べろちゅう
生温かいぬめりが、唇を押し広げ口の中にしのびこんできた。
それは、そのまま彼の舌の上を這いずり回る。
目の前に、学内でときどき見かける畠中さんの、知的で清楚なお顔がある。彼女はベッドの上の彼にまとわりつくように覆いかぶさり、ファーストキスを奪っていた。
昨日までは会話もしたことのない彼女と、どうしてこうなったか思い出せない。考えようとしても、口の中を蹂躙する甘く淫らな感触が脳を麻痺させる。
ならもう、この夢のような状況を楽しもう。意を決して、自分からも舌を絡めにいく。
──瞬間、勢いよく彼女の舌が引き抜かれて目が覚めた。
住み慣れた男子寮の自室のベッドだった。隣には誰もいない。
口元に溢れた涎をぬぐうと、ひどく生臭い匂いがした。
同室の中村は、週末はいつも彼女の部屋に泊まっていて、どうせ帰りは月曜の朝だろう。
どうしようもない虚無感のなか朝の準備を済ませ、寮のすぐ隣の敷地にある実験棟に顔を出す。
なにやら騒がしい。せわしなく行き交う学生たちの中から、数少ない友人を見つける。
「え、何かあった?」
「いいとこ来た! お前も探すの手伝ってくれよ、田坂教授の例のサンプルが行方不明になって」
「あーなんだっけ、海外から無理やり持ち込んだやつ?」
「そうそう、かなりグレーなことしてようやく持ち込んだアレが、水槽から消えたらしい」
そのへんの経緯はなんとなく耳に入っていたが、専門外なので詳しくは知らない。
土曜日なのにご苦労だなと思いつつ、田坂教授の冷たい目付きが浮かんでそれをかき消した。
「ごめん、今日はちょっと忙しくて」
誤魔化してその場を離れる。自身のレポートの完成の方が、遥かに重要だった。
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また、生温かいぬめりが口の中を這いまわっていた。
しばらく快楽に身をゆだねていると、じゅるりと舌が引き抜かれる。
「ねえ」
畠中さんの、ねっとり湿った声。
腰の上に跨って、彼女は自分の腹部を──清楚な白いレースのワンピースがはちきれそうに、ぱんぱんに膨らんだお腹をさすっていた。
「できちゃった」
彼は呆然と、聞き返す。
「なんで……キスしかしてないよ……」
「関係ないよ。二人が愛し合ってるなら、勝手にできちゃうものだって、習わなかった?」
「愛し合って……そう、なんだ……」
「明日には産まれるから、楽しみにしてて」
「……明日!?」
「楽しみにしててね……」
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今日も自室のベッドで目覚める。もちろん隣に誰もいない。
口元から溢れたのだろう唾液は枕全体をぐっしょりと濡らしていて、生臭い匂いが部屋に充満していた。
洗面台でちょっと吐く。夕飯のカップ麺の残骸を水で流し、太陽の光を浴びようと外に出る。もう昼はとっくに過ぎていた。
例の友人が生け垣を下から覗き込んでいる。サンプルはまだ見つからないようだ。
「手伝おうか。サンプルってどんなだっけ」
「ああ、蛭らしいんだけどね」
「ヒルって血を吸うあれ? ってか、らしいってなんだよ」
「そう、それ。だけど教授がもったいぶって見せてくれないから、俺らも現物は知らんのよ。現地でも禁忌みたいな扱いで情報がない……」
「はあ……」
いつも学生を冷たい目で見下すあの教授は、やっぱり好きじゃないなと思う。
「ま、気候も違うし、どっかで干からびてるだろ。教授の気が済むまでテキトーにやるから大丈夫」
「そっか」
「それに、なんかお前さ……」
「うん?」
「……すごく、顔色悪いよ。休んだ方がいい」
言われてみれば、なんとなくだるい。足も重い。自室に戻って熱を測ると、35℃ちょうどだった。
あいかわらず生臭さがひどいけど、もうベッドで布団にくるまって寝ることにした。
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「ねえ見て、わたしたちの子供」
畠中さんの嬉しそうな声が耳もとで聞こえた。
そして全身を這いまわる生温かい感触。
見ると畠中さんそっくりの顔と服装の少女たちが何人も、彼の体じゅうに群がってピンクの舌を這わせている。
「すごい、夢みたいだ」
快楽の渦に思考を飲み込まれる寸前、彼は少女たちが口を揃えて言うのを聞いた。
『──いただきます、おとうさん』
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翌朝帰宅したルームメイトに発見された時、彼は半裸で失血死していた。
全身には無数の蛭が吸いついていた。ピンク色で、体の真ん中に一本筋の通ったそれは、驚くほど人間の舌にそっくりだった。
ふと彼の薄紫の唇を押し広げて、舌が顔を出す。いや、彼は死んでいる。彼の頬をぬるりと這い降りたそれは、ひときわ大きな蛭だった。
「やあ、そこにいたのか」
連絡を受け駆けつけた田坂教授が、満面の笑みを浮かべていた。
────舌蟲【完】




