二、弍「水面」
すると、楽水の門を潜ったあたりで、門の陰に立っていた人影とカエデの視線が一瞬だけ交わった。
次の瞬間——
すれ違いざま、二人の手がわずかに重なり合うように過ぎる。
そして、人の目にはほとんど残らないほどの速さで、何かが受け渡されたように見えた。
ジンは思わず目を細める。
(あっ、なんだろう、あれ)
ジンは頬に手を当てる。
拭われた感触を追うように、指先が頬から首元へとなぞっていく。
確かめるように、ゆっくりと――
(お、俺も、なにかやれる気が、してきたような気がする......な、なにか渡されたのかな?......)
カエデは、静かに前を向き直り、
すぐそばにいた、リンとジンに声をかけた。
「それでは、少しどこかに入りましょうか。どこかありますか? ジンさん」
急に話を振られ、ジンの足が一瞬だけ止まった。
「……えっ、いや、俺ここ、初めて来たんで、カエデさん達が行くとこについて行きます」
少しだけ気まずそうにそう答える。
その声を聞いたカエデの口元が、わずかに緩んだ。
「あっ、そうですね。それでは今日もあそこに、いたしましょうか」
そう言いながら、視線をそちらへ流す。
その先には、街道脇にある店があった。
低く張り出した瓦屋根の下、正面は開け放たれ、店の中がそのまま街道に向かって開いている。
太い木の柱と梁で組まれた素朴な造りだが、どこか落ち着いた佇まいだった。
床には平たい石が整然と敷き詰められており、旅人がそのまま腰を下ろせるようになっている。
その上に、素朴な木の机と椅子がいくつか並んでいた。
街道を行き交う者たちが、足を止めて茶を飲み、しばし休むための店なのだろう。
ジンは、ついさっきの光景を、首筋のくぼみに触れ、そこをなぞるように頭の中で反芻していた。
指先が、縦に走る筋をなぞっている。
(今朝はわからない事が多かったけど......する事......ひと......あの人、里の人?いや......)
カエデの隣を歩くリンが、そんなジンの様子を気にすることもなく、ふとカエデを見上げる。
「姉様、今日は何頼む?」
カエデは歩きながら、わずかに表情を和らげ、
「そうですね……」
わずかに間を置いて、
「いつもの茶にでも、しましょうか」
その言葉を聞いて、ジンの意識がふっと会話へ戻る。
(……茶、俺も興味ある)
するとリンがすぐに口を開いた。
「姉様いつもそれ。じゃあ私は甘蕉かなー」
少し楽しそうに言うと、カエデがくすっと小さく笑う。
「リンもいつもそれ」
言われたリンは、そのままの調子で、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「うん、自然な甘さ? がいいかな」
すると、カエデがふと思い出したようにジンの方を見る。
「あっ、そういえば。ジンさんの茶って、どんな味がいたしますの?」
その一言で、ジンの顔がぱっと明るくなった。
「えっ……えーとですね」
少し身を乗り出す。首元を、触っていた手を下に下ろす。
「里の、畑って虫が全然つかないじゃないですかー。それですごく育てやすくて――」
話し始めると、言葉はどんどん出てくる。
三人はそんなやり取りを続けながら、市場の奥へと歩いていった。
そこは、湿った熱気と、湿気を帯びて硬く踏み固められた地面を叩く無数の足音の世界。
揺れる水面の光が、ちらちらと視界に差し込む。
すぐ横では、見たことのない果物が山のように積まれている。
派手な色が陽に照らされ、ぎらりと光を弾いていた。
その隣では、氷の上の魚が陽に照らされ、海の気配を帯びた匂いが漂ってくる。
通りに満ちる声が幾重にも重なり、ざわめきとなって一帯に広がっている。
ジンは幼馴染のことなども話しながら歩いていたが、ふと目の前の光景に改めて足を緩めた。
思わず左右に視線を走らせる。
「……すごい人の数だ」
人、人、人。
すぐ目の前を、荷馬車が横切っていく。
手を伸ばせば触れそうな距離を、籠を背負った農民がすり抜け、肩がかすめた。
異国の装束を着た旅人が、息のかかるほど近くで言葉を交わしている。
こんな数の、しかも里の外の人間を、これほど近い距離で一度に感じるのは、初めてだった。
そのとき。
前を歩いていたカエデの足が、すっと止まる。
ジンも慌てて立ち止まった。
視線の先。
行く手を塞ぐように、二人の男が立っていた。
一人は大柄で、胸元の開いた、何年も着古されたようなゴワついた布の上着を着ている。
