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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。

初恋

作者: カコ夢
掲載日:2012/04/06

この小説はBL小説です。


特に性的描写はありませんが、同性での恋愛表現に嫌悪感を抱かれる方は、閲覧をお控え下さい。

 冬の空はきれいに晴れ上がって、抜けるように高い。

 ぼんやりと煙草をふかしながら、哲也は吐き出す煙が空の青に溶けていくのを、見るともなしに見ていた。

 隣に座ったウメは、両膝を胸にくっつけてガタガタと震えている。

 手にカイロを握ってはいるが、焼け石に水なのだろう、時折小さく寒い寒いと呟いては、足をばたつかせていた。

 寒ければ来なけりゃいいのに、と哲也は思った。

 冬になると、プール傍の用具倉庫裏は、哲也の恰好の隠れ場所だ。

 水泳部も冬の間はグラウンド側のクラブハウスに移ってしまうし、そうでなくても人通りの少ないこの辺りは、この時期無人だと言ってもいい。

 何をしていようが誰の眼も気にせずいられるから、哲也は寒くてもこの場所が気に入っていた。

 実をいうと、いくらウメでも頻繁についてこられると、あまりいい気はしなかった。

 そんな哲也の気も知らずに、震えながらウメが言った。

「哲ちゃん、もうそろそろ帰らない?」

 哲也は空に向かって煙の輪をぽかりと吐き出した。

 ドーナツ型の煙が、揺らぎながら空に昇っていく。

 それを見送って、哲也は口の中に残った煙をウメに吐きかけた。

「帰りたきゃ一人で帰れ」

「でもさっきからもう三本目だし。身体に悪いよ」

「うるせ」

 振り向きざま、ウメの頭を殴った。

 痛っ、と呟いてウメは首を竦めたが、それ以上さして痛がる様子も見せず、また一人寒い寒いとやりだした。

 どこまでも一緒に帰る気のウメを、哲也は羽交い締めにしようとして、ふと咥えた煙草の先を見やった。

 じりじりと焦げ付きながら、火はもう半分まできている。普段ならもうとっくに投げ捨てているところだ。

 一口吸うと、先端部分が灰になってぽろりと落ちた。

 潮時かな、と諦めて、哲也はポケットからハンカチを取り出した。

 証拠を残すな、と哲也に教えたのは兄の真だ。

 中学に入学してすぐに、哲也は二人の兄の真似をして煙草を吸うようになった。四つ上の陽介はむしろそれを面白がったが、長兄の真は苦い顔をして、いいか、と釘をさした。

 吸ってもいいが、外で吸うときは吸殻を持って帰って、家で捨てろ。

 真の真面目な顔に、思わず哲也は唾を飲み込んで頷いた。

 以来、哲也は吸殻をハンカチに挟んで持って帰るようになり、いつのまにかそれが癖のようになってしまっている。

 高校に入ったら、いい加減この癖は改めたいと思いながら、哲也は煙草の火をコンクリートの壁で捻り消した。

「よぉ、まだいたのか」

 顔をあげると、白衣姿の相馬が笑顔でこちらに歩いてくるのが見えた。

 相変わらずジーンズにセーター姿のラフな恰好で、教師とわかるものは、いつも羽織っている薄汚れた白衣ぐらいしかない。

 安物のスニーカーで枯葉を踏んでやってくるいつものその姿に、哲也の心臓はどきりと跳ねた。

 ウメが立ちあがって、大きく手を振った。

「相馬せんせぇー」

 哲也は、ウメの無邪気さをうらやましく思った。ぎこちなくならないよう気をつけながら、慎重によぉ、と片手をあげる。

 相馬はのんびりと手を振って返した。

 すぐそばまで歩いて来て、哲也の手に白いハンカチが広げられているのを見てとって、急に残念そうな顔になった。

「なんだ、もう帰るのか」

 哲也はあわててハンカチをポケットにつっこんだ。

「いや、まだ帰らないけど。一服しにきたのか?」

 相馬は、あたり、と歯を見せて笑うと、胸ポケットから緑のマルボロの箱を取り出した。一本咥えて火をつける。

「また主任に怒られてさ。駄目だね、俺は」

 深く吸い込んで、一時味わうように息を止める。

 それから、相馬は溜息と供に煙を吐き出した。

 辺りに哲也のマイルドセブンとはまた違う、ふっくらした香りが漂った。

 哲也も新しい一本を取り出して、火をつける。

 ウメが隣でうんざりした顔をしたが、哲也は見ないふりをして、同じように深く煙を吸い込んだ。

 しばらく三人は並んで、昇っていく白い煙を見ていた。

 やがて、相馬はひとつ息をつくと心底しみじみとした様子で言った。

「哲也ももう卒業かぁ……早いなぁ。初めておまえが煙草吸ってんの見つけた時も、梅原がそこに座ってて」

 相馬は座っているウメへ顎をしゃくって、懐かしそうに眼を細めた。

「おまえは最高に生意気そうだった」

 哲也はその言い方にむっとして、唇をへの字に曲げて毒づいた。

「あんたは最低だったよ。いきなり殴りやがって」

 哲也の言葉にウメがくすりと笑った。

 相馬は肩をすくめると、すまなそうな表情を作る。

「カツアゲしてると思ったんだ」

 わざとらしいその仕草に、哲也はけっとそっぽを向いた。



 初めて見つかったその時、哲也はやってきた相馬にいきなり殴られた。

 そうして、ものすごい剣幕で怒鳴られたのだ。

「自分がされて嫌なことはするなっ!」

 てっきり咥えた煙草が原因と思っていた哲也は、その言葉の意味がとっさに理解できずに、白衣姿の教師の顔を仰ぎ見た。本気で怒っているらしく、整った眉がきりきりと吊り上っている。初めて、

