第四話|空っぽの器
──入れ物が先で、中身はあとから入れるものだと思っていた
石川主膳は、自分を「融通の利く男」だと思っている。
そう思える程度には、叱られてこなかった。
主膳は奉行所の下役人である。
年は二十八。役人歴は十年になる。
下役人、と言ってしまうと雑だが、実際のところ雑な仕事が多い。上から降ってくる命令を受け取り、書き写し、確認し、時には聞き込みをし、時には「聞いたことにする」。
奉行所という場所は、事実と書類のあいだに、ちょうど人一人分の隙間がある。
主膳は、その隙間に滑り込むのが上手だった。
*
主膳はもともと、野心家ではなかった。
少なくとも若いころは。
役人になったのは、安定しているからだ。
親がそう言った。親の言うことは、だいたい正しい。正しいが、面白くはない。
奉行所に入って数年、主膳は気づいた。
ここでは、正しいことより「早いこと」が評価される。
丁寧より、滞りない。
疑うより、まとめる。
上は忙しい。忙しい人間は、話を短くしたがる。
短くするためには、削る必要がある。
削るのは、だいたい「確認」だ。
主膳は、それを「融通」と呼んだ。
*
その日、主膳は奉行所の裏手の詰所で、薄い茶をすすっていた。
茶は薄いが、暇ではない。暇ではないふりをするのが、下役人の仕事だ。
「石川」
声をかけてきたのは、同僚の岡部だった。
岡部は主膳より少し年上で、少し要領が悪い。要領が悪いというのは、つまり、正直だ。
「最近、遠州屋の噂、聞いたか」
主膳は、茶碗を置いた。
噂、という言葉に、耳の奥が反応する。
「噂?」
「異国船と何かあるんじゃないかって話だ。まあ、酒場の戯言だろうが」
岡部はそう言って肩をすくめた。
戯言。
その言葉は、主膳にとって便利でもあり、惜しくもあった。
戯言というのは、拾わなくていい。
だが、拾えば話になる。
「どこで?」
「日本橋の裏だ。船宿のあたり」
主膳は頷いた。
場所が具体的だと、話は形を持ち始める。
「ありがとう。念のため、聞いておく」
岡部は少し驚いた顔をした。
「本気で調べるのか?」
「調べるほどじゃない。ただ、頭に入れておくだけだ」
主膳はそう言って立ち上がった。
頭に入れておく。
それは、何もしないという意味でもあり、何かする準備でもある。
*
奉行所の仕事には、「調べすぎない」という判断がある。
調べすぎると、話が大きくなる。
大きくなると、上の判断が必要になる。
上の判断が入ると、時間がかかる。
時間がかかると、評価が下がる。
主膳は、その流れを嫌というほど知っていた。
だから、噂は噂のまま、薄く広く拾う。
拾った噂を、整える。
整えた噂を、書類にできる形にする。
書類にできる形とは、つまり、責任の所在がぼやけた形だ。
主膳は、日本橋の裏へ向かった。
岡っ引きを使うほどではない。自分の足で十分だ。
自分の足で歩くと、「働いている感」も出る。
*
酒場は昼間でも開いていた。
昼から飲む人間は、口が軽い。
「遠州屋?」
主膳がそう切り出すと、男はすぐに頷いた。
「ああ、なんかあるらしいな」
「何が?」
「さあな。異国船とか、密貿易とか」
「見たのか?」
「見るわけねえだろ」
男は笑った。
笑いながら言う嘘は、本人にとっては本当の一部だ。
「誰から聞いた」
「佐吉ってやつが言ってた」
名前が出た。
主膳の中で、話が一段階だけ具体化する。
「佐吉?」
「下町のやつだ。博打打ち」
博打打ち。
信頼度は低い。だが、完全に無視するほどでもない。
主膳は、この名を帳面には書かなかった。
噂の出所を書くと、話の信憑性が下がる。出所を書かなければ、噂は「広く流れている」ことになる。
書類の上では、個人より「世間」のほうが強い。
だが「書いた」という事実は、あとで使える。
*
奉行所に戻った主膳は、書類を広げた。
遠州屋。
廻船問屋。
品目。
