二「楽水」
ツカサが神羅のもとへ残り、三人は山嵐の枝を伝って、森の奥へと進んでいった。
しばらくして——
少し離れた森の奥から、かすかに空気が揺れる。
枝葉が微かに震え、気の流れが波紋のように伝わってきた。
カエデが、肩の力を少し抜いたように息をつく。
「……本当に、あの神羅と戦うなんて……」
その横で、リンが静かに前を見て頷く。風ではない何かが森の中を伝ってくるのを感じ取っていた。
「うん……ツカ姉の気が伝わってくる……」
ジンは二人の少し後ろを、精一杯に追いかけていた。
枝から枝への移動、初めよりは慣れた気がするが、呼吸が乱れる。肩で息をしながら、それでも視線だけは前を追っている。
そして、胸の奥に残るものを考えていた。
(はぁはぁ.......ちょっと疲れた......いや......ちょっとじゃないかも.......
そ、それと........お、俺も神羅がやっぱり........気に......なってきた……)
あの気配、あの時感じた感覚。
顔に流れる汗を手で拭いながら、
(つぎ......会ったら……もう少し......近づいてみようかな……)
装束の下にも汗が滲んでいる。
次への緩やかな決意、のようなものも、ふと浮かんでいた。
そのまま三人は、森を駆け抜けていく。
やがて森が途切れ、視界が開ける。
その先には、泰黎国の関所へと続く街道が見えていた。
だが三人は街道には入らない。
森の縁、街道の外側を沿うようにそのまま走り抜けていく。
ジンはちらりと街道へ視線を向けた。
(あっ......あれは......関所?あれ......大丈夫なのかな......勝手に通って行って......休憩......)
街道には、さまざまな人々が行き交っていた。
荷馬車を引く商人。
籠を背負った農民。
旅人、行商人、武装した護衛。
人の声、馬のいななき、荷車の軋む音。森の静けさとはまるで違う、人の営みの音が広がっていた。
ジンは思わず、そちらへ目を向ける。
(はぁはぁ......すごい......人......みんなそれぞれ......)
ふと昔の記憶がよぎった。
昔、一度だけ幼馴染のショウと、この関所の近くまで降りてきたことがある。
そして、そのまま外側を駆け抜けていく三人の姿に、街道の誰一人気づく者はいなかった。
木陰を縫うような移動。気配を消す足運び。
対魔剣士の移動は、普通の人間の目にはほとんど映らない。
カエデは前を見据えたまま速度を保ち、リンも静かにその横をついていく。
その少し後ろにジン。
三人はそのまま泰黎国の関所を横目に、街道の外側を走り抜けていった。
関所を越えると泰黎国と楽水の国境、様子が変わる。
道として整備されているわけではない。
それでも木々はところどころ刈られており、奥まで見通しが利く。
枝は好き勝手に伸び、足元では膝丈ほどの雑草が揺れていた。
人が歩くための場所ではない。だが、走り抜けることはできる。
街道を行く人々の視線は、ちょうどその木々の影に遮られる。外からはただの林にしか見えない。
その中を、三人の影が風のように抜けていく。
前を行く二人の背を、ジンはただ追っていた。
(……ここが、国の境目なんだ。泰黎でも、楽水でもない場所……)
やがて木々の隙間の向こうに、もう一つの門が見えてきた。
楽水の関所だった。
(あ......あれも関所?......前は......遠くから見ただけだったな......)
ジンの装束は、すでに汗で濡れている。
その視線の先、楽水の関所では数人の役人が机を並べ、通行税の計算をしていた。
帳面を広げ、銭を数え、次の旅人を呼び止める。
街道の人の流れは、そこで一度ゆるやかに滞っていた。
その頭上を——
カエデたちは、関所の上をそのまま通り過ぎていった。
手続きをすることもなく、街道の外側から一気に越えていく。
上の方に人影がよぎり、風が巻くような気配が通り抜けた。
机の前にいた若い役人が、思わず顔を上げる。
「おい、今……」
腰を浮かせかけたその肩を、隣にいた年高の役人が軽く手で制した。
帳面から目を上げることもない。
「放っておけ。山の連中だ。通達は来ている」
若い役人は少し口を曲げ、再び上を見上げる。
「……またですか。律儀に門を通れば、こっちだって身元の書き込みが捗るっていうのに。あいつら、自分たちが特別な存在だって鼻にかけてるんじゃないですか?」
年高の役人は、銭を数えながら、
「いや、あれはあいつらなりの筋だろう。姿を隠そうと思えば、いくらでも隠せる連中だ。それに、うちとの取り決めでもある。だからこそ、この辺りの安全も保たれている」
若い役人は、まだ少し不満げに空を見上げた。
その様子を横目で見て、年高の役人はようやく顔を上げる。
すでに三人の姿は遠い。
「まぁでも、挨拶ぐらい、地上の門で済ませればいいものを。……相変わらず、風みたいな連中だ」
そして帳面の端に、年高の役人は小さく印をした。
三人の通過を認めた印。後で上に報告するための記録だった。
その頃——
少し離れた上空を走りながら、ジンは関所を振り返っていた。
(あっ......ここも、これでいいんだ......そろそろ、かな......楽水......)