 兄の真よりも恐ろしい、と思える人間の顔を見て、哲也の反抗心はしゅるしゅると萎んでしまった。

 もし、そこで相馬が本当に煙草のことを叱り付けていたならば、哲也は喫煙の悪癖をきっぱりと止めていたかも知れない。

 だが、相馬が哲也を殴ったのは、煙草が理由ではなかったのだ。

 相馬は哲也の傍に座り込んでいた梅原――当時はウメと呼ぶほど仲良くはなかった――の右腕を引っ張って立たせ、大丈夫か、と訊いた。

 梅原も事情をよく飲み込めていないのか、殴られた哲也と殴った相馬を見比べながら、おどおどと、平気です、大丈夫です、と繰り返した。

 哲也はその様子を呆然と見守っていたが、やがて振り帰った相馬の顔をみて、慌てて手の中の煙草を背後へ隠した。

 相馬は怖い顔で哲也を睨みつけると、つかつかと哲也の傍に歩み寄った。

「おまえ一年の三好哲也だろ。いくら、兄貴達が有名だからっていい気になってるんじゃないぞ。こんなひ弱そうな奴いじめても何の足しにもならんだろ」

 ひ弱そうな、という言葉に、梅原がちょっと不満そうな顔をしたが、相馬はそれに気づかず、なおも哲也を威圧するように見下ろして言った。

「自分で使う分ぐらい親に出してもらえ」

 一瞬考えてから、やっと相馬の言葉を理解して、哲也は相馬につかみかかった。

 つかみかかった哲也の拳が相馬の顎に到達する前に、梅原が二人の間に割って入った。

勢いあまった哲也の拳は、梅原の横っ面にあたり、梅原はうめいてその場にうずくまった。

 相馬も哲也も肝を潰して、同時に梅原に、大丈夫かっと声を掛けた。

 梅原は相馬に助け起こされながら、必死の顔でいった。

「先生、違うんです。僕カツアゲされてたんです」

 相馬はじろりと哲也を睨んだ。その眼には、ほらやっぱり、というような表情が浮かんでいた。

 ウメはその顔をみて、あわてて言葉を訂正した。

「違うんです、三好君にじゃなくて! 三好君は助けてくれたんです」

 要領を得ない言い方に、相馬はしばらく考え込んでいたが、やがて、あっと言うような表情になった。それから照れたように笑うと、いきなり哲也の頭をがしがし撫でた。

 怒りが頂点に達していた哲也は真っ赤になって、相馬の腕を乱暴に払った。

「離せよ!」

 相馬は哲也の言葉のまま手を離すと、いきなり深々と頭を下げた。

「スマン!」

 頭を下げたまま続けた。

「カツアゲしてると思ったんだ。確認もせずに殴ったのは俺が悪かった。許してくれ」  

 そういうと、顔だけ上げてにかっと笑った。

 いきなりの謝罪に哲也は言葉も出ず、隣で呆然としている梅原と顔を見合した。

 梅原も驚いているのだろう、口がぽかりと開いたままだ。

 哲也はあまりにきっぱり謝る相馬に毒気を抜かれてしまった。

 同時にほっとして、何だよ……と呟く声にも安堵が滲む。

 哲也はそのまま、思わず後ろ手に隠した煙草を口にやってしまった。

 一息吸ってから、しまったと思ったがもう遅い。

