第十五話 『生死の狭間で』
ーー辺りが赤く染まっていた。
夕暮れにしては鮮明で、日の出にしては濃すぎる。
それになぜだか、体が怠い。
いつも腰に掛かる剣の重みも消え失せ、雲に包み込まれた感覚に陥ってるみたいだ。
そういえば、自分は何をしていたんだ? 愛する娘と一緒にピクニックに行って、服を買いに行った気がする。
ーー何の服を買ったっけ?
「……おさん……お父さん!!」
激しい耳鳴りの奥から、微かに聞き覚えのある声がした。
「……うぅ……ぁあ……」
キャレットは固くなった首を動かし、その声を辿る。少しずつ映り出される視界には、べったりとへばり付いた血液が壁にあった。
誰の血だろうか。ここらへんで喧嘩でもあったのだろうか。
キャレットは確認する為に、手を伸ばした。
「……ぁぁ……あ……」
だが、なぜかその壁に届かない。壁はすぐ目の前にあるというのに、指で触れる事が出来ない。
ところで壁の下にある黒い物体はなんだろうか。見覚えがあるのだが、初めて見る気がする。その物体からは赤い液体が流れており、どこか生臭い。
「……もう嫌だ……誰か……助けて……」
ルナがまた泣いている。また誰かに虐められたのか? お前は人懐っこいが、正義感が強すぎて一部の子供からは偽善者扱いされてたな。
だったら気にする必要はない。偽善だと言われようが、自分が正しいと思ったことをやればいいんだ。
自分は、いつでもお前のーー
「こいつ、何で死なないんだ??」
キャレットのささやかな独り言を打ち消すように、リゼルフが彼の首を掴んだ。
キャレットは己が宙に浮いてることすら気付かず、リゼルフの力に任せ、壁に激突した。
「……うぅ……」
キャレットは先程の黒い物体と接触し、次第に回復しつつある視界で正体を確認する。
「……あ……あ……」
黒い物体は長く、質の良い革で包まれていた。先端からは液体が流れ、一部からは白い何かが顔を覗かせている。
「ぁぁ……ぁぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁ……」
そうだ、これが何かを自分は知っている。知らない訳がない。見慣れすぎて改めて見ると初めて見たかのような感覚に陥っただけだ。
「ーーこいつ、体がバラバラなのによく生きてるな」
しかしそれは当然だ、自分の足など下から見たことないのだから。
この黒い物体は自分のお気に入りの靴だ。そこから無残にも肉片を生やしている。
「……ぁぁ」
キャレットは周りを出来る限り見渡した。そこらに散らばった肉や血は己から千切れたものだ。
どうりで壁に手が届かない訳だ。あんな遠くに自分の腕があっては、何も出来やしない。
どうやら自分はリゼルフに四肢もろとも食い千切られ、大量の血を流したらしい。
「まあ、いっか。気も済んだ事だし、寛大なぼくちゃんは本題に入るとするよ」
リゼルフは血まみれの彼の首を強引に傾け、口に溜まった血液を壁に吐き捨てた。
「それじゃ改めて聞くよ。ぼくちゃんの餌を奪ったのは君??」
「……がふっ!」
キャレットは血を吹き出し、リゼルフの贅肉に付着させた。
「……まあいいや。これじゃ話なんて出来ないだろうし、君に聞く必要はない」
リゼルフはキャレットを投げ捨て、汚れを拭うことなく別の方へと体を向ける。
足を踏み込む度にぬちゃりと響く生々しい音だけが、キャレットの意識を保った。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
ひたすら怯えながら謝るルナの声が聞こえた。
「何で謝るの? ねえ、まさか君がぼくちゃんの」
「ごめんなさい!! ごめんなさい!! ごめんなさい!!」
今度はルナがやられる。あの子だけは、痛い目に合わせるわけにいかない。
「……うっ」
キャレットにもはや意識と呼べるものはなかった。それでも本能に従うように声を絞り出し、ルナを守ることだけに集中した。
「……その子は……殺して……ない」
「ん?」
リゼルフは足を止め、再びこちらの元へと踏み込んできた。
キャレットは地面に顔を密着させながら、弱々しい声で
「その子は…….関係……ない……」
「関係ないってことは、誰が奪ったか知ってるてことだね? そうなんだね?」
「……知って……る……」
リゼルフは憎たらしい笑顔を浮かべた。食いつくようにキャレットへ迫り、鼻息荒げながら追求を繰り返す。
「それは誰なんだい? 君なのかい? そうなのかい?」
「……奪ったのは……お……」
キャレットは自分が犯人だと言おうとした瞬間に、ふと脳裏に思い浮かんだことがあった。
仮に自分が奪ったと言って、殺されたらルナはどうなる? 生きて帰れるのか? 生きて帰ったとしても、これから一人で生きていけるのか?
