第六話|噂は歩き出す
──足が生えたものは、もう口には戻らない
佐吉は、自分が何か「やった」とは思っていなかった。
正確に言えば、「言った」だけだ。
言っただけのことが、やる、になるのは、だいぶ後の話だと思っていた。
噂というのは、言葉の中でもっとも責任が軽い。
そう佐吉は信じていた。
見ていない。
聞いただけ。
冗談だ。
その三つを揃えれば、どんな言葉でも無罪になる。
少なくとも、酒場では。
*
その晩、佐吉は例の酒場にいた。
傳次郎が奉行所へ連れて行かれた、その日の晩だった。
奉行所の役人が遠州屋に入ったという話は、もう店の端から端まで届いている。
「聞いたか? 遠州屋」
「帳場の若いのが捕まったってよ」
「異国絡みだろ?」
佐吉は、杯を口に運びながら、その会話を聞いていた。
胸の奥が、ひくりと動く。
──捕まった?
捕まるほどの話だとは、思っていなかった。
思っていなかったが、否定する気持ちも湧かなかった。
なぜなら、その噂の流れは、あまりにも「それらしい」からだ。
遠州屋は廻船問屋。
廻船といえば海。
海といえば異国船。
異国船といえば密貿易。
段階を踏めば、誰でも同じ結論に辿り着く。
順番を信じる佐吉には、納得のいく流れだった。
*
「佐吉」
声をかけてきたのは、顔見知りの男だった。
名を言うほどでもない。
こういう噂話の中では、名前は不要だ。
「お前、何か知ってるんじゃないのか」
「何が」
「遠州屋だよ。前に言ってただろ。何かあるって」
佐吉は、心臓が一拍遅れるのを感じた。
遅れた拍子に、口が先に動く。
「さあな。俺は聞いただけだ」
「誰から」
「誰だったかな……船宿のやつとか、そんなところだ」
嘘ではない。
船宿の近くで聞いた。
誰から聞いたかは、もう重要じゃない。
「やっぱりな。怪しいと思ってたんだ」
男は満足そうに頷いた。
頷きながら、さらに付け足す。
「帳場を預かってる若いの、算盤が異様に早いらしいな」
「……らしいな」
「異国のやり方を知ってるんじゃねえのか」
佐吉は、杯を置いた。
喉が、急に渇いた。
算盤が早い。
それは、傳次郎の長所だったはずだ。
長所は、場所を変えると、疑いになる。
*
噂は、佐吉の手を離れていた。
離れたものは、勝手に増える。
佐吉は、店を出たあと、夜風に当たりながら歩いた。
遠州屋の前を通ると、店は閉まっていた。
いつもなら帳場に灯りがある時間だ。
その暗さが、胸に刺さる。
──やりすぎたか。
そう思ったが、同時に別の声も聞こえた。
──やりすぎたのは、あっちだ。
廻船問屋なんて、大きな金が動く。
動く金には、裏がある。
裏があるのに、何もない顔をしているのが悪い。
佐吉は、自分にそう言い聞かせた。
*
翌日、噂はさらに形を変えていた。
「遠州屋は異国と繋がってた」
「帳場の若いのが証拠を隠してた」
「奉行所が裏まで掴んでるらしい」
裏。
掴んでる。
どれも、誰も確認していない言葉だ。
確認していないからこそ、安心して言える。
佐吉は、その輪の中にいた。
いたが、もう中心ではなかった。
噂は、中心を必要としない。
むしろ、中心がない方が強い。
*
昼過ぎ、佐吉は遠州屋の裏手で立ち止まった。
奉行所へ連れて行かれたと聞いた傳次郎の姿は、もちろんない。
代わりに、近所の者がひそひそ話している。
「可哀想にねえ」
「でも、何もないなら捕まらないでしょ」
「そうよねえ」
佐吉は、その会話を聞いて、背中が冷たくなった。
その中に、お美津の姿があった。
小間物屋の前で、じっと遠州屋の方を見ている。その顔は、泣いた跡があった。
佐吉は、目を逸らした。
お美津を、自分の方に振り向かせたかった。だが、こんな形ではなかった。
何もないなら捕まらない。
それは、正しいようで、正しくない。
ただ、噂は正しさを必要としない。
*
その夜、佐吉は夢を見た。
算盤の珠が、床にばらまかれる夢だ。
拾っても拾っても、数が合わない。
一つ足りない。
一つ多い。
珠の順番が、狂っている。
目が覚めると、汗をかいていた。
胸の奥に、嫌な重さが残っている。
──噂は、歩き出した。
佐吉は、ようやくそう思った。
歩き出したものは、止まらない。
止めるには、踏みつけるしかない。
だが、踏みつける勇気はなかった。
*
その頃、奉行所では、噂が「情報」に変わっていた。
情報は、紙に書かれる。
紙に書かれたものは、事実に近づく。
石川主膳の机の上には、いくつかの書付が並んでいる。
どれも同じ話を、少しずつ違う言葉で書いている。
「噂が広がっています」
主膳は、そう報告した。
上役は、書付を見て頷いた。
「噂がある、という事実は重いな」
重い。
噂が重いのではない。
噂がある、という形が重い。
主膳は、その言葉に安堵した。
自分の判断は、間違っていなかった。書付を整理しながら、主膳は思った。
噂がこれほど広がっているなら、やはり何かあるのだろう。
噂と事実は、どこかで繋がっている。そう信じることが、仕事を楽にする。
*
一方で、傳次郎は、奉行所の一室にいた。
薄暗い部屋。
冷たい床。
自分の名前が、知らない形で歩き回っている。
それを、ただ聞かされる。
「異国船との取引について」
「帳簿の改竄について」
どちらも、身に覚えがない。
説明しようとすると、遮られる。
遮られるたびに、言葉が細くなる。
噂は、歩く。
人は、立ち止まる。
その差は、埋まらない。
夜が更けるころ、傳次郎は、初めて思った。
──これは、戻れない。
お美津の顔が浮かぶ。遠州屋の帳場が浮かぶ。算盤の音が聞こえる。
すべてが、遠い。
何が、どこから始まったのか。
誰が悪いのか。
そういう問いは、もう意味を持たない。
噂は歩き出し、裁きは準備されている。
静かに。