 相馬の眼はしっかりと哲也の唇に挟まった火のついた煙草を凝視していた。

 どうやってごまかそうかと算段する哲也の前で、相馬はゆっくりと身体を起こし、おもむろに胸ポケットに手を遣った。

 取り出したのは、口の開いたマルボロの箱だった。

 相馬は一本口に咥えると、しばらくごそごそとポケットを探っていたが、あろうことかこう言ったのだ。

「火ィ貸してくんない?」

 それから、哲也と相馬は生徒と教師という立場でありながら、隠れ煙草仲間になった。



 本当のところ哲也は、三年間一度も校内で喫煙しているのがバレなかったのは、相馬のおかげだと思っている。

 事実、学年主任に煙を見咎められたが、相馬が傍にいて、自分が吸っていたのだと言ってくれたことで難を逃れたこともある。

 しかし、そんなことを言うと、図に乗るのが相馬の性格なので、哲也はそんなことを思っているなどということはおくびにも出さない。

 昔のことを思い出したのか、相馬がくつくつと笑った。

 憮然としながら哲也は、何がおかしいんだよ、と吐き捨てた。

 相馬は笑いを噛み殺しながら、いやぁ、と言葉を濁した。

 一口煙を吸うと、そうだ、と急に思い出したように哲也の顔を見た。

「おまえ、私立受けなかったんだって」

 この話題については、私立受験前にも担任教師と散々争ったので、哲也は嫌な顔をした。

「……あぁ。もし受かっても行けるわけじゃないし。高校落ちたら、家手伝うよ」

「そっか。おまえんち、左官屋だったもんな」

 あっさりと相馬は言った。

 あまりにあっさり返されたので、哲也はむっとして、相馬の顔を仰ぎ見た。

「別に高校落ちるって決まったわけじゃないだろ。公立受かったらちゃんと行くぜ? 俺」

「そうだよ。哲ちゃん見かけによらず内申いいし」

 ウメの頭を哲也は力まかせにはたいた。

 ウメはまた同じところを殴られて、タンコブできちゃうと誰にともなくぼやいた。

 二人の様子に相馬は声を出して笑っていたが、ひとしきり笑うと急に大きく息をついた。

 笑っていた眼を少し眇めて、相馬はしみじみと言った。

「……寂しくなるな」

 取っ組み合っていた哲也とウメは、動きを止めて相馬を見た。

 いつも笑っている相馬が急に黙り込むと、なにか尻の座りが悪いようなむずむずするような変な沈黙が落ちる。

 風の冷たさが急に肌に感じられた。

 ウメが小さくくしゃみをした。

 哲也は居心地の悪さから逃れようと、わざと大きく舌打ちした。

「いなくなってせぃせぃするんじゃないの」

 相馬は煙を燻らせながら、首を振った。

「そうでもないよ。おまえらがいなくなるとなかなか寂しい」

「言ってろよ」

 毒づいた哲也に、相馬は力無く微笑んだ。

 相馬のそんな元気の無い顔は見たことがなかった。

 哲也はどう返していいのかわからず、ウメと一緒に相馬を見つめたまま黙り込んでしまった。