端は擦り切れ、ところどころ糸がほつれていたが、長く使い込まれてきた質感が、男の無骨な体格にすっかり板についていた。
太い腕と首。
日に焼けた肌は黒く、日差しの下で生きてきた人間の色をしている。
この世界を体で渡ってきた人間か、それとも喧嘩慣れした人間か。
その隣には、男の動きに合わせるように、わずかに遅れて立つ男がいた。
大柄な男は、体を少し前に倒して、上からカエデの顔を見下ろした。
「おいおい、お前よく見りゃ派手な顔してるな。こんな市場で歩いてりゃ嫌でも目につくぜ。どうだ、ちょっと俺たちと遊んでいかねぇか」
横の男もカエデの顔を見て、にやりと笑う。
「おっ、確かに」
通りの人々はちらりと視線を向けるが、すぐに逸らす。
この手のやり取りは、この市場では珍しくないのだろう。
大柄な男は満足そうに顎を上げた。
「俺はなー」
その言葉を、柔らかな声が静かに遮った。
「ええ、ありがとうございます。ですがこのあと我々は少し用があるので」
カエデは微笑みを崩さない。声も柔らかいままだった。
ほんのわずかに会釈する。
その仕草は無駄がなく、どこか距離を保つような静かな線があった。
ジンはその横顔を見ながら、胸の中で思う。
(用?少し……確かにある……)
だが男は引かなかった。
肩を鳴らし、半歩前に出る。
「まーまてよ、ちょっと行こうぜ」
その瞬間。
リンの身体が、ほんのわずかに沈んだ。
膝が柔らかく曲がり、重心が落ちる。いつでも踏み込める、静かな姿勢。
しかし表情は変わらない。視線は冷たいまま、男の動きを見ていた。
カエデは男を見たまま、ほんの一瞬だけ思案するように視線を揺らす。
(こ、この状況は昔、里で習った人里での処し方に似ている……)
ジンの頭に、里での教えがよぎる。
人里では争うな。目立つな。騒ぐな。馴染め。理解しろ——身で示せ。
(ど、どうする俺……)
心臓の鼓動が少し早くなる。
そのとき。
大柄な男がぐっと距離を詰めた。
分厚い腕が伸びる。
カエデの肩に手をかけようとした。
「そんなのいいじゃねぇか、なっ行こうぜ・・・」
その腕が触れる直前。
後ろから、少し焦った声が割って入った。
「あ、あのーちょっといいですかー?」
後ろから、少し間の抜けた声が割って入った。
その声と同時に、ジンがカエデと男の間へと身を滑り込ませる。
遠慮がちに、しかし確実に。隙間を見つけた猫のように、ひょいと顔を出した。
カエデの目が一瞬だけ見開かれ、思考がわずかに遅れたような間が生まれる。
一方でリンは、踏み込もうとした足を寸前で止め、遅れてジンの方へ視線を向けた。
腕を伸ばしかけていた大柄な男が、眉をひそめる。
「あぁ……?」
ジンは男を見上げると、何のためらいもなく言った。
「いやー、その服、すごくかっこいいですね」
その瞬間。場の空気が、不自然に途切れた。
「ん……?」
低く唸るような声が落ちる。
大柄な男はゆっくりと視線を下げ、目の前に割り込んできたジンを上から見下ろした。
眉間には深い皺。視線の奥に、どろりとした怒りの色が滲んでいる。
男は自分の胸元を掴んだ。
「ああ、これか? こんな何年も着たようなやつだぞ。バカにしてんのか、お前?」
言葉の終わりと同時に、男の拳がみしりと音を立てて握られた。
だが、ジンの瞳はまっすぐだった。そこにはただ、見たままを受け取る静けさがあった。
「その、着古されて擦り切れた感じが……なんていうか、男らしさとか、内側にある力強さを、すごく引き出してるなと思って。
何年も着てきた、その着こまれたさまに、あなたの力強さを感じるんです」
「…………。はぁ?」
男の眉間の力が、わずかに抜けた。
握りしめていた拳が、少しだけ開き、自分の胸元をまじまじと見下ろす。
「……力強さ……だと?」
「はい。その生地の傷一つ一つが、あなたがこの世界でずっと戦って、生きてきた証みたいに見えます。俺、今日初めて里を出てきて、だから……本気で、いいなと思いました」
ジンは、屈託のない笑顔でそう言い切った。
「…………」
大柄な男は、しばらく黙ったままジンを見下ろしていたが、やがてふっと鼻を鳴らした。
「……いやでも、お前気に食わねーわ。ちょっと殴らせろ」
間の抜けた声が、思わず漏れる。
「えっ」
言葉の直後だった。
男の肩がわずかに沈み、次の瞬間――
右の拳が、一直線にジンの顔面へ飛んできた。
(えっ!?)
