第五話|殿と呼ばれる日
──名は、場を安定させるために置かれる
呼んだのは、商人だった。
正確に言えば、商人たちの代表を自認している男だった。
場所は、問屋町の外れにある貸座敷。
表通りから一筋入っただけで、人の声が届きにくくなる。
密談に向いた場所だ。
男は、先に来て、座敷を見回していた。
座布団の位置。
茶の配置。
出入口との距離。
どれも、意図的だ。
「今日は、皆の顔を立てたい」
男は、同席する商人たちにそう言った。
顔を立てる、というのは、誰かの顔を先に決める、という意味でもある。
巌助が現れたとき、場の空気が、一段静かになった。
ざわめきが消える、というより、音が一段、下がる。
「こちらへ」
男は、真ん中ではない席を示した。
上座でも、下座でもない。
判断を委ねる位置。
巌助は、黙って座った。
自分から話を始めない。
それが、ここまで来た理由だ。
商人の一人が、切り出した。
「……奉行所から、お帰りになったとか」
帰り、という言葉を使った。
行った、ではない。
行ったと言えば、事件になる。
帰ったと言えば、日常になる。
「はい」
巌助は、それだけ答えた。
場の誰も、それ以上を聞かなかった。
聞かない、という合意が、すでに成立している。
男は、ここで一つ、判断を下した。
この場には、上下を決める名前が必要だ。
名前がないと、話が散る。
「……殿」
男は、そう呼んだ。
試すような声ではない。
決めた声だ。
座敷の空気が、固まった。
誰も、訂正しない。
誰も、笑わない。
呼ばれた側が否定しなかったことで、名は、場に座った。
殿、と呼ぶ理由は単純だった。
巌助を上に置くと、この場の責任が、一点に集まる。
誰が決めたのか、誰が飲んだのか。
すべて、「殿」に帰する。
商人たちは、内心で思っていた。
――この男なら、裏切られても、納得できる。
それは、信頼ではない。
諦観に近い安心だ。
「条件は、以前のままでよろしいですか」
男が聞いた。
殿、と呼んだ以上、伺いを立てる形を取る。
「変えません」
巌助は、短く答えた。
即答だった。
即答できる条件は、長く続く。
話は、それで終わった。
交渉は、ない。
説得も、ない。
決まるべきことは、すでに決まっていた。
巌助が立つと、誰も引き止めなかった。
引き止めない、というのは、立場を固定した、ということだ。
外に出ると、夕暮れだった。
空は、相変わらず特別ではない。
だが、見送る視線が、一様に低くなっている。
巌助は、歩きながら理解した。
殿と呼ばれるのは、敬意ではない。
この町が、自分を使うと決めた印だ。
その夜、帳面に書き足す。
「呼称:固定」
それ以上は、不要だった。
殿と呼ばれる日、巌助は、何も主張しなかった。
主張しない者が、場を支配することがある。
それは、本人の意思とは関係なく、起きる。
そして一度起きると、元には戻らない。




