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大江戸巌窟殿 恨みは捨てない── ただ、置き場所を決める  作者: 真野真名
第四章 巌窟殿は陰の中

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第二話|御三家の影

――疑われることは、証明よりも強い




 その話は、誰かが言い出したわけではなかった。


 気づいたら、そこにあった。

 置き忘れられた荷のように、誰のものでもない顔をして。



「……妙だと思わないか」


 最初にそう言ったのは、年寄りの商人だった。

 妙、という言葉は、断定を避ける。


「金の出どころが、はっきりしない」


 はっきりしない。

 それは、怪しいとも、怪しくないとも言える。


「だが、荒れてもいない」


 荒れていない金は、使い慣れている。


 別の男が、杯を置いた。


「奉行所も、妙に触らない」


 触らない、というのは、知らないとは違う。

 知っていて、触らない。


 その差は、大きい。




 巌助は、その場にいなかった。

 だが、話は彼の周りを回っていた。


 本人がいないところで進む話ほど、勢いがつく。


「名を出さない」

「家を持たない」

「人を抱えない」


 それらは、慎重さの証拠でもあり、血筋の匂いにもなる。

 人は、説明のつかない慎重さに、由緒を当てはめたがる。



「御三家の……」


 その言葉は、途中で止まった。

 止まることで、完成する。


 最後まで言うと、否定される。

 途中で止めると、考えさせる。



 噂は、形を変えた。


「殿と呼ばれているらしい」

「呼ばせているわけじゃない」


 呼ばせていない、という事実が、逆に効く。


 名を欲しがらない者は、名を持っているように見える。




 巌助は、後になって、その話を聞いた。


 聞いたが、驚かなかった。


 御三家。

 血筋。

 落胤。


 どれも、自分には関係がない。


 だが、関係がないことと、使えないことは、別だ。



 玄斎の言葉が、思い出される。


 ――期待を、利用しろ。


 期待は、裏切ると敵になる。

 だが、触らなければ、壁になる。



 巌助は、何もしなかった。


 否定しない。

 肯定しない。


 噂に、手を触れない。


 触れない噂は、勝手に育つ。


 


 奉行所でも、その話は届いていた。


「巌助、という男」


 名が出る、ということは、無視できない、ということだ。


「調べますか」


 若い役人が聞いた。


 上役は、首を振った。


「調べる理由がない」


 理由がない、というのは、触らない理由になる。


 理由のない沈黙は、噂にとって最高の餌だ。



 巌助は、帳面を見た。


 数字は、変わらない。

 だが、人の視線が、少し変わった。


 慎重になる。

 距離を取る。


 それは、信用の初期症状だ。


 巌助は、思った。


 ――疑われる立場は、守られている。


 証明は、崩せる。

 疑いは、崩しにくい。




 その夜、巌助は、灯を落とした。


 明るくすると、顔が見える。

 顔が見えると、正体を探られる。


 影のままの方が、長く立っていられる。



 御三家の影は、彼の背後に、勝手に伸びた。


 伸びた影は、本人より、先に歩く。


 巌助は、その影を、踏まないように、歩いた。




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