二、参「その世界」
カエデの目が、その言葉に触れた瞬間、ほんのわずかに揺れた。
「はい?」
ジンは一度だけ視線を外した。
わずかに間が空く。何かを探るように、言葉にならないものを内側でなぞる。
「あ、あの……なんでさっきの男の人は怒ってたんですか?」
カエデの視線が、ふっとほどけるように逸れた。
先ほどのやり取りを軽く思い返すように間を置き、そして穏やかに口を開いた。
「あの方にとっては、あなたが服を褒めた事が、皮肉にも感じたのでしょう。言葉は飾り、その実は、中身を突くということですね」
隣で腕を組んでいたリンが、短く息を吐くようにして言葉を継ぐ。
「信念が感情をつくり、感情が思考を作る。信念は経験でつくられる。……あの男のこれまでが、出たんだろう」
ジンは小さく頷く。
「そ、そうなんですね……」
(あ、あなた......)
胸の奥に残ったものが、わずかに向きを変えている。
掴めないまま、それでもどこかへ続いているような感触だけがあった。
「で、でも……またっ……」
そのジンの様子を見つつも、カエデの視線が何事もなかったかのように前へ流れる。
その意識はすでに次へ移っていた。
「......さっ、どうしましょう。少し時間を使ってしまいましたので、このまま参りましょうか」
リンもカエデに合わせるように、ほんのわずかに遅れて、頷いた。
「うん……」
そのときだった。
人の流れの向こうから、軽い足音とともに見慣れた気配が近づいてくる。
「おっ、いたいた! ちゃんと来てたな」
振り向いた先、雑踏を縫うようにして現れたツカサが、
装衣の裾を揺らしながら、手元を軽くひらつかせる。
呼吸の気配は、ほとんど乱れていない。
カエデはわずかに目を細め、安堵と確認を込めるように微笑んだ。
「あら、ちゃんと来られたようね」
ツカサは肩を鳴らすようにして笑う。
「おう、流石にな!」
リンはじっとツカサを見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……たぶん、ツカ姉、前より上手くなってる」
その一言に、ツカサは「お、やっぱり?」と軽く目を丸くする。
少し後ろでそのやり取りを見ていたジンは、ふと考える。
(あれ……やっぱり普通に来てたら、ここまではすぐに来られるってことなのかな)
自分の呼吸はようやく整ってきたところだというのに、
目の前の三人はまるで違う世界の住人のように軽やかだった。
ツカサは腹をさするようにして、いかにも我慢できないといった顔で言葉を発した。
「いやー、てか腹減った」
カエデの視線は前に据えられたまま。
足を運ぶ前の静かな間に、言葉だけが先に落ちた。
「では、行きましょうか」
だがツカサは、そのままカエデへと視線を向ける。
「ちょっと、なんか食って行かね?」
カエデの視線が、すっとツカサへ定まる。
「無理よ、少し急がなくては」
そのやり取りを後ろから聞きながら、ジンはふと納得したように小さく頷く。
(あっ、そうか……神羅と戦って、お腹減ったんだ)
ツカサは諦める様子もなく、ぐっと距離を詰めてくる。
「いや、すぐ食うから、なっ、行こうぜ」
だがカエデは表情を崩さないまま、すっと前を向いて。
「駄目よ、さっ、行きましょう」
その瞬間、ツカサの表情がぱっと切り替わる。
「よしっ、ジン行くぞ!」
次の瞬間には、ジンの肩ががしっと掴まれていた。
そのまま強引に進行方向を変えられ、茶屋の方へと引っ張られていく。
「えっ、だ、大丈夫なんですか!?」
足がもつれそうになりながら、ジンは慌てて声を上げる。
(す、すごい力だ……)
ツカサはそんなことはお構いなしに、ぐいぐいと引いていく。
「いいから、こい!」
その背に向かって、カエデの少し鋭い声が飛ぶ。
「ちょっと待ちなさい、ツカサ」
リンはその様子を見て、ほんのわずかに息を整えるようにして、静かに後を追った。
結局、四人はそのまま流れるように進路を変え、街道脇の茶屋へと向かっていく。
「よっしゃ、瞬で終わらせるぞ!」
