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さよならのラブレター

作者: 夏希

「お願い。優美、一生のお願い」

「できないよ、そんなこと、いくら、愛の頼みでも……」


 私は愛を見つめた。

 愛は泣きそうな顔で私を見つめている。


 なんて素敵な瞳だろう! 

 かわいすぎるよ、愛、と私は心の中で言った。


 愛は、時々、憎らしくなるくらいかわいい。

 さらさらヘアーに、つけまつげかと思うくらい長いまつげ。まっすぐな瞳で見つめられると、女の私でもどきっとする。

 顔もかわいいが、性格もかわいい。誰にでも優しくて親切なのに、とっても控えめで、他人の喜びを自分のことのように喜んでくれる。だから、一緒にいるだけでほかほかする。

 ちょっぴりうらやましい、ちょっとねたましい、大いに自慢の、大好きな私の親友だ。


 昼休み、工作室に一緒に来てほしいと言われてついてきた。長い廊下を通って、4階の隅の部屋だ。何かどきどきしながらドアを開けると、ほこりのついた窓から、冬の乾いた日差しが、古びたテーブルにさしている。愛は私をその窓のそばに連れて行くと両手をとって私をじっと見つめる。

「優美にお願いがあるんだ。こんなこと優美にしか頼めない」

そういうとポケットから一通の手紙を取り出した。

「この手紙を私の代わりに甲斐君に渡してくれない? そして……」

 少し苦しそうに言葉を切る。ほおが赤い。

 沈黙が流れた。

「甲斐……くんに?」

 

「もう実は、甲斐君に連絡してるんだ。今日の四時にこの工作室に来てって……来てくれると思う。だから、この手紙、渡してくれるだけでいいんだ。『私からだ』って言って。そして、返事を聞いてきてくれればいいだけ。……どうせ、甲斐君、私のことなんか相手にしてくれないってわかってる。でも、あとひと月で、もう会えなくなっちゃうって思って……卒業前に、一度だけ、この気持ちを伝えたいんだ。それで、諦められるから」

 私は、愛の顔と、手に持った手紙を交互に見た。

「知らなかった。愛は、甲斐くんが好きだったのね」

 愛は私を、一瞬、まぶしそうに見つめると、うつむいて小さくうなずいた。

 そうだったのかと思った。と同時に、実はずっと知っていたような不思議な気もした。

 私は、一瞬、眼を閉じると、息を大きく吸い込んで愛の手を取った。

「ねえ、よく聞いて。私は愛が大好き、ずっと友達でいたいって思っている。だから、愛の頼みならどんなことでも聞いてあげたいよ。ほんとだよ。だけど、だからこそ言うんだけど、それって、自分で行かなくちゃダメだよ。気持ち伝わらないよ」

 愛の表情が曇った。私は愛の両腕をつかまえて、顔をのぞきこむようにして続けた。

「愛は、めちゃくちゃかわいいし、甲斐君は、今のところ、彼女いないみたいだし、自信を持っていけば大丈夫だよ」

「だめ……だめなの……、……優美が正しいこと……自分が行くべきだって、わかってる。わかってるけど……でも、どうしても、その勇気がないの……」

 愛は、泣き出すのをこらえるかのように少し黙った。それから、かすれたような声で言った。

「苦しくて、どうしようもなくて……でも、優美なら……優美なら、きっと、私の気持ち、わかってくれると思って……お願い、お願いだから」

 愛は両手で手紙を持ったまま、私を見つめた。

 なんてきれいな瞳だろう、と私はもう一度思った。

「愛がそこまで言うなら、渡してもいいけど……」

 私は愛の腕から手を離すと、そのかわいらしい水色の封筒をとりあえず手にとった。

「そのかわり、少し聞いていい? 私、愛が、甲斐君を好きだなんて思わなかった。だって、どちらかというと、いつもそっけなくして、避けてなかった? 甲斐君て確かにイケメンだし、女の子には人気あるけど、なんかお高くとまっている……とまでは言わないけど、とっつきにくい感じしない? 私、愛はどちらかというと苦手にしてるのかと思ってた。実際は、逆だったのね。愛は、甲斐くんのどこが好きなの?」

