私は慌てて蝶の出てきた居間へ向かった。蝶と蜘蛛の宿主である彼の姿を求めて。浮かんでしまった最悪の光景を想像しながら。


「おいっ、大丈夫かっ!」

――私の思い浮かべていた光景がそこに広がっていた。うつ伏せに倒れる彼、その左肩からは血が流れていて乾き始めている。近づいて傷口を見れば、何かが皮膚を突き破って体内から出たような痕跡があった。そこから窺えるのはまさしく骨と肉で構成された人間の体だ。とても何かが住んでいたようには見えない。けれど、蜘蛛の巣はまだそこに残っていた。蝶の姿はやはり見られない。獲物を取り逃がした巣は心なしか緩んで見えた。

 血に濡れて見にくかったが、蝶が逃げ出したのであろう傷口のすぐ近くにあの蜘蛛がいた。死肉の上の生き物というのは何とも違和感の拭えぬものだ。残念だったな、と私は小さく呟いた。宿主が死んだ場合やつはどうなるのであろうか。共に死ぬか、蝶のように彼の体を出ていくか。どちらにせよ、もうこれでお別れである。


 こうして、人間の介入した捕食者・被食者の三角関係は、思わぬ形で終止符が打たれた。あの青い蝶は今頃、小さな背中ではなく広い空の下を何事もなかったかのように飛び回っているだろう。蜘蛛がその後どうなったかは知らない。私が最後に見たのは、どこか悔しそうに地を引っ掻き体を縮こめる姿であった。


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