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大江戸巌窟殿 恨みは捨てない── ただ、置き場所を決める  作者: 真野真名


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第三話|順番を信じる男

 ──世の中には、順番というものがある。あるはずだ





 佐吉は「世の中は順番でできている」と信じていた。

 信じる、というより、そうであってくれないと困る。順番が崩れた世界では、自分みたいな人間はどこにも立つ場所がない。


 順番。

 生まれた家。

 持ってる金。

 背丈。

 声の大きさ。

 顔のつくり。

 酒の強さ。

 運の良さ。


 それらが決まっていて、その順に人は落ち着くべきだ。

 上にいるやつは上にいればいい。下にいるやつは、黙って下にいればいい。そうすれば揉めない。揉めないから、殴られない。殴られないから、生きられる。


 佐吉は、そうやって生きてきた。


     *


 佐吉は下町の長屋育ちだ。

 今年で十八。日雇いの仕事を転々としながら、賭場通いをやめられずにいる。

 父は日雇い、母は内職。兄弟は多い。多い兄弟の中で、佐吉は三番目にどうでもいい子だった。上には働ける兄が二人いて、下には泣くのが仕事みたいな弟妹がいる。真ん中にいる佐吉は、働けるほど大きくなく、泣いてもかまってもらえるほど小さくない。


 だから佐吉は、早くに「器用さ」を覚えた。

 人の顔色を読む。

 場に合わせて笑う。

 ちょっとした嘘をつく。

 借りた銭を返すふりをする。

 返せないなら、返せない理由をもっともらしく並べる。

 そういうのを、学校で習う前に身につけた。


 そしてもう一つ、佐吉には特技があった。


 博打だ。


 博打は、順番を一瞬だけ壊す。

 順番の下にいる者が、上にいる者の懐へ手を突っ込める。

 ただし、勝ったときだけ。

 負けたら、順番はもっと強固になる。

 負けた者は下へ沈む。沈んだら、そこが底とは限らない。底の下に、さらに暗い場所がある。

 佐吉はそれを知っていた。知っているのに、やめられない。

 博打の魔力というのは、勝ち負けではない。

 「勝てる気がする」瞬間にある。


 佐吉は、その瞬間が好きだった。


     *


 その日、佐吉は船宿の裏手の小さな賭場にいた。

 板敷きの部屋に、男たちの熱気と煙草の煙がこもっている。外は昼間なのに、ここだけ夜みたいだ。こういう場所にいると、世の中の順番が一時停止する。少なくとも、そういう気分になる。