茶屋の方へ足を向けたそのときだった。
ちょうど店先から出てきたばかりの、二人の男の姿が視界に入る。
片方は、どこか軽い調子をそのまま形にしたような男だった。
口元には気安い笑みを浮かべ、周囲との距離を最初から詰めてくるような空気をまとっている。
人の流れの中でも、わずかに視線が上に引かれる位置にありながら、佇まいには緊張感がなく、場の空気に溶け込むような軽さがあった。
もう一人は、その隣に並び立っているだけで対照的だった。
言葉数は少なそうな、静かな圧を持つ男。
無駄な動きはなく、視線一つで周囲を測るような落ち着きがある。
その軽い方の男が、すぐにツカサへと視線を向け、気安く声をかける。
「おっ、君かわいいねー、どっからきたの?」
急いでいる足を止めることもなく、ツカサは軽く手を振るようにして答える。
「あ、わりー今急いでんだ」
軽い男は、引く様子もなくそのまま言葉を重ねる。
「えっ、どこいくの?」
ツカサは足取りは変えず、あっさりと返す。
「あー、ここの茶屋な」
その言葉を受けて、間を置かずに軽く笑う気配。
「あー俺も」
そのまま距離を詰めようとした、その瞬間。
隣にいた落ち着いた雰囲気の男が、わずかに視線を動かした。
ほんの一瞬。それだけで十分だった。
言葉はない。ただ、ごく僅かな目配せ。
軽薄そうな男の動きが、ぴたりと止まる。
「ん?どうした?」
振り向いたその顔に、ほんのわずかな違和感が走る。
次の瞬間には、理解したように目を細め、
小さく息を抜くように笑い、ツカサからすっと身を引いた。
距離が空く。
その瞬間、そこにあった何かが、すっと元に戻っていくかのようだった。
そのやり取りを、カエデは何も言わずに見ていた。
ほんのわずかに視線を向けただけで、表情は変えない。
その隣で、リンもまた無言のまま、二人の動きを観察している。
ジンの視線も、その場に留まっていた。
余計な動きはなく、ただ一点に意識を寄せていた。
(……あれ?)
視線の先で、輪郭がわずかに揺らぐ。
向き合っているはずの二人の姿の、その手前に、もう一つの気配が、淡く重なっていた。
正面を向いた姿に、背を向けたままの姿が、薄く滲むように重なる。
ほんの一瞬、前と後ろが同時にそこに在る。
そして、その背を向けた姿は、音もなく消えていくところが見えた。
(今の……なんだ……?)
そして、その二人の通り過ぎて行く横顔を目で追いながら、リンの眉がわずかに寄る。
表情は変わらないまま、心念だけを静かにカエデへと送っていた。
(なんかこの二人、ちょっとおかしいかな姉様)
カエデもまたその場に立ち止まり、ごく自然に応じる。
(ええ、何か)
やり取りを交わしている、そのわずかな間に。
二人はすでに横を抜け、気づけば人の中へと紛れ込んでいく。
リンの視線が鋭くなる。
(姉様!)
一歩、踏み出しかける。
だがカエデの返答は落ち着いていた。
(いえ、確証がもてないわ)
リンがわずかに言い淀む。
(で、でも)
言いかけたところで、横から軽い声が割り込む。
「おい、どうした? 早く行こうぜ」
ツカサはまだ状況を掴みきれていない様子で、軽く振り返っている。
リンはそのまま視線を外さず、短くツカサにも心念を送る。
(ツカ姉、あいつら魔族かも)
「えっ、本当か!?」
ツカサの声が一段上がる。
だがその頃には、二人の姿はすでに人の流れに紛れきり、
最初からそこにいなかったかのように、痕跡すら残っていないようにみえた。
ジンはその場で足を止め、群衆の奥をじっと見つめている。
(あ、あれは……)
さっき一瞬だけ見えた“重なった像”を、頭の中でなぞるように。
リンが舌打ち混じりに吐き出す。
「くそっ、追いかける!?」
そのとき、ジンの様子に気づき、鋭く振り向いた。
「おい、ジン、なにかわかるのか!?」
ジンの思考が引き戻される。
「えっ!?」
リンに声を向けられた瞬間。
そのさらに次の瞬間には、ツカサの姿が視界から消えていた。
風を切る音とともに、真上へと跳ね上がる。
「うーん、どこだあいつら」
