星空イルカ
満天の星空の下、僕は横になって空を見上げていた。
空にはまん丸に輝くお月様もある。冬空のほうが星はよく見えるというが正直、僕は夏の星のほうが好きだ。ついでに言うとイルカも好きだ。あのつるっとした皮膚、流線型のフォルム、小さな瞳。すべてが好きだ。ここだけの話、彼女よりもイルカのほうが好きだと思う。
ひんやりと心地いい風が僕の頬を撫で、遠くから蛙たちの合唱を運んで来る。
かすかにゲコゲコいいながら風は草を揺らし、暑さを持っていく。
そんな時間に僕は横になっているのだ。海岸沿いの防波堤のコンクリートの上で。
そんなわけだから内陸側の風以外にも海風も吹いている。
海からの風は塩を含んだべったりと纏わり付くような湿り気があり、またそれも心地いい。
車は一台も通らない。街頭もない。人も僕しかいない。
どうして僕がここにいるかというとなんとなく気が付いたらここにいたとしか言いようがない。
僕は人気のない丑三つ時に何かに呼ばれるように外に出た。
一歩外に出るといつも見慣れた景色が一変した。
明かりは月明かりしかない。でもだからといって暗いわけではない。
むしろ明るいと感じるほどにお月様は明るかった。
一言、僕の口から「きれい」と漏れた。
そして、車を持っていない僕はどこに行くわけでもなくただただ歩いていた。そしたらここに着いていた。
誰かに言われた訳じゃない。それなのにここに着いてしまうのだから縁というものは素晴らしい。
ザザーン……ザザーン……
波の音が辺りに響き渡る。
流石に海面に星が写るということはないけれどそれでも月光を反射した波が白く泡立っているのを見るとどこかでみた油絵を思い出す。
海面に白い細波が立ち、神秘的な星が真っ黒に塗られたキャンパスに散りばめられたような…そんな絵を思い出した。
いや、もしかしたらジグソーパズルかもしれない。
確か、イルカが海面から華麗にジャンプしていたかもしれない。
まぁ…そんなことどうでもいいのだ。とにかく今、僕のいるこの場所は記憶に残るようなインパクトがあり、僕にとってとても素晴らしく思えるのだ。
真っ暗な宇宙に散りばめられたその星々は僕の視界の中でゆっくりと動く…。
実際、僕の肉眼じゃ星のゆったりとした動きなんか捉えられやしないのだけどじぃっとひとつの星だけを見ているとなんとなく動いているような気がするのだ。
また、その星々は僕の体を吸い込んでいきそうなほど神秘的に瞬いている。
視界だけがゆっくりと吸い込まれていくかのような感じだ。
静かに波の音を聞き、星空を見ていると澄んだ空気の中を救急車の音が響く。何かあったのだろうかと思想を巡らすが結局は綺麗な星空に引き留められた。
それにしても綺麗だ。きっと都会にいたらこんな空を見ることは一生無いだろう。
ブブブ……ブブブ……
マナーモードのスマホがメールか何かが来たことを伝える。
誰だろう。こんな時間に……。
星空から視線をスマホの入っているポケットに移す。ポケットが液晶の光で淡く光を放っている。
この色はSNSのメッセージ機能の光だ。
いつもこの時間にメッセージのやり取りをしてる彼女のことを思い出す。
スマホを手に取り、画面を見ると暇?という文章が液晶に映っている。
僕は彼女にもこの星空を共有してほしくてカシャリと星空をスマホに保存する。そして彼女に向けて送る。
その数秒後、ねぇ…いったいどこにいるん?と返事が来た。
海…と一言返す。
また数秒後、返事が届く。
この吹雪の中、外に出たん?
全然吹雪いてないよ?と返す。
そう送ったが今度は待てど暮らせど返事が来ない。
まぁ、寝ぼけてるのかもしれないなと考えてまた星空に視線を戻す。
神秘的という言葉はこの星空のためにあるのかもしれないな…なんて考える。
僕はどういうわけか神秘的なものに恐怖を感じることがある。なんていうかきれいを通り越して恐ろしいのだ。
何がと聞かれても何が恐ろしいのか説明はできないが素晴らしく美しく恐ろしいものが僕の中では神秘的だと思うのだ。
畏怖という表現もあるかもしれない。
とにかく恐怖がないと神秘的ともいえないし、なにより僕の心は動かない。
――――――おいで?