「佐吉、今日は乗るか?」


 声をかけてきたのは顔役の男で、名を与兵衛という。顔役といっても、役所の役人ではない。賭場の役。つまり、だいたい碌でもない。


「乗るよ。今日はね、妙に勝てる気がする」


 佐吉はそう言って、懐から小銭を出した。

 昨日、母に「米代」と言って預かったものだ。罪悪感は薄い。罪悪感を感じるほど、佐吉はまだ大人じゃない。

 札が回り、サイが転がり、声が飛ぶ。

 佐吉は序盤、勝った。勝つと心が軽くなる。軽くなると口が回る。


「世の中ってのは順番だよな。順番を守ってりゃ、いいんだよ」


 隣の男が笑った。


「順番? 博打打ってるやつが言うな」


「博打は別だよ。博打は……こう、順番の確認みたいなもんだ」


「確認してどうすんだよ」


「俺が上に行けるかどうか、だよ」


 佐吉はそう言って笑った。

 笑いながら、心の中では違うことを考えていた。

 ──上に行きたい。


 ただ、それだけだ。


     *


 佐吉が「上に行きたい」と思うようになったのは、傳次郎のせいでもある。

 傳次郎。遠州屋の手代。算盤が早い、まじめ、評判がいい。

 佐吉は傳次郎と幼なじみだった。長屋が近かったから、ガキの頃は一緒に川で魚を取ったり、棒っきれで喧嘩ごっこをしたりした。


 だが、いつの間にか差がついた。

 傳次郎が遠州屋に入ったとき、佐吉は日雇いで荷揚げをしていた。ある日、川沿いで偶然会った。

 傳次郎は帳場の帰りで、手に算盤を持っていた。


「佐吉、元気か」

 傳次郎はそう言って笑った。


 泥だらけの佐吉と、きちんとした着物の傳次郎。その対比が、佐吉の胸に刺さった。

 傳次郎は「期待される側」になり、佐吉は「そのへんにいる側」になった。

 しかも傳次郎は、佐吉のことを見下さない。そこがまた腹立たしい。


「佐吉、また賭け事か」


 そう言って眉をしかめるでもなく、ただ困った顔をする。

 困った顔をされると、佐吉は自分が悪いみたいになる。

 自分が悪いみたいになると、腹が立つ。

 だから佐吉は、傳次郎に対して、いつも少しだけ刺さった言葉を返す。


「お前はいいよな。遠州屋の帳場で、座ってりゃ銭が入ってくる」


「座ってるだけじゃないよ。働いてる」


「働いてる、ねえ」


 佐吉は、そこで笑う。笑いながら、心の中で舌打ちする。

 働いてる。真面目。誠実。将来有望。

 そういう言葉は、順番の上にいる者のために用意された飾りだ。

 佐吉は順番の下にいる。だから飾りがない。

 飾りがないから、みすぼらしい。

 みすぼらしいと、お美津の目がこちらを向かない。


 そう、結局のところ、佐吉はそこへ戻る。


     *


 お美津は、伝次郎の許嫁だ。

 その事実は、佐吉の胸の中で、いつもじわじわと腐っている。

 腐る、というのは悪い言い方ではない。

 佐吉にとっては、まるで梅雨時に台所の隅へ落ちた野菜みたいに、最初は「まあいいか」と放っておいたものが、いつの間にか匂いを放ち始めて、気づいたら部屋全体に広がっている、そういう類のものだ。


 佐吉は、お美津が好きだった。


 十三のとき、祭りの夜、お美津が迷子になった子どもを助けているのを見た。あの優しい笑顔を、佐吉は忘れられない。あの笑顔を、いつか自分に向けてほしいと思った。


 その後、遠州屋の向かいの小間物屋の娘になっていくにつれて、佐吉の好きはだんだん「悔しい」に変わった。

 悔しい。

 何が悔しいのか。

 自分が選ばれなかったことが悔しい。

 選ばれなかったのは順番のせいだ。

 順番のせいなら、誰かが悪いわけではない。

 誰かが悪くないのに、悔しいのは腹立たしい。

 だから、佐吉は考えた。

 ──順番を壊せばいい。


 壊すには、どうすればいい。

 金だ。金があれば順番は変わる。

 博打で勝てばいい。勝てば、金ができる。

 金ができれば、女はこっちを見る。

 そんな単純な式を、佐吉は信じた。


 信じるしかなかった。


     *


 賭場で佐吉は、終盤、負け始めた。

 最初に勝ったぶんを吐き出し、さらに飲み込まれる。

 与兵衛が笑う。


「佐吉、今日は勝てる気がするって言ってたじゃねえか」


「今からだよ。今から」


 佐吉はそう言って、懐を探った。

 もう銭はない。あるのは、質屋に持っていけば銭になるかもしれない、古い簪と、母からくすねた小さな銀の指輪。

 指輪は、亡くなった祖母の形見だと母から聞いていた。針箱の奥に大事にしまわれていた。それを持ち出すとき、佐吉の手は少しだけ震えた。


 佐吉は、それを握った。

 

