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大江戸巌窟殿 恨みは捨てない── ただ、置き場所を決める  作者: 真野真名
第三章 名前は穴の中

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第三話|脱獄

――自由は、あとから身体に届く




 雨は、音から来た。


 最初は、葉を打つ音。

 次に、土を叩く音。

 最後に、遠くの屋根を洗う音。


 音が増える夜は、世界が散らばる。

 散らばった世界は、見張りに向かない。


 ***


 傳次郎は、荒れ寺の裏で立ち止まった。

 抜け道を出てから、どれほど歩いたのか分からない。


 分からないが、足は動いていた。

 動いている間は、考えなくていい。


 寺は、使われていない。

 屋根は落ち、柱は傾き、仏の顔も欠けている。


 欠けているものは、見張られない。


 傳次郎は、玄斎の言葉を思い出した。


 ――外に出たら、名前を捨てろ。


 雨脚が強くなる。


 傳次郎は、堂の軒下に身を寄せた。

 身体が、ようやく震え始める。


 寒さではない。

 緊張が、解け始めたのだ。


 ――終わった。


 そう思おうとして、やめた。


 終わったと思った瞬間、人は油断する。

 油断は、捕まる。


 足音が、遠くで聞こえた気がした。

 気がした、だけだ。


 雨は、音を増やす代わりに、意味を薄める。


 意味が薄い音は、判断を遅らせる。


 傳次郎は、息を殺し、動かなかった。

 動かない、という選択ができる。


 それが、牢の外で最初に使った学問だった。


 しばらくして、足音は消えた。

 消えたのか、最初からなかったのかは、分からない。


 分からないことは、追わない。


 雨の中、傳次郎は、堂の床下に手をかけた。


 床板は、思ったより軽い。

 誰かが、何度も開け閉めした跡がある。


 玄斎だ。


 床下には、包みがあった。

 油紙に幾重にも包まれている。


 開けると、銀の冷たさが指に伝わる。


 量は、多い。

 だが、数えない。


 数え始めると、意味が変わる。


 銀の下に、紙の束があった。

 書付だ。


 墨は、まだ濃い。

 時間が、計算されている。


 誰が、どこで、何をしたか。

 だが、断定はない。


 断定しない書付は、使い方を選ぶ。


 傳次郎は、包みを元に戻した。

 今は、持たない。


 持つと、歩き方が変わる。


 雨は、少し弱まっていた。


 空を見上げると、雲が低い。

 星はない。


 星がない夜は、自由に向いている。


 ***


 傳次郎は、堂を出た。


 一歩、踏み出す。


 その一歩は、軽くなかった。

 だが、確かだった。


 自由だ、という言葉は、まだ浮かばない。


 浮かばない代わりに、身体が覚えている。


 足が、勝手に前へ出る。

 呼吸が、深くなる。


 それが、自由の正体だ。


 傳次郎は、名を持たないまま、闇を歩いた。


 振り返らない。

 急がない。

 目立たない。


 巌窟牢は、もう背後にある。

 だが、終わってはいない。


 終わりは、まだ遠い。




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