一、伍「神羅顕現」
静かだ。
だが、それは“音がない”静けさではない。
どこか整いすぎている。
葉擦れが一定。虫の羽音も周りに合わせる様に調和をとっている。
獣の気配が、薄い。
まるで――
森が、息を合わせているような。
カエデが足を緩める。
「今日の森は、少し違いますわね。獣の声、風の流れ……」
視線は動かさない。だが、感覚を広げている。
ツカサは首を傾げる。
「えっ、そう?」
「うん……違う気がする」
リンの声は低い。いつもの無表情の奥に、わずかな緊張。
ジンは耳を澄まし、森を注意深く見渡す、そして匂い......
(獣の声……風の流れ……、••••••?)
正直、はっきりとは分からない。
だが。
空気が、いつもの森よりも少し軽く通っている気がする......
「まぁ、いいでしょう。行きましょう」
カエデが前に出る。
しかし数十歩進んだところで――
リンが止まった。
「姉様。明らかに変だよ」
声が硬い。
カエデも即座に止まる。
「ええ。いったん止まりましょう」
四人は山嵐の太い枝の上に、そのまま身を低くして静止した。
葉が擦れる音さえ、どこか遠い。
一旦の静寂……
呼吸を少し深くし、整える。胸の内側の鼓動だけが、妙に近い。
カエデはどこともつかない所に、目をやる。
視線は宙を撫でるように、ゆっくりと。
「この付近の空気……魔素の流れが明らかに変ですわ」
わずかな間。
「そして、はっきりと何者かの強い霊気が見えます。ここまで広範囲に濃く広がるのは、見たことがありません」
いくつもの戦場や霊場を、目にしてきたカエデですら、
その声音には、かすかな慎重さが混じっていた。
木々の緑に、説明のつかない淡い差し色が混じり、
影の縁が、かすかにきらめく。
空気の層が、薄く光を孕んでいるように見える。
ツカサも眉をひそめる。
「あー……確かにな。感じたことのない気配だ」
軽く言っているが、腰の重心が落ちている。
リンは目ではもちろん、自身の肌身にも直にその気配を感じていた。
「すごい、なんてもんじゃないよ。ちょっと……怖い」
珍しく、正直な感想。
ジンも、その空気、気配を改めて感じようとしている。
(そんなになのか……?......うん......なにか......見える......?
空気、魔素......いつもよりも調和している気が、しないでもない......霊気......ぼやっと......)
そんなジンの体は、無意識のうちに少し震えていた。
そして、現在地を確認する様にあたりを見渡すカエデの眉はほんのわずかに寄っている。
「この泰黎国は龍泉の近く、そしてこの森もその影響は受けている、それなのになぜ今日はこんな気の流れに......」
龍泉――
世界には気の通る道があり、それは網目のように大地を巡っている。
その流れが交差し、溢れ出す場所を“龍泉”と呼ぶ。
泰黎国の西には、その一つが存在している。
「姉様、私も今日この森に入った時から、何かおかしいと思ってて......」
リンは、場の気配に関しては一族の中でも鋭い方だった。
「まーいいんじゃね? 行こうぜ」
ツカサはいつもの軽い口調。だが足は止まっている。
(りゅうせん!?......なんだったけ、それ……そういえば昔、里役のマヒロさんが、そんなこと言ってたかな……)
ジンは言葉はなんとなく思い出せる、だが内容は思い出せないでいた。
あたりを見渡し終えようとしてたカエデは、
ふと奥の山嵐の木の後ろにある、影のようなものに目を止めた。
一瞬、呼吸が止まる。
「……うん?」
視線が固定される。
「あれは?……なんでしょう……」
声がわずかに低くなる。
「明らかに、あそこを中心に、流れている……」
風も、葉擦れも、虫の羽音も。
わずかなズレが、あの一点を境に揃っている。
まるで森が、“そこに合わせている”ようだった。
リンもカエデと同じ方向を見る。
「……っ」
言葉が出ない。
体に手を押し当て、震えを抑えようとしている。
ツカサは怪訝そうに眉をひそめる。
「うん? どうした?」
ツカサも同じ方向に顔を向ける。
そして、わずかに目を細めた。
ジンは遅れて視線を追う。
(えっ!?なにかいた!?)
それは期待なのか、警戒なのか、自分にも判別がつかない。
山嵐の木に半ば隠れてはいるが、胴の頂きが、人の胸を越える。
ゆったりと揺れる尾。輪郭は獣に似ている。
だが、地面からわずかに浮いているようにも見える。
足元の草が、不自然に揺れていない。
そして――
カエデの感じた霊気は、どうやらその獣らしきものから発せられているようだった。
ただ強いのではない。
森の流れが、そこを中心に整っている。
リンが小さく言う。
「姉様、あれ……ちょっとまずいんじゃないかな……」
その響きは、いつもの平坦さを失っていた。
ツカサの軽い表情も、消えている。
ジンは立ち尽くす。
怖い、と断言はできない。
だが、体が前に出ない。
その影は、まだこちらを見ていない。
森は、静まり返っていた。
風はある。葉は揺れている。
それなのに――音が遠い。
まるで、森そのものが呼吸を潜めているかのようだった。
カエデは、リンの言葉に気づかない。視線は、ただ一点。
瞬きすら、忘れている。
ツカサが低く呟く。
「なんだあれ……」
軽さはなく、目は見開いている。
ジンの思考が一瞬跳ねる。
(うま? 大きい馬……!?)