取引先。
どれも、普通だ。
普通すぎる。
ただ、ひとつだけ気になることがあった。
帳簿の一部、運賃の記載が別帳に回されている。これ自体は違法ではない。だが、見方によっては「何かを隠している」ようにも見える。
主膳は、その「見方」を選んだ。
普通なものを、怪しく見せるのが仕事だ、とは主膳は思っていない。
だが、普通なものは、少し整えると「それらしく」なる。
たとえば、異国船。
遠州屋が直接関わっていなくても、廻船を扱う以上、どこかで接点はある。
接点がある、という言い方は便利だ。
関わっている、とは言っていない。
主膳は、紙の上に言葉を並べた。
“遠州屋、異国船との取引の噂あり”
噂あり。
それは事実だ。噂は、確かにある。
“確認中”
確認中。
これは魔法の言葉だ。
何もしていなくても、仕事をしていることになる。
主膳は、筆を止めた。
ここで止めれば、何も起きない。
だが、ここで一歩進めば、話は動く。
主膳は考えた。
この話を上に出せば、どうなる。
上は忙しい。
忙しい上は、「じゃあ、誰か捕まえとけ」と言うかもしれない。
誰か。
遠州屋の誰か。
主膳は、遠州屋の人間の顔を思い浮かべた。
番頭。
手代。
小僧。
捕まえやすいのは、誰だ。
*
傳次郎の名を知ったのは、そのときだった。
帳場を任されている若い手代。
評判がいい。
算盤ができる。
つまり、帳簿を扱っている。
若い。若いということは、後ろ盾が弱い。
評判がいい。評判がいいということは、落とせば目立つ。
帳簿を扱っている。帳簿を扱っている人間は、数字の辻褄が合わなければ、それだけで怪しく見える。
主膳は、少しだけ胸が高鳴るのを感じた。
高鳴りは、野心ではない。
仕事が「形になる」予感だ。
主膳は、書類の端に小さく名前を書いた。
傳次郎。
それだけで、器はできた。
中身は、あとから入れればいい。
*
主膳は、自分が悪いことをしているとは思っていなかった。
噂を拾い、整え、上に渡す。
それが仕事だ。
もし違っていたら。
もし無実だったら。
そのときは、そのときだ。
奉行所には、そういう言葉がたくさんある。
「念のため」
「万一に備えて」
「誤解があってはならない」
誤解があってはならないから、捕まえる。
捕まえてから、調べる。
順番が逆だということに、主膳は気づかない。
気づく必要もない。
主膳は書類をまとめ、上役の机に置いた。
「遠州屋の件です」
「噂か」
「はい。ただ、帳場を預かる者が関わっている可能性が」
上役は、書類をぱらりとめくった。目は、文字を追っていない。ただ、形を確認しているだけだ。
「ふむ。最近、異国絡みはうるさいからな。念のため、押さえておけ」
「押さえる、ですか」
「ああ。調べは後でいい」
それだけ言って、朱を入れた。
朱が入る。
それは、話が動き出す合図だ。
*
詰所に戻る途中、主膳はふと立ち止まった。
胸の奥に、何か引っかかるものがあった。
──本当に、これでいいのか。
傳次郎という名前。顔も知らない男。その男が、本当に悪いことをしているのか。
だが、その問いは長く続かない。
悪いかどうかは、自分が決めることではない。上が決めることだ。自分は、ただ器を用意しただけだ。
仕事とは、与えられた器を満たすことだ。
器が先で、中身はあと。
主膳は、空っぽの器を差し出した。
事実と書類の隙間に置かれた器は、空っぽでも、罪の形をしていた。
帳簿の端の小さな欠落。
酒場の片隅の軽い噂。
詰所の机の上の薄い書類。
それらは、一つ一つは取るに足らない。
だが、重なると、人ひとりを潰すのに十分だった。
奉行所の廊下を、主膳は軽い足取りで歩いた。
今日も仕事をした。
滞りなく。
それが、石川主膳という男の、一番の誇りだった。
その夜、遠州屋の傳次郎は、いつも通り帳場を閉じた。
明日も、いつも通りの朝が来ると信じて。