 愛は、恥ずかしそうに顔を真っ赤にした。

「実をいうとね。甲斐くんとはね。昔からの知り合いなの。変な話だけど、将来を誓った仲なんだ」

「ちょ、ちょっと待って、どういうこと?」

 愛はいたずらっぽく笑った。

「甲斐君は、私の婚約者なの」




 四時になると、工作室に差し込む光は夕方の色をしていた。

 甲斐が入ってきた。

 いつものように、少し勘違いしたようなアイドル風の髪形をしている。ただ、本当にアイドルにしてもいいくらいの整った顔をしているので、正直言って「かっこいい」と思わざるを得ない。スポーツもできて、成績も優秀だし、誰に対しても親切なので、女の子の間ではすごい人気である。特に、後輩たちはすれ違うだけで興奮している。

 ただ、まじめで誠実ではあるのけれど、明るくはない。冗談を言ったり、ふざけたりする姿をあまり見たことがない。同級生としては、これまでは何となくうちとけない感じがしていた。私も何度か、数学を教えてもらったりしたこともあるのだが、そして、とても丁寧にわかりやすく教えてくれるのだが、そういう会話以上の話をすることは、ほとんどなかった。


 私が部屋にいるのを見ると、少しはにかむように頭を下げた。

「こんにちは」

 それからあたりを見回した。

「ひとりですか?」

「ひとりよ」

 私は少し強い口調で言った。

「私は愛の大親友として、愛の代わりにあなたを待っていたの。あなたに文句を言うためにね」

 甲斐は、びっくりしたように立ち止まった。

「文句……ですか?」

「そうよ」

 私は、手紙を取り出して、彼の前に突き出した。

「愛が、あなたあてに書いた手紙よ。欲しい?」

 甲斐は眼を見開いた。顔が赤くなるのがわかった。

「も……もちろん、欲しいです」

 彼が手を伸ばそうとしたので、私は手紙を後ろに隠した。

「私、中身を見せてもらったけど、これは、お別れの手紙よ。それでも欲しいですか?」

 甲斐は、一瞬、表情を凍らせた。口を半ば開いたまま、私を見つめた。それから視線を落としてうつむいた。

「欲しいです」

「じゃあ、私の質問に正直に答えたら、渡してあげる」

 私は説教する先生のような口調で言った。

「愛から聞いたんだけど、あなたたちって婚約してるんだって? それ、本当?」




「婚約って……結婚の約束のこと? えーっ! うそ。ほんとなの?」

 愛は照れたように笑った。

「うそといえばうそ。ほんとといえばほんと。まだ、小学校の低学年の頃だったから、ほんとに、ままごとみたいなものよ。あの頃は、甲斐君は体も小さかったし、よくいじめられてて……だから、私がいつもくっついていてあげたの。なんかの時にね、『大丈夫だよ、一生守ってあげるから』って、私が言って、それで、甲斐君が『ほんとに一生守ってくれる?』って聞くから、『じゃあ、婚約しよう』って、折り紙で指輪を作って交換したんだ。その時の甲斐くん、ほんとにうれしそうで、私もすごくうれしくて……私、その指輪、まだ大事に取ってあるんだよ」

「そんな仲良しだったなんて知らなかった。で、そのあと甲斐君はどうしたの? そんなに仲良かったのに、離れていっちゃったの?」

「ちがうよ。そんな彼を責めるようなこと言わないで。彼は、小学校の途中で転校して行ったの。私、悲しかった。甲斐君もね、その時は別れるのがつらかったと思うよ。いつまでも車の中から私に手を振ってくれた。もう会えないのかと思ってたけど、私は忘れることができなかった。そしたら、高校で再会したの」

「えーっ、びっくり! そうだったんだ。それで? ……再会して、彼はなんて言ったの?」

「実はね、私、最初、甲斐君のこと、わからなかったの。だって、ほんとに小学校の低学年の頃で、その頃は髪もぼさぼさで、私とよく砂場で遊んでいつも汚れていたし……それがさ、あんなに格好良くなっちゃってるんだもの。入学して間もないころ、甲斐君の方は私に気付いて声をかけてくれたんだけど、私、最初、一瞬、わからなくて焦っちゃった。で、少し話したんだけど、久しぶりだったでしょ。なんか、ぎごちなくなっちゃって……」

「婚約のことは話したの?」

「まさか……だって、小さなころのことだし、笑われちゃうよ……でもね、私、ずっと、婚約が本物だったらなって思ってた。今思うと、小学生の時から、甲斐君に恋してたんだなって思う。弱虫で、恰好悪くて、でも、やさしくて、私にいつもくっついていた甲斐君が大好きだった。正直、あのままでいてくれたらなって、思うときもあるんだ。今の甲斐君はかっこよすぎるよ。成績はいつもいいし、テニス部ではエースだったし、ピアノもうまいんだよね。イケメンだし、やさしいから女の子にもモテモテだし……何か遠い人になっちゃったみたいで悲しかった。素敵すぎて……私ね、側にいるだけでどきどきしちゃう。私みたいに恋している人、きっといっぱいいると思う。私なんかよりずっとすてきな人と結ばれるんだろうな、って思うとせつなくなって……」