 握った瞬間、指輪が妙に冷たく感じた。冷たいものを握ると、心が熱くなる。人間はよくできている。


「乗る」


 佐吉は言った。

 そして、負けた。

 負けた瞬間、世界の順番が戻ってくる。

 戻ってくるどころか、強化される。

 佐吉は順番の下へ沈んだ。沈んだ先で、さらに下があることを思い出す。


 ──くそ。


 佐吉は歯を食いしばった。

 歯を食いしばっても銭は増えない。

 増えない銭を増やすには、口を動かすしかない。


 佐吉は、賭場を出たあと、路地で煙草を吸いながら考えた。

 銭がない。

 銭がないと、順番は変わらない。

 順番が変わらないと、お美津はこっちを見ない。

 こっちを見ないなら、傳次郎が全部持っていく。

 全部。

 その言葉が、佐吉の頭の中でぐるぐる回った。


 そのとき、ふと、遠州屋のことを思い出した。

 帳簿。

 廻船。

 品物。

 金の流れ。

 あそこには、銭がある。

 銭が動いている。

 動いているものは、少しズラせばいい。

 佐吉は笑った。

 笑いながら、胸の奥がひやりとした。

 ──俺は、悪いことを考えてるのか?


 だがその問いは、すぐに消えた。

 悪いかどうかより、必要かどうかの方が佐吉には大事だった。


     *


 夜、長屋に戻る道すがら、佐吉は酒場の前を通った。

 中から笑い声が聞こえる。

 笑い声の中には、誰かの愚痴も混じっている。


「遠州屋は景気がいいらしいぜ」


 そんな言葉が、佐吉の耳に入った。

 佐吉は足を止めた。


「景気がいいって言ったってよ、異国船と何かあるんじゃねえのか?」


 別の声が言う。

「そういうのは、奉行所が調べるんじゃねえか」

「奉行所ねえ。あそこの与力の石川主膳って、やたら出世に熱心だって聞いたぜ」


 冗談だろう。たぶん。

 冗談は、順番の上の者を引きずり下ろすのに便利だ。冗談だから、言った本人は責任を取らない。

 佐吉は、胸の中で何かが「カチ」と鳴るのを感じた。

 算盤の音とは違う。

 もっと小さくて、硬い音だ。


 佐吉は、酒場の暖簾をくぐった。

 中の空気は湿っていて、人の匂いが濃かった。


「おう、佐吉じゃねえか」


「ちょっと一杯やろうと思ってさ」


 佐吉は笑って座った。

 笑いながら、頭の中では、さっきの言葉を反芻していた。

 異国船。

 遠州屋。

 何かあるんじゃねえのか。

 その言葉は、真実ではない。

 真実でないからこそ、使える。

 噂というのは、真実に寄り添うふりをして、勝手に足を生やす。

 そして、人の足より速く走る。

 佐吉は、その足を、ほんの少しだけ押してやろうと思った。


 押すだけだ。

 転ばせるつもりはない。

 ──この時点では。


 順番を信じる男は、順番を壊すために、噂という小さな石を転がし始めた。


「なあ、遠州屋って、最近妙に羽振りがいいよな」


 佐吉は、わざとらしくない口調で言った。

「異国船でも相手にしてんじゃねえの?」


 隣の男が笑った。

「まさか。あんな堅い店が」

「だよな。まさか、な」

 佐吉は笑った。笑いながら、酒を飲んだ。


 その言葉は、たぶん明日には別の誰かの口から出る。

 出たら、それはもう佐吉の言葉ではない。

 石は、転がり始めると止まらない。

 止まらないことを知っている人間は少ない。

 知っていても、止められる人間はもっと少ない。

 佐吉はまだ、その少ない側ではなかった。


 その翌日、佐吉は遠州屋の裏手で、偶然権蔵と出くわした。

 権蔵は帳面の束を抱えていた。二人は、一瞬だけ目を合わせ、それから黙って別れた。

 だがその目には、互いに何かが見えていた。

 同じ匂い。



 それは、順番を壊そうとしている者の匂いだった。






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