第六話|名前を捨てる
――名は、軽くなったときに役に立つ
名前を捨てる、というのは、声を失うことではない。
むしろ逆だ。
余計な声が消える。
***
傳次郎は、川沿いの小さな宿に入った。
暖簾は擦り切れているが、視線は少ない。
少ない視線は、安全だ。
「お名前を」
女中が帳面を差し出した。
その一言で、世界が一瞬、止まる。
名は、まだある。
だが、使うと戻る。
戻るというのは、捕まるという意味ではない。
物語に戻る、という意味だ。
冤罪の少年。
哀れな囚人。
無実の被害者。
どれも、便利で、危険だ。
傳次郎は、少しだけ考えた。
――重くない名。
誰にも期待されない名。
呼ばれても、振り返らなくていい名。
「……巌助」
口に出してみる。
石のような響きだ。
冷たく、丸い。
「巌助、様」
女中は、何も考えずに書いた。
それでいい。
部屋に入ると、傳次郎は、息を吐いた。
長く。
名を捨てると、肩が軽くなる。
夜、鏡代わりの水面に顔を映す。
変わっていない。
だが、変わっていく。
名前が、人を作るのではない。
人が、名前を重くする。
重くしなければ、使える。
翌朝、巌助は町へ出た。
歩き方を変える。
視線を落とす。
急がない。
目立たない、というのは技術だ。
最初にしたのは、金を分けることだった。
持ちすぎると、顔に出る。
顔に出ると、寄ってくる。
寄ってくるものは、だいたい厄介だ。
銀は、三つに分けた。
一つは、すぐ使う分。
一つは、預ける分。
一つは、忘れる分。
忘れる分、というのが大事だった。
人は、全部覚えていると、失う。
巌助は、算盤屋に入った。
新しい算盤を買う。
手触りを確かめる。
珠の音を聞く。
音は、静かだ。
派手な音は、信用を削る。
***
その日、巌助は、誰とも深く話さなかった。
深く話すと、名が要る。
名が要る話は、まだしない。
宿に戻り、帳面を開く。
紙に、二つの名前を書く。
傳次郎。
巌助。
そして、線を引く。
線は、境界だ。
越えなければ、守られる。
その夜、巌助は夢を見なかった。
夢を見ない眠りは、計画に向いている。
起きたとき、心は静かだった。
怒りは、まだ眠っている。
眠ったままで、いい。
名を捨てた者は、世界に触れても、傷つきにくい。
期待されないからだ。
期待されない者は、自由に選べる。
巌助は、外へ出る準備を整えた。
江戸へ戻るか。
それとも、回るか。
まだ、決めない。
決めないという選択も、学問の一つだ。
***
名前を捨てた日、傳次郎は、静かに終わった。
巌助は、まだ始まっていない。




