第五話|一行の欠落
──消したつもりのものほど、よく残る
権蔵は、自分が何かを「消した」とは思っていなかった。
正確に言えば、「消した」という言葉が大げさに感じられた。
省いた。
まとめた。
整理した。
それだけだ。
帳簿は、全部を書くためのものじゃない。読める形に整える。それが帳場の仕事だ。
権蔵は、そう理解していた。
*
その朝、権蔵は少し早く店に来た。
数日前から、胸の奥に妙な重さがあった。何かが起こる予感。だが、それが何なのかは分からない。
誰もいない帳場は、静かで、広い。
広い場所に一人でいると、自分が少し大きくなった気がする。
帳面を広げ、昨日の続きを確認する。
油樽。
運賃。
別帳。
問題はない。
数字は合っている。
嘘はない。
権蔵は、胸の奥でそう繰り返した。
──嘘はない。
言葉にすると、少し弱い。
だが、頭の中で言う分には、十分だった。
*
帳場が動き出すと、いつもの音が戻ってくる。
算盤の音。
紙をめくる音。
人の足音。
傳次郎は、いつもの場所に座っている。
いつものように算盤を弾いている。
カチ、カチ、カチ。
その音が、今日はやけに耳についた。
権蔵は、無意識のうちに自分の帳面を引き寄せた。
誰かに見られる前に、もう一度確認しておきたかった。
数字を追う。
合っている。
合っているが──
権蔵の指が止まった。
ない。
一行、ない。
書いていないのだから、当然だ。
当然なのに、胸の奥がひやりとした。
権蔵は、帳面を閉じた。
閉じてしまえば、見えない。
見えなければ、存在しない。
それでいい。
それで、いいはずだ。
*
昼前、伊兵衛が帳場を一巡した。
帳面を取り上げ、朱を入れ、黙って返す。
権蔵の帳面も、伊兵衛の手に渡った。
権蔵は、息を止めた。
止めたところで、何も変わらないのだが、体は勝手にそうする。
伊兵衛は、帳面をめくった。
ぱら、ぱら。
止まらない。
朱も入らない。
そのまま帳面は戻された。
「……よし」
伊兵衛はそう言った。
それは、傳次郎に向けた「よし」よりも、少しだけ軽かったが、権蔵には、飢えている分だけ十分だった。
──通った。
その瞬間、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ抜けた。
権蔵は、久しぶりに深く息をした。大丈夫だ。何も起きない。これからも、いつも通りだ。
権蔵はそう思っていた。その日の午後までは。
*
通ったものは、通り抜ける。
通り抜けた先で、別の誰かの目に触れる。
午後、奉行所の役人が二人、店に現れた。
権蔵は、その瞬間、息が止まった。
役人が来る。それ自体は珍しくない。
だが、今日は違う。何かが違う。
唐突ではない。
「最近の取り締まりです」と言えば、どの店も同じ顔をする。
だが、権蔵の顔だけは、同じではなかった。
「帳簿を拝見したい」
伊兵衛が対応し、帳場の帳面が差し出される。
権蔵は、少し離れたところで立っていた。
役人は、帳面をめくる。
ゆっくり。
丁寧に。
丁寧というのは、怖い。
速ければ見逃すものも、丁寧だと引っかかる。
「……この運賃は?」
役人の指が止まった。
止まった場所は、権蔵の帳面だった。
権蔵の喉が鳴る。
「別帳にまとめております」
伊兵衛が答えた。
声は落ち着いている。
「別帳?」
「はい。こちらに」
別帳が出される。
役人は、それを受け取り、見比べる。
沈黙。
その沈黙の中で、権蔵は思った。
──合っている。
──嘘はない。
だが、役人は首を傾げた。
「なぜ、こちらには記載がない」
なぜ。
その問いは、理由を求めているようで、実は確認を求めている。
確認とは、「疑っている」という意味だ。
*
伊兵衛は、一瞬だけ言葉を選んだ。
選ぶ時間があるということは、完全な正解ではないということだ。
「帳面を見やすくするためです」
役人は頷いた。
頷いたが、納得したわけではない。
「見やすさ、ですか」
その言い方が、帳場の空気を少し冷やした。
傳次郎は、黙ってそのやり取りを見ていた。
見ているだけだが、頭の中では算盤が弾かれている。
何かが、合っていない。
帳面の数字ではない。
人の動きだ。
「帳場を預かっているのは、誰ですか」
役人が聞いた。
伊兵衛は、少し間を置いてから答えた。
「傳次郎です」
その瞬間、権蔵の中で、音がした。
カチ。
算盤の音に似ているが、もっと乾いた音だ。
*
傳次郎は、一歩前に出た。
顔色は変わらない。
変わらないが、胸の奥がざわついている。
「私です」
「この帳面、見たことは?」
「はい。日々、確認しています」
嘘ではない。
だが、全部を見ているわけではない。
帳場の仕事は、分担だ。
分担には、見えない隙間がある。
「この一行が抜けていることには?」
役人の指が、権蔵の「一行の欠落」をなぞった。
傳次郎は、帳面を覗き込んだ。
運賃の記載がない。別帳に回されている。それ自体は問題ではない。だが、なぜ回した?
権蔵の仕事だ。権蔵が、評価されたくて帳面を整えた。
一瞬でそう理解した。
省略。
整理。
そして、誤解。
傳次郎は、口を開いた。
「別帳にまとめられています」
「なぜ、まとめた」
なぜ。
また、その言葉だ。
傳次郎は、権蔵の方を見た。
権蔵は、視線を逸らした。
その一瞬で、傳次郎は悟った。
これは、善意だ。
評価されたいという、善意。
善意は、悪意より厄介だ。
*
役人は、帳面を閉じた。
「話は、奉行所で聞こう」
それだけ言った。
伊兵衛が抗議しかけた。声を荒げるのではなく、言葉を選ぶ抗議だ。
だが、役人は聞かない。
「疑いがある以上、形式は踏む」
形式。
それは、内容より強い。
傳次郎は、何も言わなかった。
言えば言うほど、話は長くなる。
長くなる話は、形を与えられる。
権蔵は、動けなかった。
自分が原因だと、言えなかった。
言えば、これまでの努力が無駄になる。評価も、立場も、すべて失う。
言えば、すべてが自分に返ってくる。
返ってくるものを、受け取る準備が、権蔵にはなかった。
*
夕方、傳次郎は奉行所へ連れて行かれた。
伊兵衛は何度も抗議した。だが、役人は聞かない。
お美津が、遠くから見ていた。傳次郎は、その姿に気づいたが、何も言えなかった。
権蔵は、帳場の隅で立ち尽くしていた。傳次郎の背中が見える。その背中は、責めていない。ただ、まっすぐだ。
そのまっすぐさが、権蔵の胸を刺した。
空は、いつもと同じ色をしている。
帳場には、静けさが残った。
算盤の音がない。
あの澄んだ音。傳次郎が弾く、あの音。
権蔵は、初めて気づいた。自分は、あの音を羨んでいたのではない。憧れていたのだ。
権蔵は、自分の帳面を見下ろした。
一行、ない。
たった一行。
だが、その一行がなければ、世界は違って見える。
権蔵は、そのことを、ようやく理解し始めていた。
消したつもりのものほど、よく残る。
紙の上ではなく、人の人生の中に。