 また寒さが増す。

 やがて相馬は、何か吹っ切ったような顔をしてにこりと笑った。

 ちびた煙草を消すと吸殻を、ほい、と哲也の手に投げた。

「じゃ、よろしく」

「自分で捨てろよなぁ」

「どうせ持って帰るんだろ。ついでついで」

 吸殻を反射的に受けとめた哲也に、相馬はひらひらと手を振って笑った。

 その顔にはもうさっきまでの奇妙に暗い表情はなく、気をつけて帰れよ、と言いながら相馬は校舎の方へ帰っていった。

 小さくなっていく相馬の背中を眼で追いながら、ウメが不思議そうに言った。

「相馬先生、今日変だったね」

「腹でも壊してんじゃないの」

 哲也はぶっきらぼうに返したが、相馬が残していった奇妙な寒さは、哲也の体の底に残ったままになった。



 机の上に鞄を投げ出すと、哲也は胸ポケットからハンカチを取り出した。

 そっと広げると、今日一日分の吸殻が現れる。

 哲也は数本のマイルドセブンの中に埋もれていたマルボロをそっと摘み上げて、慎重に机の上に置いた。

 引出しを開けて、古びたカンペンケースを取り出す。もうずいぶん錆びて、しまりが悪くなってしまった蓋を開けると、ちびて折れ曲がったマルボロの吸殻が6本、並んで入っていた。

 哲也は机の上のマルボロを取り上げると、ケースの隙間にそれをしまった。

 これで七本目だと思うと、溜息が出る。

 最初の一本をここへしまったのは、夏休みが終わってすぐだ。

 それまで、他の吸殻もろともゴミ箱へ投げ捨てていた相馬のマルボロを、哲也はふと取り上げた。

 指の間の吸殻は、相馬の着たきりの白衣に似てみすぼらしく萎れている。

 見つめていると、相馬の情けない笑顔が眼に浮かんだ。

 まるで夢遊病者のようにそれを唇に運んで咥える寸前、哲也は初めて自分が何をしようとしているか気づいた。

 変態か、俺は。

 身体がかっと熱くなって、それとは裏腹に額にどっと汗が噴出した。

 まさにその時、背後から陽介に声をかけられたものだから、慌てて引き出しに仕舞いっぱなしになっていたこのカンペンケースに放り込んだのだ。

 それから、今日こそ捨てようと思いながら、とうとう七本目になる。

 哲也は手荒く引出しを閉めた。

 足を投げ出して椅子に座ると、何故こんなことになってしまったのか考える。

 三年間一度だって担任になったこともなく、一緒に隠れて煙草を吸う以外、なんの接点もない。

 それなのに、あろうことか間接キスを試みるなど、自分の頭はどうかしてしまったのだろうか。それも、男と。

 哲也の唇の間から、また溜息が漏れた。

 悶々と考えるうち、玄関の方から父親と兄達が帰ってきた騒がしい音が聞こえた。

 騒音の元は、寡黙な父ではなく、主に兄二人だ。

 高校卒業してすぐに、家業を継ぐ長男として父を手伝い始めた真と、成り行きでアルバイトしている状況の次兄の陽介は、二人揃って末っ子の哲也をからかうことを一日の終わりの楽しみにしている。

