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やっぱり犬を書きました。毎日更新します。短いですがどうぞよろしくお願いします。
ペットショップの一画、サークルの中で看板犬をしていたシェットランドシープドッグ、通称シェルティに、袖を引っ張られ、サークルの中に落ちた。
あたしの後頭部が……! 床に、ぶつか……らない? 痛く……ない。
恐る恐る目を開けると、視界に溢れる光の眩しさに眉を顰める。あたしは仰向けに寝ている。青空が広がっている。青空? ふわ、と何かが頬を撫でる。温かいものに包まれている。おかしい。あたしはさっきまでペットショップにいたはずなのに。
体を起こして周りを見渡せば、どこまでも続く草原、丘の上には大きな木がひとつ。なだらかな坂道の先を見れば、広く平らな地に街が広がっている。現代日本の風景じゃない。どうしてこんなところに……。呆然としていると、左腕にぐい、と何かが当たる。
何かと振り返ればシェルティがあたしの左腕にぐい、ぐいと頭を押し付けている。まさか、そんな、もしかして、この子は、ペットショップの、シェルティ? こんな、怪奇現象に巻き込まれていただなんて。あたしだけならともかく、この子もいるなら、どうにかして、早く、帰らないと。
不安やら焦りやらで気分が悪い。とりあえずシェルティをもふる。きみはこの状況でも何の不安もないのかな、あいかわらず元気な尻尾だね。いつもならサークルがあって思うように撫でれないのに、この怪奇現象のおかげで密着できる。不謹慎にも笑えてきた。もふれまくれるだけでもよかったかもしれない。
「これから、どうしよう、かな……」
「どうしよっかー」
ん? 誰かいる? 周りを見渡しても誰もいない。目の前のシェルティは嬉しそうにハッ、ハッ、ハッ、と尻尾を振っている。幻聴? やっぱり、突然変な世界に来たせいで体が適応できていないのかもしれない。もしかしたら、空気が有害、なんて可能性もあり得る。早くどうにかしなければ。人のいるところに行けば何か分かるだろうか。
「街、か……」
「いくのー?」
やっぱり何か聞こえる。シェルティのおかげで静まった不安が一気に膨れ上がってくる。どうしよう、怖い。無事に帰れるのだろうか。日本ではあたしのことはどうなっているのだろうか。お母さん、ごめんなさい、あたし、変なところにいます、帰れないかもしれません。鼻の奥が痛くなってきて、それを誤魔化すようにシェルティの首元に顔を埋める。
「うぅー……」
「どーしたの?」
場違いなほどに呑気な声が聞こえてくる。どうせ誰もいない、幻聴を無理に無視して不安になるくらいなら好き放題にいろいろ言っちゃえ。その方が気が楽になるでしょ。
「かえりたい……」
「かえるのー?」
「ここ、訳分かんないもん……。ムリ……」
「だいじょーぶ!」
顔を埋めていたシェルティが突然飛び跳ねて、驚いて顔を上げる。シェルティがまっすぐこちらを見つめている。尻尾を振り回して、口をぱくぱくと動かした。
「ぼくがいるよー!」
ん? 喋った? いや、そんなはずは……。幻聴もここまでくると性質が悪い。シェルティの動きに合わせるだなんて、いや、もう今見えているシェルティも信じていいのか……。ああ、ダメだ、疑っても不安にしかならない。今のあたしにはこの子だけが心の支えだ。
「あー、ありがと、う?」
「まかせてー!」
相変わらず声と動きが一致している。ああ、とうとうあたしは犬と会話できるようになったのか……。笑えてきた。もういいや、どうせ訳分かんないだもん。いつ帰れるのか、そもそも帰れるのか、それにすぐ死ぬかもしれないし、これから何をすればいいかも分かんない。不安だらけ。だけど、楽しんでしまえ。幻聴でも幻覚でも何でもいい。犬と話せるんだ、悪くないじゃないか。
「ふ、ふふふ、うん、とりあえず街に行こうかと思うんだけど、どうかな」
「うん! そうしよう! きっと楽しいよ!」
さっきまで舌足らずだったのが、少し滑舌が良くなった。相変わらず口をぱくぱくと動かしていて、どうやって喋ってるのか分からない。だけど、会話がスムーズにできるならそれはそれでいいことだ。
「そういえば、ここがどこか知ってるの?」
「えっとね、楽しいところ! 怖くないよ!」
「そっか、楽しいところかあ」
漠然とした答えだけど、尻尾をぶんぶん振り回している姿を見る限り、きっとその通りなんだろう。早く早く、とシェルティに急かされるままに立ち上がり、街に向けてなだらかな坂道を下っていった。
○●
ペットショップに行っていたのは、彼氏と別れたから。
高校2年の春、放課後。誰もいない教室で待ってくれていた彼氏に、別れを告げた。
なんで。
俺、何かしたか。
他に好きなヤツでもできたのか。
いろいろ聞かれたけど正直に答えるのも気が引けて、冷めちゃった、としか言えなかった。冷めたのは嘘ではない。事実、こうやって向き合って話し合っているまさに今、現在進行形でどんどん彼への好意が、まるで風船のように急激にしぼんでいっているのが手に取るように分かる。
彼には申し訳ないなあ、とは思う。好きになったのも、告白したのも、全部あたしから。友達からはかなり驚かれた。なつめ、肉食系だったの? なんて言われるぐらい、ぐいぐい押した。押し切った。彼女の座をもぎ取った。
懐かしいなあ。一目惚れだった。
廊下ですれ違って、あ、好きだ、って思った。移動教室の途中で友達と話してたのにそんなの関係無しに180度方向転換、走り寄って、あの! って廊下に響き渡るほどの大きな声をかけてしまっていた。
え、俺? ってかなり戸惑って、彼と一緒にいた友達からも、お前だよ、って言われて、ようやく迷惑そうな顔で振り返って、何、って無愛想に聞いてきた姿を見て更に確信した。あたし、彼が好きだ。その場で彼を手に入れると決めた。
もしかして佐藤君? なんて適当なことを聞いて無理矢理名前を聞き出して、名前からクラスや部活、交遊関係、彼女の有無を調べ上げた。
それから同じクラスにいる友達に会いに行くと見せかけて、偶然また会ったかのように装った。人違いだったのにすいませんでした、なんて言って謝った。根回ししておいた友達の協力を得て根性で話を盛り上げたり、遊びに行ったり、一緒に勉強したり、帰ったりと、驚くほど順調に仲良くなった。
秋に廊下ですれ違ったそのすぐ後の冬には、バレンタインデーという名のチョコレート会社の陰謀をフル活用して告白した。そして手にした彼女の座。
友達からは、どこが好きなの、なんてよく聞かれた。正直に答える気にならなくて、運命を感じた、なんて言っておいた。顔はそんなにかっこよくなかったし、好みでもなかった。友達も分かってて聞いたのだろうけど、運命、なんて言われてしまい、これが恋と愛の違いなのかな、なんて遠い目をしていた。
きっと、あたしの中の風船が最も膨らんでいたのはその時まで。
これが、あたしが今日、シェルティに袖を引っ張られるところにまで繋がるなんて、ね。
このような拙作をお読みいただきありがとうございます。最後までお付き合いいただければ幸いです。