「何言ってるのよ」と私は愛の手を取った。「愛はめっちゃかわいいし、愛みたいに素敵なひとなんてめったにいないと思うよ。自信を持ってよ」

 お世辞でなく言ったつもりだったが、愛はそうは思わなかったようだった。

「ありがとう。優美ちゃんはやっぱりやさしいね。でも、いいんだよ。甲斐君がすてきな人と結ばれたら、それは甲斐君にとって幸せなことだと思う。きれいごとじゃなくて、本気でそう思う」

「愛、甲斐君を避けていたように見えたのは、好きだったからなの?」

「避けてるつもりは全然なかったんだけど、甲斐君、よく女の子に囲まれてたから、それを見ているのがつらくなったりして……あとは話す機会があっても、うまくしゃべれなくて、焦っちゃうの。近くにいるだけで胸がキューってなっちゃって、もうドキドキして、顔も見られないの。そばにいたくてしょうがないのに、逃げ出したくなっちゃうの。ほんと、甲斐君があれほどかっこよくなかったらなって思うことあるよ。そしたら、昔みたいに一人占めできたかもってね…………なーんて…………私ったら、嫌な子ね」

 愛は少し泣きそうになりながら笑った。

「優美にだけは打ち明けようかと思っていたんだけど、どうしても勇気がなくて……一度『何か悩んでない?』って聞かれたことあったよね。ごめんね、今まで、黙っていて」

 私は首を振った。「私こそ、ごめん。そんなに苦しんでいたなんて気づかなくて……」

「手紙読んでみていいよ。最後のラブレター……ほんとは自分で渡すつもりで書いたんだけど、できあがってみたら、とても無理、って思って……たぶん自分で渡したら泣きだしちゃう。甲斐君を困らせたくないんだ」




 甲斐はびっくりしたようにわたしを見た。

「愛ちゃん、覚えていてくれたんだ」

「甲斐君、その時の婚約指輪、今でも持ってるよね」

 彼はすぐには答えなかった。

「まさかなくしてないでしょう? 今でも大切にしてるよね」

 彼はうなずくと、私を見ないで言った。

「もちろん、今でも大切にしてる」

「甲斐君、あなたは、愛にふさわしい人になろうと思って、今までずっと頑張ってきたんでしょう?」

 彼はかすかにうなずいた。

 私は少し声を荒げて言った。

「でも、全然、努力足りてないよ。自分で分かってる?」

 甲斐は、うなだれたまま。かすかに首を振った。

「たぶん、そうだ……そうだね。君のいうとおりだよ。自分なりに努力はしてきたつもりだけど……」

 私は、手紙をもう一度両手に持って、彼に差し出した。

「手紙、あげるよ。だけど、一言だけ言わせてもらう。あなたには悪いんだけど、愛はあなたとの婚約を解消するって、手紙の中で書いているわ」

 私は言葉を切って、彼をまっすぐに見つめた。

「どうしてだかわかる?」

 彼は弱々しくうなずいた。

「ぼくの力が足りなかったから」

「その通り。甲斐君、あなたはとんでもない人だよ。勉強も頑張って、身だしなみにも気を使って、部活や生徒会もがんばって、それって全部、愛のためだったんでしょう? 愛に認めてほしかったんでしょう? 違う?」