 一日みっちり働いてきたというのに、疲れた様子を微塵も感じさせない様子で、哲也の部屋に直行してきた。

 机に向かっている哲也を見つけると、汗の匂いを撒き散らしながら、嬉しそうな顔で哲也を取り囲んだ。

 土木作業で鍛えられた身体の二人の間に挟まれると、一五歳の哲也はまだまだひよっこという感が否めない。

 背の高い二人に両側から見下ろされて、哲也は自然、憮然とした表情になった。

 哲也の頭をねじ繰り回しながら、陽介が快活に言った。

「何だ、哲也。お勉強か?」

 哲也はうんざりしながら、陽介の腕を払った。

「なんでもねぇよ、ちょっと考え事」

 その言葉に二人の兄は眼を丸くして顔を見合わせると、弾けるように笑った。

「考え事、だってさ。思春期のお子様は大変だねぇ」

「うるせぇな、ノーミソ筋肉の陽兄ぃとは違うんだよ」

 憎まれ口を叩く哲也の頭を今度は真がぐりぐりと撫でた。

 哲也に顔を寄せると、声を低める。

「おんな、か?」

「バッ……、そんなんじゃねぇっ」

 女そのものではないにせよ、図星をつかれた哲也は、耳の先まで真っ赤になった。

 あまりに素直な反応に、兄達は意外そうな顔をした。

 哲也はこの手の話題については、めっきり弱いことを二人は知っている。

 それぞれ中二で童貞を喪失した二人としては、淡白過ぎて物足りないくらいだ。

 そんな奥手の末っ子が、「女」の一言にここまで反応を示すのは、意外と言えば意外に違いなかった。

 やがて、兄達は口元ににやにやと嫌らしい笑みを浮かべて視線を交わした。

 両側から二人して哲也の首に腕を回す。

 薄笑いを浮かべたまま、陽介が含みのある声で言った。

「なーるほどねぇ、いよいよ目覚めましたか」

 真がしみじみと言った。

「いや、これで俺も肩の荷が下ろせるってもんだ」

 哲也を挟んで頷き交わす。

「哲也にもやっと春が」

「来たってわけだ」

 合わせたように二人で言うと、いきなり哲也を羽交い締めにした。

 哲也は暴れたが、二人は無視して最高に楽しそうにさらに締め上げてくる。

 ひとしきり哲也を苦しめた後、陽介がわくわくした顔で聞いた。

「で? どこまで行ったのよ?」

 二人の好奇の眼が哲也の紅潮した顔に向けられる。

 哲也は見透かされたわけでもないのに、どっと背中に汗をかいた。

 その様子を見て、真が笑って哲也から手を離した。

「駄目だ、こりゃ何もねぇな」

 その言葉に、陽介も拍子抜けしたような顔になった。

「あ? 片思いって奴か? かぁー、つまんね」

 二人は急に興味を失ったように哲也から腕を解いた。

 哲也はほっと息をついた。

 真が、飯にするか、と声を掛けると、陽介も、腹減ったぁ、とぼやきながら、

台所のほうへ向かいかける。

 ふと、陽介が振りかえって、まだ顔を赤くしている哲也を見た。

「いいか、哲也。女はな」

 神妙に言って、人の悪い笑顔を口の端に浮かべる。

「やったもん勝ちだ」

 言った陽介の頭を真がひとつ張った。

 馬鹿やろう、いらんこと教えるな、と真は怒鳴ったが、その顔には陽介と同様、人の悪い笑みが張り付いていた。

 そのまま、二人は哲也のことは忘れたように、今日の仕事の進み具合など話しながら、台所に行ってしまった。

 二人の姿が廊下に消えるのを見計らって、哲也はまた引出しを開けた。

 錆びついたカンペンケースを開けて、並んだマルボロに視線を落とす。

 一本摘んで哲也は、はぁ、と肩を落とした。

「やったもん勝ちって……」

 萎れた吸殻は哲也の指をするりと滑って、ケースの中に落ちた。

 無理だよ、絶対。

 

