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み•さ•く

作者: ここたそ

昨日、僕は名前も知らない女性とキスをした。



高架橋の下に広がる河川敷に、誰が設置したのかも分からない古びたゴールポストがある。

僕はいつも、部活が終わった後、そこでひたすらボールを蹴っていた。

優しく包み込むような外灯のひかりだけを頼りに、自分の脳裏に思い浮かべたイメージと実際にボールが描く放物線が一致するまで、僕は毎日何回でもボールを蹴った。



彼女が僕の前に姿を現したのは、数ヶ月前のことだった。

どこからともなく現れた彼女は、ゴールポストの向こう側に無造作に置かれたドラム缶に腰を下ろした。

そして彼女はいつも、僕が描く放物線を眺めていた。

その隣には、強烈な存在感を放つ、一本の大木があった。




彼女と会話を交わしたことはなかった。

無論、何が楽しいのかボールを蹴る僕の姿だけをずっと眺めている彼女のことを、僕は少なからず意識していた。



いつもの様に僕がボールを蹴っていると、僕が放ったそれが自分の意に反する方向へと飛んでいってしまった。

何の悪戯か、そのボールは彼女が腰掛けるドラム缶の近くに終着した。

すると、彼女はそのボールを拾いあげ、僕の元へと駆け寄った。

そして無言で僕にボールを差し出した。


不意に…

不意に僕は彼女とキスをしたい衝動にかられた。

彼女の唇に僕の唇を重ねると、一瞬驚いた面持ちを浮かべたものの、直ぐ様静かに目を閉じた。

僕らの間に、静寂で穏やかな時間が流れた。



それが昨日の出来事だった。



今日も僕はボールを蹴っている。

ただただ彼女に届くように。

僕が描く放物線のその先に、名前も知らない彼女が『定位置』に腰掛けている光景がある。

僕はそれだけで幸せだった。



それから暫くたったある日、秋の新人戦に向けてのレギュラーが発表された。

監督が呼び上げる名前に、僕の名前はなかった。

僕は胸に、悔しさと失望感を抱いたまま、その日も河川敷へと向かった。

いつもの様に『定位置』に腰をかけ、僕を待っている彼女に、初めて僕は弱さを見せた。

どれ位の時間かはわからないが、彼女の前で泣き続けた。

その間中、彼女は僕の背中をそっと優しく撫でていた。



その次の日から、彼女は姿を現さなくなった。

待てど暮らせど彼女は来なかった。

僕は誰の姿も見えないゴールポストに向かってボールを蹴り続けた。


どうって事ない。

ただ彼女がいなかった数ヶ月前に戻るだけだ。

頭ではそう理解していたが、感情が追いつかなかった。

心にポッカリ穴が空いたような気分だった。


再び彼女を見かけたのは意外な場所でだった。


季節は移り変わり、桜が咲き誇る頃、僕の高校で入学式が行われた。

「威風堂々」をBGMに体育館の中へ行進してくる新入生の列の中に彼女はいた。

気だるそうに音楽に合わせ手拍子をしていた僕と目が合うと、彼女は少し恥ずかしそうに前の人の陰に隠れ目を伏せた。



その日の放課後、僕がいつもの様にボールを蹴っていると、彼女は何事もなかったかの様に『定位置』へと腰掛けた。



僕は思いきって彼女に声をかけた。


「ねぇ、どうして急に来なくなったの?…僕が情けなかったから?」


すると彼女は困った様な表情を浮かべながら、ゆっくりと首を横にふった。

そして、消えてしまいそうなくらいの小さな声で話し始めた。

その答えは実に呆気ないものだった。


「受験勉強してたの」


大きな瞳で僕を真っ直ぐみつめた。


「同じ高校に入りたかったから…」


それだけ言うと、彼女は立ち去ろうとした。

慌てて僕は呼び止めた。


「待って!…君の名前は?」


すると彼女はドラム缶の横に堂々と立っている大木を指差した。

その木には、満開に咲いた桜が所狭しと散りばめられていた。