「そうだよ。ぼくは、引越して、愛ちゃんと別れるのがつらくて、その時から、もう一度、愛ちゃんに会うときのために、自分のできることは全部やろう、って決めていたんだ」

「よく努力したと思うよ。それは認めてあげる。でも、許してはあげないよ。一番肝心なことを努力してこなかったじゃない」

「肝心なこと?」

 彼は少し驚いたように目をあげた。

「そうよ、一番を取るより、生徒会長になることより大切なこと。それがわからないから、あなたは最低なの!」

 甲斐は私を見つめた。私の言うことが理解できないようだった。

「教えてあげる。一番肝心なことはね、少しでも多く愛のそばにいて、愛を大切にしてあげることよ」

「谷崎さん!」

 彼は両手をぐっと握りしめて自分の胸の前においた。

「君にはわかってないんだよ。ぼくだって、どんなにそうしたかったか。どんなにそれを望んできたか。それを目標に努力してきたんだよ。いつもそばにいて、今度は、ぼくが愛ちゃんを守れる存在になろうって……でも、高校生になった愛ちゃんは、昔と違って、ぼくのことをあまり相手にしてくれなくなっていたんだよ。小学生の婚約なんて、相手を縛れるものじゃないとわかっていたけど、もう一度、あのときみたいに、同じ時間を共有したいと思っていたけど……愛ちゃんは、何度話しかけても、あまり打ち解けてくれなくて、避けられてるみたいで、ぼくはどうしていいか、わからなかった。いつまでも昔の夢を追いかけていはいけないとは思うし……だけど、愛ちゃんのことをどうしてもあきらめれられないし……だけど、いつまでも昔みたいにつきまとって愛ちゃんの迷惑になるのは嫌だったし、ほんとにどうしていいか、わからなくて……」

「駄目だよ。それじゃ。それじゃだめ。全然、努力が足りないよ。手紙、読んでみて」

 私は、手紙を渡した。彼は手紙を取り出してじっと見つめた。


 中身は知っていた。愛の目の前で読んだから。



「甲斐君へ


 ずっと前に婚約したことを覚えていますか。高校で再会してうれしかったです。


 私は、高校の三年間、ずっとあの時と同じ気持ちでした。あまりたくさんは話せなかったけれど、私は今も、いいえ、今はあの時よりずっと、甲斐君が大好きです。

 もう一度、甲斐君が微笑んで、あのときみたいに「私といつまでも一緒にいたい」と言ってくれる日が来るかもしれないと、そんな夢みたいな事を願って今日まで来てしまいました。


 もうすぐお別れですね。卒業したら,また会えなくなってしまいます。

 でも、もう会えないと思っていた甲斐君に高校三年間、一緒の空間で暮らせたことだけでも幸せでした。


 この手紙は、最後に、小学生の時の婚約はもう解消していいよ、ということを伝えようと思って書きました。もう甲斐君は忘れているかもしれないと思いますが、私にとってはあの指輪はいまでも宝物です。もっと早く「解消していいよ」って言うべきかもしれないとずっと思っていましたが、最後のつながりが切れてしまう気がして、結局、卒業の間際になってしまいました。


 最後にもう一度だけ言わせてください。

 甲斐君はみんなに愛される、本当にすてきな人になりましたね。私はそれをうれしく思います。

 昔も今も、甲斐君が大好きです。ずっとそばにいたかったです。

 でも、昔も今も、私が何より一番願っているのは、甲斐くんの幸せです。遠く離れても、私はあのときの気持ちのまま、甲斐君の幸せを祈っています。


 一緒に過ごした時間、楽しかったです。幸せでした。今日までほんとうにありがとうございました。


                                         愛より」



「あなたみたいな人、婚約解消、当然よね」と私は両手を腰に当てて言った。「小学生の時の婚約なんて、いつまでもこだわってどうするの? もう高校生よ。卒業したら大人の男と女よ。婚約どころか、結婚だってできるのよ」

 私は早口で言った。声はもしかすると大きすぎたかもしれない。

「愛が好きなんでしょう。だったら、無理やりにでも振り向いてもらえるよう、アタックあるのみでしょう。どんなにいやがられても、本当に好きならそうしなくちゃ。わかる? 愛は、ずっとそれを待っていたのよ。三年間よ、三年間。三年間、あなたはずっと、結局、小学生の時みたいに愛が自分からやってきてくれることを待っていただけなのよ! その弱い心が、愛を不安にさせ、悲しませてきたのよ! 努力が足りなかったでしょう。全然足りなかったでしょう! いつまで、小学生の弱虫でいるつもりなの?」