 

 翌朝、教室に入ると、遅刻寸前の時間だと言うのに、担任はまだ姿を現していなかった。

 その代わりに、教室は蜂の巣を突ついたような騒ぎで、哲也の机にもすぐに金谷と坂本がやってきた。

 何があったのか、二人とも興奮に頬が紅潮している。

 哲也が椅子に座るのを待って、待ちかねたように金谷が切り出した。

「大変なことになったぜ、哲也」

 怪訝な顔で哲也が二人の顔を見上げると、息せき切って坂本が言葉を継ぐ。

「相馬が辞めさせられるんだってさ」

 その言葉に、思わず哲也は二人をねめつけた。

「なんだよ、それ」

 哲也の眼の光に怖気づいたのか、ふたりは一瞬次の言葉を押し付け合うように、顔を見合わせた。

 それでも、隠し持ったニュースを暴露したくて堪らないのか、すぐに坂本のほうが声を低めて囁いた。

 唇の端が嬉しそうに痙攣している。

「あいつ、ホモだったんだって」

 ホモ?

 哲也は信じられない思いで二人の顔を見比べた。

 両方とも、人の弱点を握った時特有の嫌らしい表情を浮かべている。

 哲也は変に思われないようゆっくりと返した。

「どういう意味だ」

 金谷が押し殺したような笑い声を立てた。

「男とキスしてるところを、中西のおじさんに見られたらしいよ」

 背後で別の数人に取り囲まれてる中西を視線で示す。

「中西のおじさんって、PTAの会長してるからさ」

 坂本が、それで、と続ける。

「そのまま、校長に話行って、首ちょん、さ」

 坂本が、喉に手をやり、首を切る真似をした。それから、寒いように身を縮めて、いやしく笑いながら言った。

「男にキスだって。気持ちワリィー」

 哲也は椅子を蹴って立ちあがった。

 目の前が赤く眩むような感覚を覚えて、無意識のまま坂本の襟首を掴む。

 気がつくと倒れた坂本の上に馬乗りになっていた。

 坂本の頬は赤く腫れ上がり、鼻からは血を流している。

 金谷が泣きそうな表情で、やめろよ、と必死で哲也の振り上げた拳を押さえていた。

 身体の下で坂本が、めそめそと泣いていた。

 急激に身体の中の熱が冷めて、哲也は腕を下ろした。

 脱力感が襲ってきて、哲也の肩はずんと重くなった。

 相馬が辞める。

 それだけが哲也の頭の中に響いていた。

 立ちあがった拍子に、ポケットの中でマイルドセブンがかさりと音を立てた。

 昨日相馬が落としていった奇妙な寒さが、腹の底にじっとりと蘇ったような気がした。



 放課後、哲也はウメと用具倉庫裏に行ってみた。

 当然ながら、いくら待ってみても相馬は姿を現さなかった。

 隣で哲也の顔をうかがいながら、ウメが呟いた。

「……来ないね……相馬先生」

 返事をせずに、哲也は背中の鞄を背負い直し、踵を返した。

 校門へ歩き出した哲也の後ろを、ウメももう何も言わずに歩き出した。

 その日、哲也は煙草を一本も吸わなかった。



「三好君、第二ボタンじゃなくていいから、ボタンくれませんか」

 この日三度目の問いかけに、哲也はうんざりした。

 卒業式が始まる前に、第一、第二ボタンはクラスの女子に強引に奪われて、だらしなく開いた短ランの胸から、白いシャツが丸見えになっている。

 式の入場時に、何をしにきたのか、仕事を休んでまで参加していた兄二人に、それを体育館内に響き渡る程の声で冷やかされて、哲也はその場から消えたい気分になった。

 そのせいか、哲也の表情はいつになく硬い。

 哲也の険悪な顔に恐れをなしたか、初めて顔を見る女の子は、嫌ならいいですけど……と語尾をにごらせた。