今のルナの心には深く大きな傷が付いてしまった。きっと自分の中では神の落とし子として生まれた自分を恨んでいるはずだ。
そんな子が、人にこれから頼って生きていけるのか?
ーー無理だ。
ルナは優しい子だ。人の為なら代わりに自分が傷ついていいと思える子だ。思って、しまう子だ。
そんな子にこんな試練を与えて一人で乗り越えられるはずがない。自分がいないと駄目だ。ここで自分は死ぬわけにはいかない。
生きてルナを支えてあげなければならない。そこまでしなければ、父としての義務は果たされない。
「ん? 誰だって?」
「……」
しかし、どうすれば守れる。今の自分は文字通り無力だ。どんなに足掻いても、血反吐を垂れ流すことしか出来ない。
「早く答えなよ。ぼくちゃんは待たされるのが一番嫌いなんだ」
「……」
誰か、誰でもいい。他に犯人を見たと嘘を付いてくれ。自分達を救ってくれ。
「……あ……あ……」
「あ?」
キャレットは心から願った。願うことしか出来なかった。無き手を合わせることも不可能な今、相手が殺人鬼でも頭を下げるつもりだ。
「ねえ、誰なの? 早く教えてよ。やっぱり君なのかい? それとも、そこで怯えてる女の子なのかい?」
「……」
キャレットはリゼルフの背後に映る唯一の逃げ道に視点を定める。希望の光は差し込むも、人影が横切るだけで自分らを救ってくれそうな人は現れない。
彼の視線の先に気付いたリゼルフは
「まさか助けが来ると思ってるの?」
「……」
「残念なお知らせだけど来ないよ。来ない来ない。あの曲がり角には唾液を塗った。だから来ないよ」
唾液を塗ればなぜ人が来ないのかという疑問すらも今のキャレットには浮かばなかった。それでも、ひたすら助けを求め、稀に単語を発した。
「……なんか君飽きたな。さっきまでの威勢が嘘のようだし。まあ、ぼくちゃんに楯突いた時点で死ぬのは決定してたわけだから仕方ないよね。まだ死んでないけど」
リゼルフは頭を掻くと同時に欠伸を披露し、三重の肉顎で首を覆い尽くした。
「わ……私が……」
その時背後から震えるルナの声が聞こえ、二人は彼女に視点を置いた。
「ん? なんだって?」
「じ……実は……私が……」
キャレットはすぐに彼女の言わんとしてる事が分かった。震える手を押し殺し、今にでも千切れそうな声を無理に出している。
「キャハハ!! 死んじゃう!! 死んじゃう!! 死んじゃうよぉ!! あんなに小さい体なら一捻りで死んじゃうよぉ!!」
隅にある木箱の上で少女は腹を抱え、陽気な表情を浮かべていた。
飛び交う声に耳を打たれたキャレットは、肌で地面の血を拭いながら方向を転換させる。
「……」
もはや、声すらも出ない。迫り来る絶望に震えることも出来ない。これは夢なのではないかと思える程に意識は遠くなり、視界が白に包まれていく。
「……ぁ……ぁ……」
リゼルフはルナの前に差し掛かり、細い目を下に向けた。
「ぼくちゃんの餌を奪ったのは、君かい?」
ルナはその巨体を見上げ、口元をパクパクさせる。
「……もう一度聞くよ。餌を奪ったのは、君かい?」
「……その……あの……」
ルナは首を縦に振ることが出来ないでいた。見上げた際に首元が石と化したように硬直し、何かを言おうとしているが言語を失っている。
リゼルフは溜め息を突くと、呆れ顔を浮かべ
「これで最後だよ。ぼくちゃんの餌を奪ったのはーー」
リゼルフが言い切ろうとした際に、奥から物音が響いた。
「おっと、ぼくちゃんとしたことが誰かの家で行き止まりを作ったみたいだ」