そう見えても無理はない。
あの体躯と輪郭なら、思い浮かぶのは馬か鹿くらいだ。
そして――
その獣らしきものの姿が、ゆっくりと、木の陰から顔を出した。
枝葉の隙間から、輪郭が現れる。
光を受けて、角のようなものが淡く縁取られる。
カエデの声が、掠れる。
「あ、あれは……なに……」
リンも、瞬きひとつせずに見据えている。
「……」
リンの肌がピリつく。
ツカサも目を細める。
ただ“見る”のではない。感じ取ろうとしている。
霊気の流れを。その手触りを。
ジンも視線を離せない。
胸の奥の、どこか深いところが、初めて触れられたようにざわつく。
覚えがない。記憶のどこにも、これに似た感触がない。もっと前――当てはまるものがない。
それは、夜を押し分けて現れる、静かな朝の光にも似ていた。
白――いや、月光を溶かしたような淡い銀色の体毛。薄く湿った毛並みが、霧をまとっている。
細く長い四肢は鹿にも似ているが、筋肉の付き方は馬のそれに近い。
だが重さを感じさせない。
その体の輪郭が、かすかに滲んでいるようにも見える。
光を放っているというより、周囲の明るさが、そこだけ柔らいでいるような――そんな錯覚。
足の先は地面からわずかに浮き、
ゆるやかに揺れる尾。風に合わせているのではない。風が、尾の動きに合わせている。
顔は鹿のように細く、だが額には一本の角。
螺旋を描く白銀の角は、磨かれた骨のように滑らかで、その先端だけがかすかに青白く光を帯びている。
そして瞳。
透き通る深い蒼。こちらを見ているのか、森を見ているのか分からない。
(!?……目があった? ような……)
ジンは少し目が合った様な合わなかったようなそんな気がした。
威圧ではない。
支配でもない。
ただ――
在るべき中心に、在る。
その瞬間。
カエデの脳裏に、幼い日の記憶が走った。
里の拠の小舎。木の床。並ぶ子供たち。
里役に見せられた神獣の古い絵。
――体は自ら淡く光を帯び、鹿でも馬でもない姿を取り、
――地を踏まず、草すら揺らさず、
――額には、天を衝く一本の角を戴く。
あの絵に――
似ている。
確証はない。
だが。
この霊気。
この森の整い方。
この静けさ。
(……間違い、ない)
カエデの口元が、わずかに震える。
「あ、あれは……神羅?……」
「えっ!?姉様なんて!?」
カエデの横に居たリンはカエデに振り向いた。
「うん?しんら?なんて?」
横で、ツカサは眉間をわずかに寄せる。角の形、脚の位置、霊気の色、濃度――本能的に測っている。
(うん!?、しん、なんとか?......)
ジンの頭は追いつかない。
カエデはもう一度、神羅を見る。呼吸を整え、森の魔素の流れをなぞる。
調和をとるように巡る気が、確かにあれを中心に整っている。
「あ、あの姿、昔、少し教えてもらった、伝説の神獣、神羅の姿のような気がしますわ.....おそらく......」
声は揺れている。だが視線は、確信に近い。
「す、すごい.......」
リンの喉が小さく鳴る。圧倒と畏れが混じった声が漏れる
「神羅!?......えっ昔?教えてもらった事あったかなー」
ツカサは軽く息を吐く。口調は変わらないが、瞳は鋭い。
神羅
この世界の“主人”が現れる時、その兆しとしてその者の前に姿を現すとされる神獣。
荒らさず、奪わず、支配せず。ただ中心に在り、流れを正す存在。
この世界の理が、ひとつの形として顕れたもの。
(えっ?俺、全然知らないけど......、伝説の!?)
ジンは取り残されたような感覚を覚える。だが胸の奥がざわつく。怖いというより、圧倒。
神羅は何もしない。尾がゆるやかに揺れ、風がそれに従う。森と同じ呼吸をしている。
「ですが、言い伝え通りなら、平和を好む神獣、こちらが何もしなければ、何もないでしょうから、このまま行きます」
判断を下したカエデの声は、努めて落ち着いている。
「うん、私もそれがいいと思う」
妹が小さく頷く。視線はカエデの顔を見つめている。
ジンも慌てて続く。
「は、はい......」
(お、俺も全くの同意見だと思う......)
三人の空気が、わずかに後ろへ引く。
だが――
ツカサだけが、動かない。
沈黙が、不自然に長い。
振り返ったカエデの瞳が、静かに見開く。
「ツカサ?どうしました?」
その視線を受けながらも、ツカサは神羅から目を離さない。
横顔は静かだ。興奮なのか、喜びなのか、不安なのか。
ただ、決めた目。
そして低く告げる。
「いや、お前達は、先に楽水に、行っててくれ」




