第七話|準備は静かに
――返すための準備は、音を立てない
準備は、音がしない。
音がするとき、それはもう準備ではない。
始まっている。
巌助は、帳面を二つに分けた。
一つは、金の帳面。
一つは、人の帳面。
人の帳面には、名前を書かない。
書くと、物語が始まる。
代わりに、癖を書く。
帳簿を急ぐ癖。
噂を先に拾う癖。
決裁を一人で抱えたがる癖。
癖は、年を取っても変わらない。
立場が変わると、目立つ。
最初に浮かんだのは、権蔵だった。
浮かんで、すぐに消えた。
まだ早い。
権蔵は、今も帳簿の中にいる。
帳簿の中にいる人間は、外から触ると、守られる。
次に浮かんだのは、佐吉だった。
軽い男は、重い場に置くと壊れる。
だが、置くには理由が要る。
理由を作ると、こちらが動いたことになる。
最後に、主膳の名が、名のない形で残った。
制度の中で育った男は、制度の外に弱い。
だが、制度は、外から殴ると反撃する。
巌助は、三人を並べなかった。
並べると、標的になる。
一人ずつ、別々の場所に置く。
その夜、商人が一人、訪ねてきた。
「殿……少し、耳に入れたい話が」
巌助は、頷いた。
話を聞くことは、動くことではない。
「昔の遠州屋の帳簿ですが……」
その一言で、巌助の中の時間が、わずかに歪んだ。
歪んだが、崩れない。
「合わない行があると」
商人は、断定しなかった。
断定しない話は、長く使える。
巌助は、算盤を弾かなかった。
弾く必要がない。
合わない一行がある、という事実だけで、十分だ。
「今は、触らないでください」
巌助は、そう言った。
命令ではない。
助言だ。
助言は、従われやすい。
商人は、深く頭を下げた。
頭を下げる角度が、少し深くなっている。
人の帳面に、一行だけ、書き足す。
「帳簿/正確さに弱い」
準備は、揃ってきている。
だが、まだ、触らない。
触ると、こちらの癖が出る。
巌助は、灯を落とした。
怒りは、まだ眠っている。
眠っている怒りは、腐らない。
返す準備は、相手の人生の中に、自然に置かれなければならない。
押し込むと、暴れる。
殿は、もう立っている。
だが、動かない。
動かない殿は、人に考えさせる。
考えさせられた人間は、自分で、穴を掘る。
準備は、静かに整った。
あとは、相手が、自分の足で、その場所に来るのを待つだけだ。
夜は、特別ではない。
それでいい。