 甲斐は手紙を握ったまま固まっていた。

 私は、つかつかと歩くと後ろの掃除用具のロッカーを開けた。

「さあ、出てきて」

 中から、ほこりを制服のあちこちにつけて、愛が出てきた。

 目にいっぱい涙をためている。顔にもほこりがついて涙と混じって汚れている。

 でも、そのときの愛は、どんな天使より美しく見えた。

 私は彼女の腕を引っ張って、甲斐の前に立たせた。


「さあ、甲斐君、何て言うの。愛は全部聞いてたんだから、二人とも、いまさら恥ずかしがる事なんて何もないよね」

 甲斐は、この展開にびっくりしていたが、確かに、もう弱虫の小学生ではなかった。やるべきことはわかっていた。意を決したように愛の手を取った。

「愛ちゃん、ぼくは、君がずっと好きです。小学生のころからずっと好きです。婚約者、いや恋人になってください」

 愛の眼からは、また、新しい涙がぽろぽろと落ちた。

「甲斐君、ありがとう……そんな言葉が聞けるなんて思ってもいなかった。私もずっと甲斐君が好きです。ほんとうに、こんな私でいいなら、そばにいさせてください」

「はーい、よくできました」

 私はちょっと意地悪な気分になって二人の間に割り込んだ。

「甲斐君はね、ちょっと遅すぎたけど、愛ちゃんを幸せにしてくれるなら許してあげる」

 私は、二人の手を取ると、二人の体をくっつけて背中に手を回させて抱き合う形にした。

「三年分だからね。おもうぞんぶん抱き合っていいよ……あ、でも、キスは、まだ、だめ。小学生からやりなおし……では、私は消えるから、あとは二人で、ゆっくりとどうぞ」


 部屋を出ようとすると、愛が駆け寄ってきて私の手を取った。

「ありがとう、優美。今日のこと、たぶん、一生、忘れない」

「私もうれしいよ」

 私は彼女のやわらかな手をぎゅっと握り返した。

「甲斐君は弱虫だけど、いいやつじゃん。しあわせにね」

 愛は、急に、しがみつくように私を抱きしめた。背中に回した手が痛いくらいだった。私の肩のあたりに顔を沈めて、涙声で言った。愛の髪の毛は、いい香りがした。

「ほんとにありがとう。優美がいなかったら、私、どうなっていたか分からない。ほんとに優美のおかげ」

「何言ってるの。手紙を自分で渡しても、結果は同じだったと思うよ」

「ううん、私、自分ではきっと渡せなかった。ぜんぶ、優美のおかげ。でも、優美ってすごいなと思った。だって、何でもお見通しなんだもの」

「あはは」と私は少し笑った。

「あてずっぽうだよ」

 愛のきゃしゃな体を、愛に負けないくらいぎゅっと抱きしめると、私は甲斐を見た。甲斐は愛のうしろで頭を下げた。

「甲斐君、もう絶対に、今度は愛を手放しちゃだめだよ。じゃあね」

 愛を、もう一度強く抱きしめると、私は二人に手を振って、勢いよくドアを閉めた。


 階段を降りるとき遠くのドアを振り向いた。ドアの向こうで二人は何を話しているのだろう。


 階段を降りながら、途中で不覚にも涙がこぼれそうになったので、立ち止まって壁により掛かった。 

 踊り場の大きな窓に美しい夕焼けが一面に広がっていた。それを見上げた時、突然、高校で過ごした日々のいくつもの思い出のシーンが、空の一角からあふれ出て、私の上に降るように落ちてきた。

 夜の図書館で勉強していた甲斐、夕日の中で必死になって壁打ちをしていた甲斐、教室で数学を教えてくれた甲斐、早朝の教室でクラスの仕事をしていた甲斐、駐輪場で私の自転車を直してくれた甲斐、そして、窓越しにいつも愛を見つめていた甲斐……

 ははは……と私は心の中で笑った。自分では気がつかないふりをしていたけど、いつのまに、私の中で、あいつは、こんなに大きな存在になってしまっていたんだい?

 「いったいどうして、こんなに努力できるんだろう、この人は」ってずっと思ってた。そして、「どう見ても愛のことが好きで、話しかけたがっているのに、愛はなんで避けるんだろう」って……まったく、お見通しどころか、何もわかっていなかったんだよ、私は。

 ……まさか、そんな昔があったなんてね……知らなかったよ……ははは、かなうわけないよね。


 窓ガラスに額を押しつけた。ガラスは冷たかった。

「愛の気持ちを聞こうかと思ったこともあったんだけどね」と、私は、心の中で愛に言った。「実は、怖くて聞けなかったんだ……ごめんね」


 見ている間にも、夕焼けの雲はどんどん形を変えていく。

 美しい、けれどせつない風景だった。


 こうして、時が過ぎていく。


「さよならだね」


 私はそっとつぶやいた。

 めでたいのか、めでたくないのか、私の高校生活も、もう終わるのだと思った。


こんにちは。夏希でーす。

初めての投稿です。読んでくれた人がいたらうれしいな。

これからも、いろいろな作品を載せたいなと思っています。

よろしくお願いします。

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― 新着の感想 ―
[一言] 切ないけど気持ち分かります。今度は優美ちゃんに幸せになってほしいですね。
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