見上げると、すでに人の流れを大きく越えた上。
屋根の上を軽く飛び越えた位置で、周囲を見渡している。
突然の動きに、周囲の何人かがざわついた。
カエデが小さく息をつく。
「ツ、ツカサ……」
そう言いながらも、すぐに意識を周囲へと広げる。
人の流れ、気配の揺れ、視線の動き。
目に見えない“何か”を探るように、静かに感覚を張り巡らせていった。
リンは迷いなく人の流れの中へと踏み込み、そのまま視線だけを鋭く走らせていく。
人と人の間をすり抜けるように、気配を探る動きだった。
ジンはツカサのその一瞬の動きを目にして、
(う、うわ……)
一瞬たじろぐ。だがすぐに、歯を食いしばるようにして視線を前へ戻した。
(い、いや……俺も探す)
そう思い直し、人の波の中へ目を凝らす。
だが——
焦点が定まらない。さっき見えた“あの姿”だけが、ぼんやりと残っている。
(だ、駄目だ……見えるような、見えないような……リンに初めて名前を呼ばれた……)
そのとき、上空から軽い風を伴ってツカサが降りてくる。
「いやー、わかんねーなー、どうする?」
周囲を見渡しながら肩を回すようにして言う。
カエデは小さく息をついた。
「あなた……またそんな事をして……。一応、あの者達の事は、里の方に送っておきましょう」
リンも短く頷く。
「うん」
ツカサは少しだけ顔をしかめた。
「あーあれか、あれ苦手なんだよなー」
その会話の合間に、ジンが言葉を差し込む。
「な、なんですか?それ」
カエデは視線を少しだけ横へ流す。人混みの中、さりげなく立つ一人へ。
「今、あそこに居る里の者に、意識を、送るのです」
ジンもつられて目を向ける。
(あ、あれは……さっき門のところにいた人)
カエデは続けた。
「そして、その者が、里に一旦、さっきの男達の姿を送ってくれます」
わずかに間を挟み、自然に足を茶屋の方へ向ける。
「それでは、茶屋に入り、意識を、送りましょう」
四人はそのまま店の中へ入り、空いている席へと腰を下ろした。
外の喧騒が、少しだけ遠くなる。
カエデとリンは、ほとんど同時に意識を落とすように静まった。
呼吸が整い、カエデ達三人と先ほど門にいた里の者との境界が薄れていく。
その横で、ツカサは店の者へと顔を向けて、
「その間に食べるわ」
間を置かずに注文を済ませると、運ばれてきたものへそのまま手を伸ばす。
ほとんど噛む間もなく口へ運び、流し込むように食べ進めると——
気づけば、皿の上はもう空になっていた。。
そして、カエデ達三人にツカサも遅れて加わり、
やがて、四人の意識がゆるやかに重なっていく。
意識だけのやり取りが、そのまま内側で交わされる。
(もう、いいですね)
(うん)
(お、俺も一応送りました......)
(よし、いいな!)
その直後、わずかに確かめるようなカエデの意識が差し込む。
(あなた、本当にできたの?)
(だ、大丈夫だ!)
ツカサは頷きながら答えた。
やり取りが途切れる。
その静けさの中で、ジンはひとり、考えていた。
(リンだけだ……声を、かけられなかったのは……)
間を置かず、ぴたりと返る。
(……お前また……それに私は興味がない、そんなもの)
(あっ、考えてたことがっ……あっでも、俺もだ)
軽く混じるように、ツカサも割り込む。
(カエデは本当、多いよな!)
(ええ……まぁ……)
ひとつ、区切るように。
(もう行きましょう)
そのまま意識が目の前に戻る。
目の前の音が戻る中、カエデはすっと立ち上がり、手早く勘定を済ませると、
そのまま身体を進行方向へ向ける。
リンも迷いなくそれに続く。
ジンは一間遅れて立ち上がり、慌てて後を追った。
「よっしゃ、いくぜ」
ツカサの軽い声が背中を押す。
すると、ふいにカエデが、
「ジンさん、あなた......」
「えっ!?......」
ジンは思わず振り向く。
「いえ、あとでいいです」
「は、はい.......」
(き、気になる......)
そして、四人の足並みが自然と揃う。
次に向かう先は——襄桜