「…みさく。美しい桜って書いて美桜。」



いつしか僕達は当たり前の様に恋に落ちていた。

僕が放つ放物線の先には、彼女の笑顔があった。


学校で僕と目が合うと、決まって彼女は頬を紅色に染めながら恥ずかしそうに目をそらした。

同じ学校に入った意味ないじゃん、と僕は思ったが、美桜のその仕草があまりに可愛いので僕は許してしまった。


一度だけ、たまには何処かに遊びに行こうか美桜に尋ねた事がある。

しかし彼女はそれを断り、あなたのボールがゴールポストに吸い込まれていくのを見ているのが好き、とだけ言った。


僕は毎日蹴り続けた。

ボールが少しでも美しい軌道を描くように。



そして時は立ち、僕達に二度目の別れが訪れた。

僕がスポーツ推薦で、東京の大学に進学することが決まったからだ。


まだ雪が積もっている河川敷で、別れの日も僕はボールを蹴っていた。

彼女は相変わらず『定位置』に座っている。

隣の桜の木はまだ、芽を出しそうにない。


「今日でサヨナラだね。」


僕が美桜にそう告げると、美桜は悲しそうな表情を浮かべた。

美桜は何も言わなかった。


それが僕が美桜を見た最後の日となった。






やがて僕は、慣れない都会での暮らしと上下関係の厳しい大学の部活に直ぐに馴染むことはできず、余裕こない毎日をおくることになった。

そのおかげか、美桜のいない日々をそれ程までに辛いと感じることはなかったが、たまに無性に会いたくなった。




上京して1年が過ぎ去り、また桜が咲き誇る季節となった。


ある朝、僕が家を出ると、アパートの脇には見事に咲いた桜があった。


僕はいても立ってもいられず、気がついた時には新幹線に飛び乗っていた。

そして、無我夢中であの場所を目指した。


高架橋の下に広がる河川敷、ゴールポストの向こう側に置かれたドラム缶に座り、美桜が待っているような気がした。


しかし、その場所に美桜はいなかった。


変わりに立派に咲き誇った美桜の木と…

それともう一つ、その木の隣には小さな苗木が植えられていた。


誰が植えたのかはわからない。

けれども僕は、それは美桜が植えたものだと勝手に確信した。






いつしか僕は現実を知り、大学4年になる頃にはプロになる夢を諦め就活に励むようになった。

僕が身に纏っている物も、ユニフォームからスーツへと変わっていた。

ボールはクローゼットの奥にしまわれている。

と同時に、美桜との記憶も僕の頭の片隅へと追いやられていた。





時は流れに流れ、僕は一般企業に就職し、そこで出会った女性と結婚した。

そしてやがて男の子が誕生した。



あれから桜は何回咲いたのだろうか。

いつのまにか、息子は小学5年生になった。


そして今日、辞令のため僕は数年ぶりにこの街へ戻ってきた。


息子を連れて、懐かしいあの河川敷へと向かった。

あの光景は当時のままだったが、驚いたことに美桜の木の隣に植えられた小さかった苗木は、息子と同じくらいの背たけまで成長していた。


僕と息子は、ひたすらボールを蹴った。

息子が放つそれは、まだまだ放物線なんて描ける代物じゃないが、それでもゴールポストをめがけ伸びていく。

こうしてまた、僕は仕事帰りに息子を連れて河川敷へと通う毎日が始まった。





それから数ヶ月がたったある日、美桜の『定位置』だったあの場所に、一人の少女が腰掛けた。

年の頃は、息子と同じくらいだろうか…

息子は、その少女の元へ駆け寄りそして尋ねた。


「名前何て言うの?」


少女は薄っすら笑みを浮かべ、美桜の木の隣に植わっている、小さい方の木を指差した。


「…こさく。小さい桜って書いて小桜。」



あの日、この場所で僕が思い描いていた夢の先に、確かに美桜はいた───。









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