第七話|奉行所という場所
──ここでは、人は裁かれない。整えられる
奉行所という場所は、音がしない。
正確には、音はある。足音、紙の擦れる音、咳払い。だがそれらはすべて、同じ高さに揃えられている。大きくもならず、小さくもならない。感情が、音になる前に削られている。
石川主膳は、この静けさが好きだった。
静けさは、判断を正しく見せる。
*
傳次郎が連行されてから、三日。主膳の机の上には、書付が積まれていた。
遠州屋。
帳場の若い手代。
異国船との密貿易の噂。
噂、という言葉は、もう書類には出てこない。
代わりに使われているのは、「情報」「証言」「一致」。
「複数の証言が一致しています」
主膳は、そう報告した。
一致、という言葉は便利だ。
上役は、腕を組んだ。
「証拠は」
「帳簿に不自然な点があります」
不自然。
これもまた、便利な言葉だ。
自然でない、と言っているだけで、間違っているとは言っていない。
*
主膳は、奉行所の仕事の核心を知っている。
それは、「すべてを明らかにする」ことではない。
揉めない形にする。
長引かせない。
上に説明できる。
この三つが揃えば、真実がどこにあるかは二の次だ。
真実は、見つけるものではない。作るものだ。いや、整えるものだ。
遠州屋の件は、条件を満たしていた。
噂が広がっている。
帳簿に欠落がある。
若い手代がいる。
若い、というのは大事だ。
若い者は、単独犯にしやすい。
単独犯は、話が簡単だ。
*
主膳は、傳次郎の取り調べの記録を読み返した。
否認。
一貫している。
否認は、珍しくない。
無実でも、そうでなくても、否認はする。
主膳は、そこに価値を置かない。
「帳簿を預かっていたのは事実か」
「はい」
「異国船との接点は」
「ありません」
「では、なぜ帳簿に欠落が」
「整理のためです」
整理。
その言葉は、主膳の耳に心地よくない。整理とは、意図がある行為だ。
意図があるなら、疑いは成立する。
*
主膳は、取り調べの場で、質問を少し変えた。
「誰の指示ですか」
傳次郎は、言葉を探した。
指示。
その言葉は、初めて聞く形だ。
「誰の、ということは……」
「あなたが単独で判断した、ということですか」
誘導ではない。確認だ。
確認は、答えを限定する。
傳次郎は、答えた。
「帳場の仕事として……」
「つまり、あなたの判断ですね」
主膳は、筆を走らせた。
その瞬間、紙の上では、話が決まった。
*
奉行所には、「調べすぎない」という知恵がある。
調べすぎると、別の名前が出てくる。
別の名前が出ると、責任の所在が散る。
責任が散ると、誰も引き取らない。
引き取られない話は、宙に浮く。
宙に浮いた話は、厄介だ。
だから、引き取れる形に整える。
若い手代。
帳場。
異国船の噂。
引き取れる。
*
主膳は、権蔵の名前を、書類から外した。
帳簿を書いた人間。
だが、帳場を預かっているわけではない。
責任の範囲が曖昧だ。曖昧なものは、書類に書かない方がいい。書くと、話が複雑になる。
外す理由は、十分だ。
佐吉の名前も、もちろん外した。
噂の出どころなど、書類には不要だ。
噂は、自然発生するものとして扱われる。
出どころのない噂は、「広く流れている」ことになる。広く流れている噂は、重い。
*
上役は、最終的に頷いた。
「では、この線で進めよう」
線。
それは、事実の線ではない。
話の線だ。
主膳は、深く頭を下げた。
「承知しました」
その声は、いつもと同じ高さだった。
*
夜、主膳は奉行所を出た。
江戸の空気は、昼より少し柔らかい。
今日も仕事をした。
滞りなく。
だが、歩きながら、主膳はふと考えた。
──もし、本当に無実だったら。
その考えは、すぐに消えた。
無実かどうかを決めるのは、主膳ではない。
主膳の仕事は、器を整えることだ。
器が整っていれば、中身は何であれ、収まる。
遠州屋の伊兵衛が嘆願書を提出したらしいが、整ったものはもう動かない。
奉行所という場所は、そうやって回っている。
*
一方、牢の中で、傳次郎は座っていた。
薄暗い。
湿っている。
聞こえてくるのは、遠くの水音だけだ。
ここでは、噂は歩かない。
書類も来ない。
ただ、時間だけが、一定の速さで進む。
傳次郎は、初めて、自分がどこかへ「収められた」ことを理解し始めていた。
悪意はなかった。
巨大な陰謀もない。
ただ、止まらなかった。
それだけで、人はここに来る。