壁の横にある扉は開き、下の隙間から何者かの足元が見える。
足は順調に前へと進み、中から正体を現した女性は一言
「んー。よく寝たわ。今頃ザンミアも勉強中でしょうし、そろそろ家事やらないとね」
女性は伸びをしながら瞼を強く瞑り、ツヤのある黒髪を靡かせている。
辺りは静まり返り、白眼の少女さえも歪めた口元を硬直させていた。
「……あ……り……す……?」
キャレットの呟く先に顔を向けた女性は驚愕の表情を浮かべ、口を手で覆った。
「キャレット……さんなの……? 嘘……どうしてこんな……」
混乱の渦に溺れる彼女に説明をしてやりたいが、それが不可能な事と時間がないのは分かっていた。
血液が巡るコンクリートに目を置いた彼女の瞳は赤く、背後から微かに差し込む光によって光沢を帯びている。
「もしかして知り合いなの? そうなら、君にも聞くしかないね」
リゼルフは顔をアリスに向け、重たげな足を運び出す。
キャレットはそれを止めようと顔で地面を這うが、自分が撒き散らした血によって前へと進めない。
「……に……げ……」
掠れた声に反応したアリスはキャレットの震える瞳を見つめていた。
しかし、リゼルフはその視線を己の巨体で覆いつくし、彼女に向かって
「君に質問がある。ぼくちゃんの餌を奪ったのは、君かい?」
「餌……ですか?」
「うん」
そういえば彼女にも子供がいたはずだ。しかも自分と違って血の繋がった本当の子供。
「……助けて……助けて……」
壁の隅で啜り泣くルナの存在に気付いたアリスは、目元を細め黙り込む。
「無視しないでよ。君はぼくちゃんのーー」
「これ、あなたがやったの?」
「ん?」
アリスの声はどこか冷たく、静かだ。
「ああ、これね。そうだよ。だってあの男がぼくちゃんに刃向かったんだもん。仕方ないよ」
「そう……あなたが……」
アリスはリゼルフの横を歩き、キャレットの元へと歩みを進め始めた。
後ろから飛び交うリゼルフの声にも反応を示さず、キャレットの顔を手で包んだアリスは
「キャレットさん。あなた凄いわ。こんなになってまで子供を守るなんて。私には出来ない……」
「……あ……り……す」
「でももう大丈夫よ。大丈夫……大丈夫」
キャレットには彼女の言っている事が理解出来ないでいた。しかし、考える隙も与えないようにアリスはその場から腰を上げリゼルフの元へと向かった。
「ねえ、あなた名前は?」
唐突な質問であったが、リゼルフは動揺を見せる事なく
「リゼルフだよ」
「そう、リゼルフさん。私はアリス。アリス・コールネクトス。よろしくね」
「え……あ、うん」
「ところでリゼルフさん」
「なんだい?」
キャレットは体全身が冷たく感じた。しかし、それは出血によって体温が下がったのではない。まるで、氷に傷口を食われている感覚に近いのだ。
「親の気持ちって、考えたことある?」
「親? あんなうるさいのとっくの昔に殺したよ。というより、ぼくちゃんの質問にーー」
「可哀想ね」
キャレットは先程まで赤く鮮明だった地面が微かに白くなっていくのに気付いた。壁には所々に氷塊が現れ、そこから冷気を放っている。
「可哀想? あんなクズ親可哀想でもなんでもないよ」
「違うわ。可哀想なのはあなたよ」
「ぼくちゃんが? ふふ、ぼくちゃんは自分が可哀想だと思ったことは一度もないよ」
「いいえ、あなたは哀れな人よ。親の優しさに触れずに気付かずに育ったあなたはこの世で一番不幸だわ」
「……何が言いたい……」
「何も与えられず育った人間は、奪うことでしか自分を満たす事が出来なくなる。ということよ」