ゆったりと流れる時間の中で誰かが僕に話しかける。
――――――こっちにおいで?
声のしたほうに顔を向けると1頭のイルカが砂浜に乗り上げていた。
呼ばれるままに僕はイルカのほうに足を運ぶ。
――――――行こう?
イルカがそう言った。
僕はどこに?と尋ねる。イルカはにっこり笑うといきなりウケケケケ!と「音」を立てた。
その「音」は僕の体を包み込みゆっくりと体を海に運んでいく。
不思議と怖くはない。恐れもない。ただただ、気持ちがよかった。すっと心が落ち着いていく。
あ、スマホ防波堤に置いたままだ…まぁいいか。
――――うん、行こう。
僕の周りをゆっくりとイルカが泳ぐ。
海面の向こうにお月様が見える。海中にもお月様の光は届きその光はまるでカーテンのように素晴らしい光景を作り出す。
しかし、しばらく沈んでいくとその光さえ届かなくなる。
光が届かなくなると僕の瞼が重くなる。隣でイルカがまたあの「音」を発する。
水の中でその「音」はどこまでも甲高く響き渡る。
――――あぁ、眠い。
俺はあくびを一つして目をこする。
一回一回イルカが「音」を発する度に僕の瞼は重くなる。
ウケケケ…ウケケケ…ウケケケ…
もうこのまま寝てしまおうか?
とてもとても気分がいい…なんで寝むれないのか不思議でしょうがない。
目の前を横切ったイルカと目が合った。
―――――――寝ちゃいなよ。
そうだね、そうするよ。じゃああとはよろしく…。
僕の意識は海に溶けていった……。
私は今、火葬場にいる。
昨日、海という文章を最後に彼は死んでしまった。スリップした乗用車に巻き込まれたらしい。らしいというのは警察と彼の母親に聞いただけで私自身は事故現場を見てないからである。
正直、つらいというのもあるがそもそも外に出たくは無かった。最近は彼がプレゼントしてくれたイルカのぬいぐるみを抱きしめて布団にずっともぐっていた。今日だって彼の火葬でもなければ外には出なかっただろう。
彼は星とイルカが大好きだった。暇さえあれば双眼鏡と望遠鏡をもって海に行き、空を眺めていた。
火葬が終わるとしばらく熱を逃がしたあと、私たちの前に骨が運ばれてくる。
泣き出す彼の母親と父親。そして彼の友達。でも不思議と私は涙が出なかった。
こらえているわけではないのに一粒たりとも流れなかった。
何となくだけど私はわかった。
ここに彼はいない。
彼のお骨を彼の母親から少しもらいペンダントに入れてもらった。いろいろなことに参加していたらあっという間に空が赤くなった。昨日の吹雪が嘘のように今日は一日中晴れていた。雪もきれいさっぱり溶けて消えた。
車のエンジンをかけて事故現場に急ぐ。
今ならいけそうな気がする。というより今、行かなければいけないような気がする。
彼が死んだ場所につくころには日はとっぷり沈んで月が空に浮かんでいた。
しかし、不思議なもので彼が死んだ場所は海に行くにはまだまだ距離がある。決して近いといえる距離では無い。
そもそも彼の考えを私はあまり理解できなかった。彼の頭の中は私にはわからない。
いろんな彼の理解できなかった行動を頭の中に思い浮かべていると肩を叩かれたような気がした。
振り返ると潮の香りが私を包み金属がぶつかる音がした。
あの音は彼の首からかかっているイルカのペンダントの音だ。二匹のイルカが仲良く並んでいるペンダント。
気が付いたらエンジンをかけて車を動かしていた。向かうのは海、絶対彼はそこにいる。きっと!
