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大江戸巌窟殿 恨みは捨てない── ただ、置き場所を決める  作者: 真野真名
第三章 名前は穴の中

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第五話|荒れ寺の床下

――執念は、金の形をしていない




 荒れ寺は、昼になると余計に荒れて見えた。


 夜のあいだは、雨と闇が、崩れを均してくれる。

 だが、陽が差すと、欠けた柱も、落ちた屋根も、すべてがはっきりする。


 はっきりする、というのは、逃げ場がなくなるということだ。


***


 傳次郎は、堂の前に立ち、少しだけ時間を置いた。

 朝の空気は、冷たい。


 誰もいない。

 それを確認するために、視線を巡らせる。


 玄斎の言葉が、頭に残っている。


 ――期待に応えるな。期待を利用しろ。


 期待されていない場所は、安全だ。


 床板を外すと、昨日と同じ匂いがした。

 土と木と、わずかな金属。


 昨日は触れなかった包みを、今日は引き上げる。


 重い。

 だが、重すぎない。


 持てる重さというのは、人を油断させる。



 包みを開くと、銀が姿を現した。

 形はまちまちだ。

 新しいものも、古いものもある。


 量は、多い。

 だが、思ったほどではない。


 ――一生遊んで暮らせるほどではない。


 傳次郎は、そう判断した。

 判断できることが、少し嬉しい。


 銀の下に、書付がある。

 それが、本体だ。


 紙は、上質ではない。

 だが、無駄がない。


 日付。

 名前。

 数字。


 どれも、断定を避けて書かれている。


 「〜と思われる」

 「〜の形跡あり」

 「一致する点が多い」


 玄斎の癖だ。


 傳次郎は、紙を一枚ずつ、丁寧に見た。

 読む、というより、触れる。


 墨の濃さ。

 筆圧。

 書き直しの跡。


 ここには、怒りがない。

 だが、執念がある。



 執念は、叫ばない。

 叫ばないから、長く続く。


 玄斎は、叫ばなかった。

 だから、ここまで掘れた。



 書付の中には、奉行所の名もあった。

 遠州屋の名もあった。

 だが、それらは並列だ。


 善悪の区別がない。


 あるのは、流れだけだ。


 金の流れ。

 噂の流れ。

 責任の流れ。


 傳次郎は、理解した。


 これを持って奉行所へ行けば、何人かは困る。


 だが、困るだけだ。


 世界は、困るだけでは変わらない。



 銀と書付を、別々に包み直す。


 一緒にすると、意味が混じる。


 混じった意味は、扱いづらい。



 床下に戻す包みと、持っていく包みを分ける。


 全部を持たない、という判断ができる。


 それが、巌窟牢で得た一番の学問だった。



 堂を出る前、傳次郎は振り返った。


 仏の顔は、半分欠けている。

 だが、怒ってはいない。


 期待も、していない。


 その無関心が、心地よかった。


 ***


 荒れ寺を離れながら、傳次郎は考えた。


 この金は、復讐のためではない。

 生活のためでもない。


 信用を作るための、道具だ。


 信用は、声を張らない者に集まる。



 名は、まだ捨てていない。

 だが、使う気もない。


 名前を使わずに生きるには、金と沈黙が要る。


 その二つは、今、手の中にある。


 ***


 荒れ寺は、背後でまた静かになった。


 執念は、地中に残る。

 だが、使うのは、生きている者だ。


 玄斎の遺したものは、金ではない。


 時間と、視点と、選択肢だった。




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