表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大江戸巌窟殿 恨みは捨てない── ただ、置き場所を決める  作者: 真野真名
第三章 名前は穴の中

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

24/34

第六話|名前を捨てる

――名は、軽くなったときに役に立つ




 名前を捨てる、というのは、声を失うことではない。

 むしろ逆だ。

 余計な声が消える。


 ***


 傳次郎は、川沿いの小さな宿に入った。

 暖簾は擦り切れているが、視線は少ない。


 少ない視線は、安全だ。


「お名前を」


 女中が帳面を差し出した。


 その一言で、世界が一瞬、止まる。


 名は、まだある。

 だが、使うと戻る。


 戻るというのは、捕まるという意味ではない。

 物語に戻る、という意味だ。


 冤罪の少年。

 哀れな囚人。

 無実の被害者。


 どれも、便利で、危険だ。



 傳次郎は、少しだけ考えた。


 ――重くない名。


 誰にも期待されない名。

 呼ばれても、振り返らなくていい名。


「……巌助」


 口に出してみる。


 石のような響きだ。

 冷たく、丸い。


「巌助、様」


 女中は、何も考えずに書いた。

 それでいい。



 部屋に入ると、傳次郎は、息を吐いた。

 長く。


 名を捨てると、肩が軽くなる。


 夜、鏡代わりの水面に顔を映す。


 変わっていない。

 だが、変わっていく。


 名前が、人を作るのではない。

 人が、名前を重くする。


 重くしなければ、使える。



 翌朝、巌助は町へ出た。


 歩き方を変える。

 視線を落とす。

 急がない。


 目立たない、というのは技術だ。



 最初にしたのは、金を分けることだった。


 持ちすぎると、顔に出る。

 顔に出ると、寄ってくる。


 寄ってくるものは、だいたい厄介だ。


 銀は、三つに分けた。


 一つは、すぐ使う分。

 一つは、預ける分。

 一つは、忘れる分。


 忘れる分、というのが大事だった。


 人は、全部覚えていると、失う。


 巌助は、算盤屋に入った。

 新しい算盤を買う。


 手触りを確かめる。

 珠の音を聞く。


 音は、静かだ。


 派手な音は、信用を削る。


 ***


 その日、巌助は、誰とも深く話さなかった。

 深く話すと、名が要る。


 名が要る話は、まだしない。



 宿に戻り、帳面を開く。


 紙に、二つの名前を書く。


 傳次郎。

 巌助。


 そして、線を引く。


 線は、境界だ。

 越えなければ、守られる。



 その夜、巌助は夢を見なかった。

 夢を見ない眠りは、計画に向いている。


 起きたとき、心は静かだった。


 怒りは、まだ眠っている。

 眠ったままで、いい。



 名を捨てた者は、世界に触れても、傷つきにくい。


 期待されないからだ。


 期待されない者は、自由に選べる。



 巌助は、外へ出る準備を整えた。


 江戸へ戻るか。

 それとも、回るか。


 まだ、決めない。


 決めないという選択も、学問の一つだ。


 ***


 名前を捨てた日、傳次郎は、静かに終わった。


 巌助は、まだ始まっていない。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