そういえば前に私の誕生日に彼が水族館に連れて行ってくれたっけ…。でも結局、イルカの水槽の前から動かなくて私が怒ったっけ…。私とイルカ、どっちが大事なん⁉って。そしたら彼は目を丸くして困ったように一瞬水槽のイルカと目を合わせるとイルカがウケケケッて笑ってどっか行っちゃったんだよね。そしたら、もちろん君だよ…なんて困った顔のままいうもんだから吹き出しちゃった。そして帰りにあのイルカのぬいぐるみを買ってくれたんだっけ…。そしたら何度も通ってるからか店員さんに喋りかけられて楽しそうにイルカのことでずっと話してったっけ。
そこで少しだけ彼のことを理解したんだよね。これが彼なんだって。
少し寒いけど窓を開けると潮の香りが強くなる。波の音も聞こえてくる。
赤信号で車を止めた。急いでいるのに……とイライラしていると潮の香りに混じってふっと夏の匂いが立ち込めた。むわっと熱風が私の体を包む。
先ほどまで後ろを走っていた車が消えている。はぁ?と一瞬、思うが先ほどまでの寒さが嘘のように消え去ったほうが驚きが強い。
それにしても暑い。汗が一気に噴き出す。
セーターやらいろんなものを脱ぎ、車の冷房をマックスにする。
一体全体何が起こってるんだ…と思うよりも先に車のエンジンが動かなくなる。
「うそぉ⁉」
ギュンギュン…とキーを回してどうにかエンジンを動かそうとするが一向にかかる気配はない。
仕方なく歩くことにする。本当に仕方なく。
しばらく歩くと海に出た。汗だくだく、のども乾いた。
はぁはぁと息を切らして防波堤を乗り越え、砂浜に降り立つ。
街灯もない、車もない、さっきまで冬だったのにあっという間に夏になっている。
砂浜の上に崩れるように座り込む。
生ぬるい風が私を包む。
ーーーーほら、空を見て? きれいでしょう?
何時だったか彼は空を見てそう言ったっけ。
つられるように私は空を見上げるとわぁと歓声が漏れた。
いつも見ていた星空とは違う、全く比べ物にならないくらい……なんというか……えっと……。
ーーーー神秘的でしょ?
そう神秘的。まさにそんな言葉がしっくりくる。
あーあ、こんなことになるんだったら彼の言葉よく聞いとくんだったなぁ。
ツゥ……と涙が頬を伝う。
もっといっぱい話せばよかったなぁ、もっといっぱい抱きつけばよかった、もっといっぱい……もっと……もっと…………。
ウケケケッと甲高い音がした。
驚いて振り向くと1頭のイルカがいた。
イルカはウケケケッウケケケッと笑っている。
打ち上げられたのか、はたまた私をからかっているのか、とにかくそのイルカはウケケケッと笑っている。
イラッと来たから近づいてみるとバシャッと尾びれで水をかけられた。さらにムッと来たからこっちも水を掛けてやる。
私に合わせてイルカも水を掛ける。
あれ…なんか楽しい。
ーーーーもう、大丈夫か?
彼の声が聞こえたような気がした。目の前のイルカから。
気のせいとは思いながらイルカに聞いてみる。
「ねぇ、あんたもしかして……キャッ!」
最大に大きな水しぶきをイルカは飛ばすとウケケケッとまた笑いながら沖の方に泳いでいく。
傍らにはいつだか水族館で見かけたイルカの姿があった。多分そうなのだろうなぁと言ったくらいだが。
「なぁんだ、やっぱり私よりイルカのほうが好きやったんやなぁ……」
気付いたら大きな声で笑ってた。空には満天の星空がある。ここで好きな人……人じゃないか、イルカと過ごすことになったとしても彼はなんの苦労もしないだろう。
あーあ、これって振られたのかなぁ?
まぁ、彼にとって人の中で好きなのは私だから振られてはないのか。
空を見ると相変わらず爛々と輝くお月様。
あー、とっても綺麗だねぇ……。
ビィィィィィ!ビィィィィィ!
けたたましい音が後ろから響く。
はっと気づくと赤信号が青に変わっていた。
ヤバいヤバい。すぐさまアクセルを吹かし交差点を出る。
そのまま、真っ直ぐ進むと海が見えてくる。
路肩に車を止めて防波堤を乗り越える。
ん~っと背伸びをする。
少し寒いが冬にしては暖かい。
空には相変わらず満天の星空がある。
「あれ?」
防波堤の先の方で淡く光る人工物が見える。
てくてく歩いて見てみると、四角いスマホが落ちていた。
あぁ、彼のものだ。忘れるなよ……。仕方ない持ってってやるか。
そして私は海に向かってぶん投げる。
不法投棄は犯罪だけど今回は別にいいよね?
チャリっと私の胸元からイルカのペンダントが音をたてた。