するとアリスはルナに顔を向け、優しい口調で話しかけた。
「ルナちゃん。あなたは幸せ者よ。こんな立派なお父さんに育てて貰った。胸を張りなさい」
「……おば……さん……?」
「辛くて、悲しくて、切なくて、泣きたい時は今みたいに多いに泣きなさい。私の息子なんて今まで一度も泣いてくれなかったのよ? なんだか羨ましいわ」
「……うん」
「でもね、泣いた後は前を向いて歩きなさい。涙は心の中にある弱い自分を洗い流す為にあるの。だから、泣き止んだら笑って前を向いて歩きなさい」
「……はい」
「良い子ね。素直な子を持って、キャレットさんも幸せ者だわ」
口元を緩ませ笑顔を見せたアリスは、その後そっと瞼を閉じた。
「なんなんだ君は。さっきから話をあっちこっち逸らしてさ。ぼくちゃんを馬鹿にしてるのかい?」
「さっきの質問、答えてあげるわ」
「何……」
「あなたの餌を奪ったのが誰か、教えてあげる」
キャレットは彼女の不意な発言に驚き、凍りつく口角を微動させる。
「あなたの餌を奪ったのはーー私よ」
駄目だ。自分を犠牲にしてルナと自分を守ろうとしている。止めなければなければならない。止めなければ、彼女と彼女の子供が報われない。
立場は一緒なのだ。自分がルナを守りたいのと同じように、彼女も子供置いて死にたくないはずなのだ。だからこんな残酷な事させられるはずがない。そんなことをしては、自分が罪を一生背負うことになる。
「ふーん。君が……ねえ、本当なの?」
不幸中の幸いか、リゼルフはキャレットに向かって真偽を訪ねた。
「……」
ここで否定すれば、とりあえず彼女の身は保証される。ここで、首を横に振らねば自分が償い切れない罪を背負うことになる。
キャレットはすぐさま否定しようと首を動かそうとしたが
「……!!」
なせが首が横に動かない。凍りついて横に動かす事が出来ないのだ。
気付けば辺りは氷に覆われ、アリスの魔法に包まれていた。
「ねえ、どうなのさ」
キャレットは彼女の方を見ると、そこにはどこか寂しげな表情で首を横に振る姿があった。
「……あ……」
そうか、彼女は自分に首を横に振らせない為に辺りを凍りつかせたのか。過去に氷の魔女と呼ばれた事だけあって、器用に魔法を使う。
キャレットの中で葛藤が生まれるが、己が成すべき事は一つしかなかった。
「……」
キャレットは微かに首を縦に振り、彼女の発言を真実と認めた。
「そっか、君が……それは……お仕置きが必要だな」
キャレットの中にある重い鎖が外れる音がした。それと同時に、胸から込み上がる悲しみと罪悪感が押し寄せてくる。
アリスはキャレットに笑顔を向け、声を発さない程度の量で
「……ぅ」
確かにキャレットだけには伝わった。彼女の優しすぎる感謝の言葉は、心臓に突き刺さった。
「まあ、安心していいよ。ぼくちゃんも疲れたから君は痛みなく、すぐに殺してあげるよ」
アリスはリゼルフに視点を傾け、誇らしげな表情を浮かべながら
「あら、お気遣いありがとう」
「そうだな、君の中にある生命力をぱくりと食べようかな。ふふっ、久々の贅沢食いだ」
「それなら確かに痛くなさそうね」
「でしょ?」
「あ、そうそう。最後に一つ言いたい事あるんだけど、いいかしら?」
「言いたい事? まあ……いいけど」
「こんなに人の命や肉を散らかして、質問ばかりして、あなたのやり方ってーー」
アリスは純粋な眼差しを翳した後、満面の笑みを向けながら
「センス、ないわねっ」
彼女の最後の言葉を聞いた瞬間にキャレットの視界は黒に化し、しばらく意識を失った。




