第五話 どうして思いのままにならないの? と言うのなら。
『雨守先生、すみません。私がついていながら。』
保健室。
るみちゃんをここまで抱きかかえ、ベッドに寝かせると、るみちゃんを挟むように雨守先生は私の反対側の椅子に腰かけていた。
養護の先生は今はいらっしゃらないようで、ここには雨守先生と私だけ。
るみちゃんが奥原さんの手を振り払ったのは、きっと心に引っかかっていたわだかまりが、何かのきっかけで弾けてしまったのだと思う。それはきっと、気づいていても止めようがなかったと思うけれど。私だって、雨守先生を前にして、どんな顔をしていいかわからなくなっていた。
雨守先生は穏やかな目を、ベッドに眠るるみちゃんに向けていた。
「守護霊と言えど、本来ほとんど付き添っているだけから無理もない。
まあ、奥原を守っている子は、例外中の例外だけどな。」
『奥原さんを? それも、守護霊ですか?』
「ああ。奥原がカッターで怪我をする寸前、あれを払いのけたのがその子だ。」
その子って……まるで小さな子のような感じだわ? でも、そんな子が……。
『幽霊なのに、物を動かせるだなんて。
では、奥原さんを傷つけようとしたるみちゃんに刃を?』
「刃が跳ね返ったのは偶然だ。
かわいそうに、あの子もびっくりしていたよ。
こんなことになるなんて思ってもいなかっただろうからな。
かえって心配させてしまった。」
そう言いながら雨守先生は、無造作にガムテープというものを貼って血を止めていたご自身の手に目を落とした。
かわいそうにって……雨守先生は、私の知らない奥原さんの守護霊にまで気遣っていらっしゃる。
でも、すっと顔を上げられた時、私に向けられた雨守先生の目は鋭かった。
「深田さん。
なにをそんなふうに穿った捉え方をしてるんだ?
まるで浅野が奥原と敵対しているとでもいうように。」
それは……。
雨守先生は首を傾げ、上目遣いに私を覗き込む。
「なにか、あったのか?
浅野、今日はやけに奥原につっかかっていたが。」
そんなこと……私の口から言えるわけがありません。
『わ、わかりません。
女の子なら、よくあることじゃないかと。』
「よくあること……ね。」
上ずった声で答えてしまったからかしら? 雨守先生は、まだ納得されてはいらっしゃらないご様子。
ここは話を逸らさなければと、一番気になっていたことを切り出した。
『あの、それより雨守先生。
今日、私達が来た時、誰と……どんな幽霊と話していたんですか?』
「そうか、君には気付かれていたんだ。」
雨守先生は隠すでもなく、なんでもないことのようにお答えになる。
「この学校で『噂』になってる女子生徒の幽霊と話していたんだよ。
もっとも根も葉もない『噂』で、真実になんて少しもかすっていやしないが。」
やっぱり女!
奥歯を思わず噛みしめてしまう。でも顔には出さずに、雨守先生にとってどんな相手なのか聞きださなくては。
『あまりにも親しそうにお話しされていたものですから。どうしてかなぁ、と。』
「ここに赴任した日、そう、深田さんより四日前に会っているからね。
俺はあの子の声に呼ばれて、この学校に来たと思っている。」
やはり私より先に! でも、呼ばれたって?
『その子が雨守先生のことを、知っていたとおっしゃるのですか?』
「いや。そういうわけじゃない。
俺はこの世に恨みや悔いを残して死んだ幽霊の声が聞こえるんだ。
まあ、実際には幽霊達は、しゃべってるわけではないんだけれどね。
代わりに俺は恨みを晴らして方々を回って来ている。」
それはつまり、今までも何人もの幽霊と……。
じゃあ、あの美術教室の幽霊が、雨守先生にとって特別な存在というわけではないのよね?
その人だって私と同じ、大勢の中の一人のはず。
なんだか急にほっとしてしまった。
『では雨守先生、私は?』
「守護霊は大抵、不幸な亡くなり方をしている。
誰かの人生を守り終えた時、別の人間に生まれかわる。
転生の優先権、とでもいうのかな。」
『いえ、その守護霊についてではなくてですね。』
「だから君の話をしているんだ。」
再び私の心を探るかのような鋭い視線が私に向けられた!
雨守先生の声が低く、響く。
「通常守護霊は守る人間に意識が向いているから自分の心なんて表しはしない。
昨日は俺から話かけたから、君は自分のことを話してくれた。
だが、今日の君は浅野への注意が疎かで、心ここにあらずという感じだ。
昨日何があったのかと、俺はさっき君自身のことを聞いたんだがな?
それで浅野の態度も変だったはずなんだが。」
そんな!
話を逸らせたはずだったのに、戻されてしまった!!
でも、そこまで見抜かれていらっしゃるんでしたら、私の気持ちにお気づきになられていてもいいのでは?
言葉にしていないから?
……もしかして雨守先生、失礼とは存じますが、鈍ぅございますの?
なぜか急に可笑しくなって顔がほころんでしまった。
だって雨守先生は今、普通の守護霊にはありえないという顔で、私だけを見つめてくださっている!
私にだけ、話をしてくださっている!!
「う、うううん。」
その時、るみちゃんが微かに呻いた。
「お? 気がついたようだな。」
ああ、なんてこと!
るみちゃんの意識が戻ってしまった。
私のささやかな幸せな時間は、あっという間に終わってしまった。もっと寝ていてくれてもよかったのに……。
その時、それまで考えもしなかった衝動が、私を揺さぶり始めていた。
そう、そうだわ……。
るみちゃんから離れることができないのなら、いっそ、るみちゃんの意識さえなけば……。