表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大江戸巌窟殿 恨みは捨てない── ただ、置き場所を決める  作者: 真野真名
第一章 裏切りは藪の中

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/13

第六話|噂は歩き出す

 ──足が生えたものは、もう口には戻らない





 佐吉は、自分が何か「やった」とは思っていなかった。

 正確に言えば、「言った」だけだ。

 言っただけのことが、やる、になるのは、だいぶ後の話だと思っていた。


 噂というのは、言葉の中でもっとも責任が軽い。

 そう佐吉は信じていた。

 見ていない。

聞いただけ。

冗談だ。

 その三つを揃えれば、どんな言葉でも無罪になる。

 少なくとも、酒場では。


     *


 その晩、佐吉は例の酒場にいた。

 傳次郎が奉行所へ連れて行かれた、その日の晩だった。

 奉行所の役人が遠州屋に入ったという話は、もう店の端から端まで届いている。


「聞いたか? 遠州屋」


「帳場の若いのが捕まったってよ」


「異国絡みだろ?」


 佐吉は、杯を口に運びながら、その会話を聞いていた。

 胸の奥が、ひくりと動く。


 ──捕まった?

 

 捕まるほどの話だとは、思っていなかった。

 思っていなかったが、否定する気持ちも湧かなかった。

 なぜなら、その噂の流れは、あまりにも「それらしい」からだ。


 遠州屋は廻船問屋。

 廻船といえば海。

 海といえば異国船。

 異国船といえば密貿易。

 段階を踏めば、誰でも同じ結論に辿り着く。


 順番を信じる佐吉には、納得のいく流れだった。


     *


「佐吉」


 声をかけてきたのは、顔見知りの男だった。

 名を言うほどでもない。

 こういう噂話の中では、名前は不要だ。


「お前、何か知ってるんじゃないのか」


「何が」


「遠州屋だよ。前に言ってただろ。何かあるって」


 佐吉は、心臓が一拍遅れるのを感じた。

 遅れた拍子に、口が先に動く。


「さあな。俺は聞いただけだ」


「誰から」


「誰だったかな……船宿のやつとか、そんなところだ」


 嘘ではない。

 船宿の近くで聞いた。

 誰から聞いたかは、もう重要じゃない。


「やっぱりな。怪しいと思ってたんだ」


 男は満足そうに頷いた。

 頷きながら、さらに付け足す。


「帳場を預かってる若いの、算盤が異様に早いらしいな」


「……らしいな」


「異国のやり方を知ってるんじゃねえのか」


 佐吉は、杯を置いた。

 喉が、急に渇いた。

 算盤が早い。

 それは、傳次郎の長所だったはずだ。


 長所は、場所を変えると、疑いになる。


     *


 噂は、佐吉の手を離れていた。

 離れたものは、勝手に増える。


 佐吉は、店を出たあと、夜風に当たりながら歩いた。

 遠州屋の前を通ると、店は閉まっていた。

 いつもなら帳場に灯りがある時間だ。

 その暗さが、胸に刺さる。


 ──やりすぎたか。


 そう思ったが、同時に別の声も聞こえた。


 ──やりすぎたのは、あっちだ。


 廻船問屋なんて、大きな金が動く。

 動く金には、裏がある。

 裏があるのに、何もない顔をしているのが悪い。


 佐吉は、自分にそう言い聞かせた。


     *


 翌日、噂はさらに形を変えていた。


「遠州屋は異国と繋がってた」


「帳場の若いのが証拠を隠してた」


「奉行所が裏まで掴んでるらしい」


 裏。

 掴んでる。


 どれも、誰も確認していない言葉だ。

 確認していないからこそ、安心して言える。


 佐吉は、その輪の中にいた。

 いたが、もう中心ではなかった。


 噂は、中心を必要としない。

 むしろ、中心がない方が強い。


     *


 昼過ぎ、佐吉は遠州屋の裏手で立ち止まった。

 奉行所へ連れて行かれたと聞いた傳次郎の姿は、もちろんない。


 代わりに、近所の者がひそひそ話している。


「可哀想にねえ」


「でも、何もないなら捕まらないでしょ」


「そうよねえ」


 佐吉は、その会話を聞いて、背中が冷たくなった。


 その中に、お美津の姿があった。


 小間物屋の前で、じっと遠州屋の方を見ている。その顔は、泣いた跡があった。

 佐吉は、目を逸らした。

 お美津を、自分の方に振り向かせたかった。だが、こんな形ではなかった。

 何もないなら捕まらない。

 それは、正しいようで、正しくない。


 ただ、噂は正しさを必要としない。


     *


 その夜、佐吉は夢を見た。

 算盤の珠が、床にばらまかれる夢だ。


 拾っても拾っても、数が合わない。

 一つ足りない。

 一つ多い。


 珠の順番が、狂っている。


 目が覚めると、汗をかいていた。

 胸の奥に、嫌な重さが残っている。


 ──噂は、歩き出した。


 佐吉は、ようやくそう思った。

 歩き出したものは、止まらない。

 止めるには、踏みつけるしかない。


 だが、踏みつける勇気はなかった。


     *


 その頃、奉行所では、噂が「情報」に変わっていた。

 情報は、紙に書かれる。

 紙に書かれたものは、事実に近づく。


 石川主膳の机の上には、いくつかの書付が並んでいる。

 どれも同じ話を、少しずつ違う言葉で書いている。


「噂が広がっています」


 主膳は、そう報告した。


 上役は、書付を見て頷いた。


「噂がある、という事実は重いな」


 重い。

 噂が重いのではない。

 噂がある、という形が重い。


 主膳は、その言葉に安堵した。

 自分の判断は、間違っていなかった。書付を整理しながら、主膳は思った。

 噂がこれほど広がっているなら、やはり何かあるのだろう。

 噂と事実は、どこかで繋がっている。そう信じることが、仕事を楽にする。

 

     *


 一方で、傳次郎は、奉行所の一室にいた。

 薄暗い部屋。

 冷たい床。


 自分の名前が、知らない形で歩き回っている。

 それを、ただ聞かされる。


「異国船との取引について」

「帳簿の改竄について」

 どちらも、身に覚えがない。


 説明しようとすると、遮られる。

 遮られるたびに、言葉が細くなる。


 噂は、歩く。

 人は、立ち止まる。

 その差は、埋まらない。


 夜が更けるころ、傳次郎は、初めて思った。


 ──これは、戻れない。


 お美津の顔が浮かぶ。遠州屋の帳場が浮かぶ。算盤の音が聞こえる。

 すべてが、遠い。

 何が、どこから始まったのか。

 誰が悪いのか。

 そういう問いは、もう意味を持たない。



 噂は歩き出し、裁きは準備されている。


 静かに。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