 哲也はうっとおしく思いながらも、ここで泣かれては嫌なので、無造作に三つ目のボタンをもぎ取った。

 ボタンを握った拳を、うつむいている女の子の前に突き出す。

 信じられない顔をして、その女の子はボタンを受け取ると、ありがとうございます、とお辞儀して行ってしまった。

 傍に誰もいなくなると、哲也は急に煙草が吸いたくなった。

 知らず知らずのうちに緊張していたのだろうか。そう思うとさらに欲求は強まった。

 謝恩会まで、あと三時間はある。

 哲也はいつもの場所に足を向けた。



 哲也はその場所で、一人煙草をふかしている人物を見つけた。

 まさか、と足を止める。

 白衣こそつけていなかったが、それは相馬に違いなかった。

 暗い色のスーツを着て、ぼんやりと消えていく煙を見ている。

 哲也に気がつくと、いつもと変わり無い様子で、よぉ、と片手を上げた。

 呆然と哲也が突っ立ったままでいると、相馬はふと悲しげな笑みを浮かべた。「今日は吸わないのか」

 言葉とは不釣合いなその表情に、哲也はと胸をつかれた気になった。

 駆け寄りたい衝動を押さえて、いつも通り哲也は片手を上げて答えた。

「吸うに決まってるだろ。卒業式なんて堅苦っしくて嫌になる」

 哲也がそう毒づいて、煙草の箱を取り出すのを、相馬は面白そうに見ていたが、ふと何かに気づいて、いたずらっ子のような表情を浮かべた。

「これはまた、モテモテだな。帰るまでになくなるんじゃないの」

 哲也ははっと、短ランの前を掻き合わせた。かっと頬が熱くなる。

 相馬は声を上げて笑うと、哲也にライターを手渡した。

 馬鹿やろ、と呟きながら、哲也は煙草に火をつける。

 ゆっくりと昇っていく二本の煙が、たった二週間だと言うのに、ひどく懐かしい気がした。

 しばらく、哲也は黙ったままの相馬の隣で、ぼんやりと懐かしい味を味わっていた。

 やがて、哲也の、長くなりすぎた煙草の穂先が灰になって落ちる頃、相馬がぼそりと呟いた。

「言えなくって、悪かったな」

 哲也は相馬の横顔を仰ぎ見た。

 すっきりと整った眉が少し歪められて、何かが苦いかのような表情になっている。

 唇に挟んだマルボロの火が、ほとんどフィルターに届きそうになっていた。

「おい、火が」

 哲也の言葉でやっと気がついたように、相馬は、あれれ、とフィルターを落とした。靴裏で踏みつけて、残った火を消した。

 コンクリートにへばり付いた吸殻は拾わなかった。

 苦い表情のまま、相馬は哲也に向き直った。

 そして、さっきの言葉を繰り返した。

「辞めるって、おまえと梅原には言いたかったんだけど。何しろ急だったからな。俺はおまえらが無事高校入学するまでは、とは思ってたんだが」

「男とキスしてた、ってホントか」

 哲也は単刀直入にそう聞いた。

 相馬は驚いた顔をしたが、やがて痛いような笑顔になって、まいった、と視線を落とした。

 その仕草は全部、哲也の言葉を肯定していた。

 哲也は叩きつけるように、言った。

「それが原因で辞めたのかよ。どうして? 男を好きじゃ、教師はできないってことか」

 相馬は顔を上げた。

 まじまじと、哲也の顔を見て、それから、何かを言おうとして、言葉を吐かないまま、無為に唇を動かした。

 それから、ぼそりと言った。

「気持ち悪い、だろ」

 それを聞いた途端、哲也は胸の奥に理由のわからない苛々が、ふつふつと沸いてくるのを感じた。

 情けない表情を浮かべている相馬のスーツの襟をつかんで、詰め寄った。

