隣 人
春彼岸の今朝、冷え込んで粉雪が舞った。一転して、世界が澄みわたったような午後。冷気の皮膜を次から次へと自ら破る勢いで、一心に駆けてゆく少年がいた。赤い自転車にまたがって、赤いシャツ一枚だ。五歳くらいだろうか。背中を見送りながら思った。子供は、世界中どこでも同じだ。そして時代さえ超越している。「少年」を脱皮するまで、子供に皮膚の色も言葉の違いもない。ただ、青年の顔をまとう頃、一つだった少年を、さまざまな大人へと変質させてゆく。
最近、通勤電車の風景が変った。朝の混雑具合が一層ひどい。車内の奥深く分け入ってみると、原因はひと目だ。アジアからの観光客が始発ターミナルから座席を陣取って、足もとにそれぞれ大きなキャリーバッグと、ときに重い土産物の手提げを置いているからだ。これでは車内に、日本のサラリーマンの座る場所どころか、居場所がないのも当然だ。
そんな中で最近、身体をよじらせて吊り革につかまる術を身につけつつ、前に立つ青年が満員電車の中でも脇目をはばからない集中力を持って、行じているスマートフォンの画面を目にする機会があった。自分の世界に徹していた中味は、目がチカチカするようなゲームだった。文字はアジアの国のものだ。幾駅かを通過して、青年は初めて口を開いた。彼は、ひとりではなかったのだ。青年の前に座る初老の男女は、青年と話す様子から彼の両親のようであった。座る足もとには三人分の大きなキャリーバッグが置かれていた。車内に立ちつくす大勢の乗客をいったん車外に押しやって、次の駅で三人はおもむろに去って行った。
これは、現代の世界の一律な風景であろう。覇気も精気もない青年たちが繁殖している。物を言わぬ口を持つ親たちも、手にはスマートフォンが必需品という共同正犯だ。足もとのわが国をふくめ、世界の青年たちの顔から、あの自転車の少年のような輝きがどんどん失われてゆく。こんな光景を見るにつけ、世界中の言語から、ある言葉が消えてゆくのではないかと強く危惧する。それも、AI技術に益々浸しょくされて、間もない未来に。
その言葉は、隣人という。