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大江戸巌窟殿 恨みは捨てない── ただ、置き場所を決める  作者: 真野真名


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第八話|裁きは静かに進む

 ──声を上げるほど、形は固まる





 裁きというものは、雷のように落ちてくるわけではない。

 むしろ、霧に似ている。音もなく広がり、気づいたときには足元が見えなくなっている。


 傳次郎は、その霧の中にいた。


     *


 奉行所の一室。

 連行されてから、十日が過ぎていた。

 昼か夜かもわからない薄明かりの中で、傳次郎は座っている。畳は冷え、壁は湿っている。外の音は、遠い。


 「弁明はあるか」


 そう問われるたび、傳次郎は同じことを答えた。


 「ありません」


 正確に言えば、ある。

 だが、「ありません」と言うしかなかった。


 なぜなら、ここで求められているのは、説明ではない。

 説明は、話を長くする。

 話が長くなると、形が崩れる。


 形を崩したくない人間が、ここには揃っていた。


     *


 傳次郎は、自分の言葉が、少しずつ軽くなっていくのを感じていた。

 言えば言うほど、重さが抜ける。


 「帳簿は正確です」


 そう言ったとき、役人は頷いた。


 「正確であることと、意図がないことは別だ」


 意図。

 その言葉が、傳次郎の胸に引っかかる。

 意図がないことを、どう証明すればいいのか。

 算盤なら証明できる。

 数字なら合うか合わないかで決まる。


 だが、意図は数字ではない。


     *


 書付が読み上げられる。


 「帳簿に不自然な欠落がある」

 「異国船との接点が疑われる」

 「噂が複数存在する」


 一つ一つは、弱い。

 だが、並べると、強い。

 弱いものは、集めると形になる。

 形になったものは、もはや個々には戻らない。


 傳次郎は、それを算盤の理屈で理解してしまった。


 ──これは、合っている。


 数字ではなく、話の勘定が。


     *


 途中、伊兵衛が呼ばれた。

 遠州屋の番頭。

 傳次郎は、胸の奥がわずかに温かくなるのを感じた。


 伊兵衛なら、わかってくれる。

 帳場のことを。

 分担のことを。

 自分が何をして、何をしていないかを。


 だが、伊兵衛の言葉は、慎重だった。


 「傳次郎は、まじめな手代です」


 それだけだ。


 まじめ。

 その言葉は、評価ではあるが、弁護ではない。


 「しかし、帳場を預かっていたのは事実です」


 伊兵衛は、そう付け足した。

 事実。

 事実は、いつも人を裏切らない。


 だが、助けてもくれない。


     *


 お美津の名が出たのは、夕刻だった。


 「婚約者がいるそうだな」


 唐突な問いだった。

 傳次郎の胸が、一瞬だけ温かくなった。

 お美津。あの笑顔。あの優しさ。

 だが、すぐに冷えた。この場所で、お美津の名を出してはいけない。

 だが、唐突な問いほど、答えは誘導される。

 「はい」


 「将来を考えていた?」

 「……はい」


 役人は、そこで頷いた。


 「将来のために、銭が必要だった、ということは」


 傳次郎は、息を吸った。

 吸って、吐く。

 そして、初めて、声を荒げた。


「違います。お美津は、そんなことを望んでいません。私も、そんなことは考えていません」


 役人は、静かに頷いた。

「つまり、婚約者のことを、強く意識していたと」


 傳次郎の言葉は、そのまま、動機の証拠として記録された。

 「違います」


 だが、その否定は、もう弱い。


 将来。

 銭。

 動機。


 三つ揃えば、話は完成する。


     *


 夜、書類は整えられた。

 整えられた書類は、音を立てない。

 判は静かに押される。

 朱は、鮮やかだ。


 「終身、巌窟牢」


 その言葉は、読み上げられるときでさえ、淡々としていた。


 傳次郎は、その言葉を何度か頭の中で繰り返した。

 終身──巌窟牢。

 まだ、実感がない。実感がないまま、世界は進む。


 ──終身。

 それは、長い、という意味ではない。


 終わる、という意味だ。


     *


 傳次郎は、何も言わなかった。

 言えば言うほど、声は削られる。

 削られた声は、最後には、ただの空気になる。


 連れて行かれる廊下で、主膳とすれ違った。

 主膳は、目を合わせなかった。

 合わせなかった、というより、合わせる必要がなかった。


 仕事は終わっている。


     *


 外に出ると、夜だった。

 江戸の空は、特別ではない。

 牢へ向かう道すがら、傳次郎は思った。


 ──何が悪かったのか。


 答えは、出ない。

 出ないままでも、裁きは進む。

 それが、この場所のやり方だ。

 裁きは、怒らない。

 叫ばない。

 泣かない。

 ただ、静かに、前へ進む。



 人ひとり分くらいなら、何事もなかったように、飲み込んで。




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