case1-2
「娘は数年前に自殺しました」
昨日、探偵事務所を訪れたご婦人は、ソファーに腰かけると、いの一番にこう言った。
「理由はわかりません。いろいろ言われもしましたけれど、遺書はありませんでしたし、家庭にも、こう言っては何ですが取り立てて問題はなかったと思っています」
「はぁ、それは、お気の毒です」
僕としてはこう返すしかない。
「それで、ご依頼というのは……」
この事務所の受付はすべて僕が担当している。日中は吸血鬼たちの睡眠時間だからだ。そしてなぜかこの事務所に来る依頼人のほとんどが、奇怪な事件を持ち込んでくる。僕はこの婦人が来客した時から、そこに立ち上る厄介事の匂いをビンビンに感じていた。
「娘を説得してほしいのです。自殺、しないように」
婦人は依頼をそう切り出した。
「えっと、勘違いでしたら申し訳ないんですが、娘さんは数年前に自殺されたのでは」
「あぁ、そうなんです。それが、その、信じていただけないかもしれないのですが」
ここで婦人は一旦口をつぐむ。僕はコーヒーを一口飲んで婦人が口を開くのを待った。
数瞬の後、婦人はようやく言葉が見つかったようだった。
「娘の、幽霊が……幽霊だと思うんですけれど、それが……今でも毎晩飛び降りるんです。マンションの屋上から」
今まで伏していた顔を上げ、婦人が僕を見つめた。
「娘の自殺を止めてください。お願いします」
数十分の応対の後、相応のお代金はご用意します、と言って事務所を去ったご婦人の姿は、心労からか痩せぎすではあったけれど、病んでいるようには見えなかった。
…
……
………
「自殺か」
昨日の様子を思い返していると、横から声がした。忘れておられるかもしれないが、この部屋にはもう一人の住人がいたのだ。杏璃・ボーヴォワールである。どうやら昨日僕がまとめた調査依頼表に目を通していたらしい。
杏璃は日本人ではない。周りにはハーフということで通しているようだが、堀の深い顔立ちと輝くような銀髪は、どこをどう見てもモンゴロイドの趣を感じさせない。たとえるならファイナルファンタジーの住人である。吸血鬼だし。
「それで、幽霊が出る、と」
「馬鹿げた話だよなぁ」
と応対したのは西田所長である。どうやら電話は終わったようだ。
「ワトソン君、きみは幽霊を信じるかい?」
「まぁ信じてはいなかったんですけどね。ここで吸血鬼のお二人と一緒に過ごしてると、そんなのもいるのかなって思うようになってきましたよ、最近は」
「なるほどね、まぁ君たちからしたら僕たちもそんな存在なのかもしれないね」
「馬鹿げた話よ。幽霊なんているわけない」
調査書類をデスクに投げ置き、杏璃はまたいつものスペースに戻る。部屋の北側一面に設けられた大きな本棚の前。そこに杏璃専用の小さなデザインチェアーが置いてある。
「そうなのか。吸血鬼はいるのに」
「私たちはれっきとした生き物よ。ただ形而上と形而下の両方に住んでいるだけ。冷静に考えてみなさいよ。人間の体のどこに霊魂が入る余地があるっていうの」
「…心臓とか」
「馬鹿らしい。心臓は血液のポンプ以外の何物でもないわ。……ワトソン、肩をもみなさい。読書で疲れたの」
「俺はマッサージ師じゃないっつーの」
「ガタガタ言わない。こんな美少女の肩をもめるのだからご褒美でしょう」
うっせぇ、ご褒美でもなんでもないわい。そう言いながら、それでもちゃんと肩をもみ始める辺り、俺はもう完全にこの吸血鬼たちに調教されている。
時刻はもう夜の七時である。
「私、秋は好きよ。夜が長くなり始めるからね」
「そうですか」
窓から入る風が気持ちがいい。長い夏が終わりを告げようとしていた。
「幽霊がいないってことは、今回の事件は依頼人の勘違いなんですかね」
「それを調べるのが僕たちの仕事だろう、ワトソン君」
所長が立ち上がった。
「さて、日は完全に落ちた。そろそろ仕事の時間だ」
所長は、いま一度頭の上のハットを目深くかぶり直した。
僕たちが向かったのは事件のあったマンション。まず初めに依頼人の部屋を訪れた。
「夜分にすみません。先ほどお電話させていただいた通り、娘さんの部屋を拝見させていただきたいのですが」
どうやらさっきの電話は依頼人にかけていたようだ。
「わざわざすみません。こちらになります」
依頼人は僕たちに深く深く礼をして、奥に案内してくれた。
女子校生の部屋は、死んでから数年経っているとは思えないほど綺麗に整頓されていた。今にも女の子が部屋に帰ってきそうで、やにむにドキドキする。
「きもちわるっ」
杏璃が僕の顔をみてそう呟いた。
部屋でまず目を引くのは本棚だった。並べられた大量のライトノベル。どうやらちょっとオタク気質だったらしい。
「自殺に関する本はないね。転生する本ならいくらかあるが」
杏璃は並べられていた本の中から「幻獣・怪物・妖怪大全」を取り出し、吸血鬼のページを読んでいた。気になるものらしい。
「ワトソン君、ショーペンハウアーを知っているかい」
「なんとなく聞いたことがある気がしますが、それがどうかしたんですか」
「いや……、世界で一番有名な自殺の本を書いたやつだよ。根暗で皮肉の好きな男だった」
西田所長は本棚から次にパソコンの電源をつけた。履歴はさすがに消えていたが、ブックマークはそのままにされていたようだ。
「見つけた。」
そう誰に言うでもなく呟くと、ニヤッと笑う所長の口からは、長い長い犬歯が見えていた。