やがて三人は速度を少し落とした。
この先、楽水の門を通る前に——対魔剣士としての姿を隠す必要がある。
そのための装衣を、ここで身につける。
カエデが荷から取り出したのは、土色の装衣だった。
膝下まで落ちるゆったりとした外套。
色はくすんだ薄茶で、街道を行き交う旅人や行商人がよく身にまとう、ごくありふれた色合いだ。
遠目には、ただの旅装にしか見えない。
布は驚くほど薄く、風を受けると静かに揺れる。それでいて簡単には擦り切れない、しなやかな強さがある。
長旅や山越えでも破れにくいよう、対魔の里で昔から使われている織り方だった。
そして、それを流れるように着る、カエデとリン。
ジンはここまでの疲れと、楽水を目の前にしての焦りか、
装衣を着るのに手間取っていた。
街道の先には門。その向こうには市場へ続く人の流れが見える。
(あっ……急げ、えっと……今朝渡された奴……)
ジンは腰の腰装を慌てて探り、折り畳まれた装衣を取り出そうとする。
だが指先が汗で滑り、紐に引っかかり、なかなかうまく引き出せない。
焦りと疲れで指先も思うように動かなかった。
その様子を横目で見ていたカエデが、口元だけをわずかに緩め、ジンに振り向く。
「ほら、ジンさん、早くしないと」
穏やかな声に、ジンはびくっと肩を跳ねさせる。
「す、すいません!」
慌てて装衣を引き抜こうとするが、布が半分だけ引っかかってしまう。
そんなジンを見て、カエデはふと眉を上げた。
「あら、ジンさん、すごい汗ですよ。大丈夫ですか?」
ジンの額からは汗が流れ、首元まで濡れている。装束の下も、かなり熱がこもっていた。
「あっ、はっはい......」
返事をしながらも、息はまだ少し荒い。
すると、カエデは小さく息をつき、腰の腰装から一枚の布を取り出し――
何も言わず、近づき、迷いのない手つきでジンの額へ布を当てた。
軽く、汗を拭う。
頬の横、首元、装束の襟元まで、手際よく布が滑る。
「あっ……」
突然の距離の近さに、ジンの顔が少し赤くなる。
汗を拭き終えると、カエデはそのままジンの腰装へ手を伸ばした。
引っかかっていた装衣をするりと取り出し、軽く振って広げる。
そして、まるで子供に着せるように、ジンの肩へさっと羽織らせた。
「次はご自分で、してくださいね」
穏やかな声だった。
「はっ、はい……」
ジンは小さく頷く。
その様子を少し離れた場所から見ていたリンが、静かに視線を逸らし、
「はぁ……」
リンは小さくため息をつきつつ、周りを見渡している。
市場へ向かう人の流れ、門の警備、街道を行き交う荷車。
視線だけが静かに動き、周囲の様子を確かめていた。
三人はそのまま、楽水の関所と門のあいだの街道へ外側から入り、
市場へ続く人の列に、さりげなく紛れ込んだ。
(と、とにかく、ついていこう)
前を行く二人の背を見失わないよう、ジンは慌てて足を合わせる。
気づかれないほど自然に歩調を落とし、そのまま順番を待つ形になった。
(だ、大丈夫かな俺、できてるのか.......)