だが。
ジンの体が、ほんの少しだけ横にずれる。
まるで通り過ぎる人を避けるような自然さで、拳は空を切った。
ジンは一歩下がりながら、戸惑いの表情。
(なぜ!?)
「なんで避けんだよ、くそっが」
苛立った声とともに、今度は逆の拳。
(ッ!?......)
それも、すり抜ける。
わずかにジンの身体が傾いただけで、軌道が外れる。
「だから、なんでだよ!」
いつの間にか、通りの流れの中にわずかな滞りが生まれていた。
足を止めた何人かの視線が、二人の動きを追っている。
さらに踏み込んでくる。
そして、また右の拳。
(わ、わか......)
だが、それもまた届かない。
ジンはただ、少し体をずらすだけで避けている。足もほとんど動いていない。
拳だけが、虚しく空を切り続けていた。
通りのざわめきに混じって、
小さい方がすごい、という感嘆や、でかい方もやれ、という声が断片的に流れていく。
「くそっ……!」
さらにもう一発、もう一発。
ジンは目を見開いたまま、それでも身体だけが反応するように避けていく。
(お......俺はっ!......)
だが結果は同じだった。
男の拳が四度、五度と振るわれる頃には、呼吸の方が先に荒くなっていた。
「……ハァ、ハァ……。なんだお前、ふさげやがって……!」
男は拳を下ろした。
視線が胸元に落ち、擦り切れた布地をじっと見つめる。
拳を握りしめる。
「くそっ、こんなガキに……」
これまでの自分。
何度も殴られ、何度も殴り、積み重ねてきた、生きてきた時間が、ふと頭をよぎる。
通りのざわめきに、もう終わりかといった気の抜けた声が混じる。
視線が外れ、足音がまた流れに戻っていく。
そして、今の自分。
「なんなんだっ......」
ジンの目を見る男。
「……チッ。その目だけは認めてやる。……おい、行くぞ」
そう言って背を向けると、横にいた連れの男がわずかに身を乗り出した。
「えっ、いいのか!?」
「もう、いい......あいつは、違う......」
低く返し、そのまま顎で促す。
連れの男もそれ以上は何も言わず、二人は肩を揺らしながら雑踏の中へと消えていった。
その場に、少しだけ気の抜けた静けさが残る。
(お、俺はただ......!!)
言葉にならないまま、ジンはその場に立ち尽くす。
すると、カエデがゆっくりと振り返り、微かな笑みを浮かべてジンを見る。
「……どうなるかと思いましたが、一応、助かりましたわ、ジンさん。これは何かお礼をした方がいいでしょうか」
その隣で、リンが鼻を鳴らした。
「無駄に目を集めて......あんな奴は、ぶっ飛ばしてやるのが一番早い」
そう言いながらも、ちらりとジンを横目で見て、
「だが、まぁまぁ良くやった方だ」
と、ぶっきらぼうに付け加える。
当のジンはというと、急に二人の視線を受けて少し慌てたように肩をすくめ、
「は、はい......良かったです......」
(一応か......)
と、ジンは答えたあと、
「あ、あのっっ! ! ……」




