第九話|巌窟牢送り
──何も分からないまま、行き先だけが決まる
判決から三日。牢へ向かう道は、思っていたより静かだった。
引き立ての足音は規則正しく、鎖の音も最小限に抑えられている。見物人はいない。石を投げる者も、罵る声もない。
それが一番、堪えた。
傳次郎は歩きながら、頭の中で数を数えていた。
一歩、二歩。
歩幅を一定に保つと、呼吸が乱れない。
呼吸が乱れなければ、考えが散らばらない。
──ここまで来た。
言葉にしないと、現実は輪郭を失う。輪郭を失った現実は、手触りだけを残す。
冷たい。
それが、今の世界だった。
*
巌窟牢は、江戸外れにあった。
外れ、という言葉は便利だ。中心から離れているだけで、責任も感情も薄まる。
山の中腹。岩肌に、黒い口が開いている。入口は小さい。人一人がかがんで通れる程度。だが、中は深い。
岩を穿って作られた牢は、昼でも薄暗い。湿った空気が肌にまとわりつく。水の音がどこかで落ちている。落ちているのに、どこからかは分からない。
「ここだ」
役人が言った。
言い方は、案内に近い。
扉が開き、傳次郎は中へ押し込まれた。
扉は閉じる。
音は、重くない。重くないから、戻らない。
*
最初に感じたのは、匂いだった。
湿気、土、古い藁、そして人。
人の匂いは、時間が溜まった匂いだ。
牢の中には、すでに何人かいた。
目を向ける者もいれば、向けない者もいる。向けない方が、礼儀だという顔をしている。
傳次郎は、指定された場所に座った。
背を壁につける。
冷たい。
冷たい壁は、考えを整える。
温かいものは、希望を連れてくる。
ここには、冷たいものしかない。
*
夜になった。
夜だと分かるのは、音が少し変わるからだ。昼間は遠くの人の気配がするが、夜は水の音が勝つ。
傳次郎は、目を閉じた。
閉じても、暗さは変わらない。
お美津の顔が浮かんだ。
浮かんで、消えそうになる。
それは、巌窟牢へ送られる前。奉行所での、最後の面会。
あの短い時間の記憶だった。
*
格子の向こうに、お美津が立っていた。
立っているだけで分かる。立ち方が、強くなっている。
着物は、いつもより地味だ。髪も、きっちりと結われている。
泣いた跡はない。泣かないと決めてきたのだろう。
目が合う。
お美津は、何か言おうとした。
言おうとして、やめた。
傳次郎も、何か言おうとした。
──待っていてくれ。
だが、その言葉は、嘘になる。
終身とは、待つ意味がない長さだ。
傳次郎は、頷いた。
頷くことで、言葉を置き換える。
──大丈夫だ。
その頷きが嘘だと分かっていても、嘘でいいと思った。
真実は、ここでは役に立たない。
お美津は、最後に一度だけ、強く息を吸った。
そして、小さく頷き返した。
その頷きの意味を、傳次郎は理解した。
──私も、大丈夫。
それから、お美津は背を向けた。
背中は、揺れなかった。
その背中を、傳次郎はずっと見ていた。
見ていて、やがて格子の向こうが空になった。
*
記憶は、そこまでだった。
傳次郎は目を開けた。
目を開けた瞬間、岩の壁が目に入る。
格子はない。お美津もいない。
牢の暗さは、変わらない。
もう、会うことはない。
それでいい。
未来は、こういう場所に近づけてはいけない。
傳次郎は、お美津の顔を、もう一度だけ思い浮かべた。
思い浮かべて、それから、心の奥へしまった。しまわないと、ここでは生きられない。
傳次郎は眠った。
眠れることに、少し驚いた。
夢は見なかった。
夢を見ない眠りは、時間を短くする。
目を覚ますと、同じ朝だった。
昨日の続き。
明日も、たぶん同じ。
終身、という言葉の意味が、ゆっくり染みてくる。
長い、ではない。
変わらない、だ。
*
牢の奥から、咳払いが聞こえた。
乾いた咳ではない。湿って、深い。
「新入りか」
声がした。
低く、落ち着いている。
傳次郎は、そちらを見た。
暗がりの向こうに、人影がある。
「……はい」
「そうか」
それだけ言って、声は黙った。
だが、その一言で、空気が少し変わった。
牢は、場所だ。
だが、人がいれば、関係が生まれる。
傳次郎は、そのことを、まだ知らない。
*
夜が来る。
水の音が、また強くなる。
傳次郎は、壁に背を預け、目を閉じた。
算盤の音を思い出そうとしたが、出てこない。
代わりに、遠州屋の帳場の匂いが浮かんだ。
紙と墨と、人の気配。
あの場所は、もう戻らない。
戻らないものは、数えない。
ここからは、数えない時間が始まる。
何も分からないまま。
ただ、終わらない場所で。
第一部は、そこで終わった。
少年は、理由を知らずに落ちた。
落ちた先で、まだ、何も始まっていない。