周囲には、さまざまな人が並んでいる。
荷を背負った農民。
籠を担いだ女。
行商人。
誰もが門を目指し、ゆっくりと列を進んでいた。
ジンは人の列の向こうに見える門を見上げる。
(ここまで、いろんな門などを、超えてきた……多いんだ……)
門の影が街道に長く落ちている。人の声、荷車の軋む音、馬の足音。
街の入口特有のざわめきが、ゆるやかに流れていた。
その前を歩いていたカエデが、ふと横に振り返る。
「通常は四人で行動する時は、二手に分かれますが、今は三人なので、このままいきましょう」
そう言うと、カエデは歩調を崩さないまま再び前を向く。
そのすぐ横を、リンが黙って頷き並んで進む。
ジンはその少し後ろから、人の列に押されるようにしてついていった。
門の影が、少しずつ近づいてくる。
三人は順番を待ちながら、ゆっくりと前へ進んでいった。
そのとき、前を向いたまま、カエデがふと呟く。
「どうやら、ツカサの方も終わったようですわね」
隣で周囲を見ていたリンが、軽く首を傾けた。
「うん、なんか静かになった」
その言葉に、ジンは思わず二人の顔を見た。
「えっ……ここからわかるんですか!?」
さっきまで荒れていた呼吸が、ようやく少し整い始めている。
カエデは小さく微笑む。
「ええ、常にツカサから気は発せられていますからね」
リンがちらりとジンを見る。
「お前は、わらかないのか?」
急に視線を向けられ、ジンは一瞬だけ言葉に詰まった。
「えっ、いや、言われてみれば……」
そう答えながらも、今はまだわからない。
しかし、ここで「わからない」とは、言えなかった。
人の列がまた少し進む。
門の影がすぐそこまで迫り、やがて三人の順番が回ってくる。
門の影の下で、カエデは腰装から山嵐の木で作られた小札を一枚取り出した。
長年使い込まれた、里独自の幾何学模様が刻まれた札だった。
それを門番に、すっと見せる。
門番は一瞬だけ目を上げ、それを確かめると軽く頷いた。特別な検査はない。
手続きを手早く済ませ、三人をそのまま街の中へ通す。
周囲の何人かがちらりと視線を向ける。
――ああ、また山の連中が来たか。
そんな程度の、慣れた反応だった。特に誰も気に留める様子はない。
そのとき。
書類を扱っていた門番の一人が、少し慌てたように顔を上げた。
「カ、カエデさん、今度、食事とかどうですか?」
呼び止められたカエデは、足を少し止めて振り向き、慣れた様子で答えた。
「ええ、今度機会がありましたら」
その声は穏やかで、柔らかかった。
「は、はい!」
門番は嬉しそうに頷く。
その横を通り過ぎながら、ジンは妙に感心していた。
(あっ、誘っていいんだ……でも機会があれば……って)
(その言葉は、誘うかどうかの可否の責任を“運”や“状況”に任せながら、自分の意思も示して、相手の面子も立てる……丁寧にすべてを不確定な未来に丸投げできる言い方だ。まるで技……そして天に委ねるかのような……)
少し歩きながら、さらに考え込む。
(いや、本当にカエデさんは行きたいのかもしれない……だからあの言葉は――)
門を抜けると、光が一気に広がった。
泰黎国の凛とした「青」の世界とは対照的に――
太陽はすでに高く昇っていた。海抜もそれほど高くないこの地では、日差しが肌を優しく叩くような温かさを持っている。
どこか遠くから、異国の声が飛ぶ。
「トゥヴェチカーヤ!」
意味は分からない。だが、その気持ちは伝わってくる。
そしてここが、自分の知らない人々が集まる場所なのだということも。
市場の入り口には、色があふれていた。
南の大国から運ばれてきた、ぶどうのような実をつけた果物。
陽を吸い込んだように鮮やかな野菜。
その隣では、東の襄桜産の剣が並べられている。
磨き込まれた刃が、春の強い陽光を跳ね返し、眩い光沢を放っていた。
さらに奥では、北の港から届いた魚が氷の上に並び、水滴が光を弾いている。
人の声。荷車の軋み。水路を流れる水音。
すべてが重なり合い、この街の呼吸を作っていた。
泰黎国の対魔の里から、この楽水の入り口までは、
本来ならそう時間のかかる距離ではない。
だが今日は、ジンの足に合わせていたため、いつもよりずいぶん時間をかけてここまで来ている。
(着いた!……すごい走った、一体どれだけ……国も越えた)
人の流れの中で立ち止まりそうになりながら、ジンは胸の奥で小さく息を吐く。
(初めてだ)
泰黎国から楽水ほどの距離を、一気に走り抜ける。
それはジンが、まだ一度も経験したことのないことだった。
元々の任務の目的それ以前に――この楽水まで来る。
それだけでも、今のジンには小さな、いやジンにとっては確かな達成感があった。