「何言ってんだよっ。気持ち悪いとかそんな話してるんじゃないだろ? 俺はなんで辞めたかって聞いてんだよ」

 相馬は何も言わなかった。

 ただ、小さく肩を竦めただけだった。

 哲也はつかんだ相馬を突き放した。

 食ってかかりそうな自分を押し殺すために、哲也は煙草を一口吸う。

 馴染んだはずマイルドセブンが、いやに刺ヶしい味に感じられた。

 もう一度、相馬に向き直って、込み上げてくる理不尽な怒りを、ひとつひとつゆっくりと言葉に変えた。

「別に、男が好きでも、なんも、誰にも、迷惑掛けてないだろ。じゃあ、辞める必要、ねぇじゃないか。俺、あんたのこと、気持ち悪いとか、そんなこと一度も」

 それ以上を言葉にしきれず、哲也は大きく息を吐いた。

 吐き出した息が震えて、なんでこんなに興奮してるんだ、と頭のどこかでぼんやり思った。

「すまん。俺が悪かった」

 視線を落としたまま、相馬は低く言った。

 俯いたその顔には、以前の相馬の穏やかさはなく、代わりに荒んだ表情があった。

 哲也は悲しいような苦しいような気持ちになった。

 俯いた相馬の頭に手を掛けると、ぐいと強く引き寄せた。

 触れた唇はかさついて、メンソールの味が微かにした。

 やがて離れた哲也の顔を、相馬が驚いた顔で凝視していた。

「気持ち悪くないよ、俺は」

 ぽつりと哲也はそう言った。

 以前感じた肌寒さが、沈黙とともに辺りに漂った。

「高校受かったら、なんかおごってくれよな」

 できるだけ普段通りに、哲也は笑った。

 相馬は唖然とした顔のまま、ああ、と答えた。

 哲也は手の中のマイルドセブンを足元に投げ捨て、足裏で踏んで消した。

 吸殻は相馬のマルボロの横に転がったが、哲也はもうそれを拾おうとはしなかった。

 突っ立ったままの相馬をその場に残して、哲也はじゃな、と校舎へ向かう。

 一度だけ背後に手を振ったが、相馬がどう答えたかは哲也は確認しなかった。

 ふと気がつくと、手の中には相馬のライターが残っていた。



 縁側に腰掛けて、哲也は煙草をふかしている。

 風呂から上がってきた真が、頭を拭きながら哲也の傍に座って、自分も煙草に火をつけた。

 一口つけてから、真は怪訝な表情で哲也の傍に置かれたカンペンケースを取り上げた。

 その中には、ちびたマルボロが行儀良く六本並んでいた。

「なに、おまえ貧乏ったらしいことしてるな」

 ぼんやりと前庭に眼をやっている哲也の口に咥えられているのも、ケースの中のものと同様、折れ曲がって萎れたマルボロだった。

 ガラス越しの寒そうな庭に視線をやったまま、哲也ぼそりと呟いた。

「なぁ、真兄ぃ」

 真は煙草を咥えたまま、なんだというふうに眉を上げる。

 哲也はマルボロの煙を眼で追いながら、続けた。

「俺は大人になれば、できることが増えるって思ってたけど。ホントは、ちょっとづつ、できないことのが増えてくのかなぁって……今日そう思ったよ」

 真は呆気に取られた表情をしていたが、そのうちにやりと笑って、哲也の頭をがしがしと撫でた。

「よくわかってんじゃねぇか。哲也もちっとは大人になったんだなぁ」

 哲也はされるがままになりながら、もう限界までちびてしまったマルボロを灰皿で消した。

 乾ききった唇を舐めると、仄かにメンソールの味が染みた。





                              了


初めてBL小説を書いてみた。

温いが自分では気に入ってます。

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